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王都観光案内(上)

作者: kanna24

主要登場人物


  ナフィル・・・魔術師見習い。

  アスリン・・・女性ながら騎士を目指す少女。

  エイブス・・・護衛で雇われた元傭兵。

  ビジット・・・同行を命じられた徴税官。

  タウス・・・ビジットの護衛として雇われた傭兵。

  ユーリ・・・「王都」の案内人。


観光への誘い


役割を終え、飲み込まれようとしていた。

勧告に従って多くの魔術師たちが離れていく。

「あなたは行かないの?」

問われた男は、空虚な笑みを返した。

まるで無位無官となった自分の立場を示したかのような、それは的確な表現だった。

「捨てられたのだ。今更私に何の価値があろうか」

担ぎ上げられた男は、利用価値を失って見放された。

「それがあなたの意義だったのでしょう」

何の感慨も抱かずに事実を告げる。

そして、

「でも、それは役割を終えただけ。それだけのことよ」

あっさりとそう言い切った。

男は押し黙ったまま。

「ここもそう。役割を終えたから戻るだけ」

そう言って微笑む。

その微笑みは、しかし男を追い詰めていた。

役割を終えたのなら、もはや自分が存在する意味は無い。価値も無い。

「私は・・・私には、何の力も無い。家に戻れもすまい」

「そうね。だから私は強要はしないわ」

そう言って、踵を返す。

「もう行くのか?」

足取りは軽く、まるで散歩がてら外の様子を見に行くように。

「お前はどうする?」

謁見の間から外へと通ずる開け放たれた扉から、

「私と共にある王都だもの。私の為すべきことをするだけよ」

とだけ言って、その場を離れた。

もう男への興味は無かった。

先の無いものより、これからのことの方に期待する。

まだ、ここには存在価値がある。

見えるものよりも見えないものへの好奇心に、待ち続けられる確信があった。


 観光前夜


「王都に行くわよ」

メルキス学術院から戻ったナフィルが、突然そう言い出した。

アスリンは、ともすれば普段の格好よりも似合っている前掛け姿のまま、

「はい、分かりました」

と答えた。

いつものことなので、「王都」が一体どこの王都なのかは聞かない。

一週間くらい野宿が出来る準備をするように言いつけて、ナフィルはすぐ飛び出して行った。

恐らく、遺跡探索の時に頼んでいるエイブスという傭兵に同行をお願いしに行ったのだろう。

街道沿いで行ける王都ではない事は確かのようだ。

とすると、「王都」と言うのは遺跡だろう。

全く想像外のその場所に、アスリンは常識的な準備しか思いつかない。

時々、自分が常識に囚われ過ぎていることを感じさせられることがある。

多少の自負はあった。

志願してナフィルの元を訪れたのだから、つたない知識ながら普通の人よりはよく知っているのだと。

しかしナフィルは、

「そんなことより、まず自分の出来ることを鍛えるべきでしょ?」

とだけ言って、初めから頼りになどしていない素振りだった。

「そもそも私の周りにいる人は常識的な事ばかり言うのよ。でもね、逆にそういう人がいてくれた方が良いとも言われたわ」

と言う説明に、会った事もないこれまでナフィルを助けてきたであろう人たちに親近感が湧く。

みんな、どんな気持ちで支えてきたのだろう?

そして、

「私と共にある人はね、必ず不幸になるのよ」

と言ったナフィルが、果たして本当にその人たちを不幸にしたのかを考えると、自分の思いはそうした人たちと、そう違わないのではないかと思えた。

自分の存在意義については、ナフィルの元を訪れてからずっと、自分の能力に対するもの以上に解答が得られない、アスリンを悩ます最大の問題でだった。

とは言え、取り合えず野宿や旅の支度と、魔術がどうしても重ならないことに、少しだけ気持ちは軽かった。

それにしても、

「1週間分って、持ち運べる量じゃないわよね」

その辺り、恐らくエイブスの方が詳しいに違いない。

この機会に狩りの仕方を教えてもらおうと、アスリンは少し楽しみでもあった。


昨晩の喧騒さの残滓が残る午前中の酒場は、一種独特の寂しさが漂っている。

一仕事を終えた疲労感を携えて、久しぶりに戻ったエイブスが感慨に耽りながら朝食とその雰囲気を味わっていると、

「エイブは居るー?」

と、その雰囲気を無視して現れたナフィルに、エイブスは渋い顔をして迎えた。

その理由を知っている親父が、酒をついで奥へと消える。

「・・・朝から元気だな」

「朝から元気でなくてどうするのよ」

埒もないことを言うなと、斬って捨てる。

「暇そうならまた調査に同行して欲しいんだけど?」

と言うナフィルに、嫌そうな顔をした。

「今戻ってきたところで暇なわけじゃない」

と、反発心から反射的に言い返すが、

「出発は明日だから別に今日がどうだって良いわ。少し遠出になりそうだから宜しく」

と一方的に告げて出て行った。

その後姿を見送ったエイブスは、ため息をついてから、すっかりなくした食欲を叱咤しつつ朝食を口に運ぶ。

「また遺跡かい?」

親父の問いに、

「そうらしいな」

と答えて、酒で流し込んだ。

正直なところ、ナフィルの持ち込む仕事は、興味もあるし旨みもある。

だが、

「俺はまだ若いんだ。何だって俺は親代わりのようにあいつの面倒見てやらなくちゃいけないんだ?」

と言って、エイブスは代金を置くと立ち上がった。

「それでも、行くんだろう?」

また来ると言って背を向けたエイブスに、親父はそう決め付けて声を掛ける。

エイブスは振り返りもせず片手で挨拶を返すと、そのまま出て行った。

確かに、あんなに面倒見の良い奴だっただろうか、と親父は思う。

そうさせる何かが、あの少女にはあるのだろう。それが実利なのか意識的なものかは分かりはしないが。

にしても、

「お伽話が現実にあったら、俺なら関わらんがなぁ」

と、半場呆れ気味に笑ってから、エイブスの無事を祈った。


「随分唐突ですが、本当に許可が下りたのですか?」

意外さを隠すことなく、ナフィルは聞き返した。

「左様、許可が下りたのだ。手続きと報告義務の確認を忘れずにな。向かう際には必ず申告をすること。以上だ」

まるで事務官から受けるような極めて事務的な説明だったが、遺跡の保全と調査をする学術院の権威からの承認だった。

魔術師として、「王都」詣は必ず1度は経験するに違いない。

気が変わるということも無かろうが、いずれ行くつもりだったからすぐのほうが良いに決まっていた。

魔術師見習いという立場のナフィルが、行かない事を選択する理由などあるはずがない。

その日のうちに手続きをし、王都における行動や、得られた知識や経験、魔法具について、提出や報告するように求められ、誓約をさせられた。

面倒なことだとは思うが、禁を破って逃げ切れるほど、ナフィルも甘くは見ていないつもりだった。

少なくとも、学術院に居る誰よりも魔術には精通しているが、この世界でしか生きられない魔術師にとって、規律や秩序を無視して成せるものは限られる。

ナフィルの師も、世俗との関わりを極力避けるようにはしていたが、ついぞその呪縛からは逃れられなかった。

ナフィルとしても、敵対はせずとも馴れ合いはしない、という立場を貫くには、ある程度の関わりを保ち続けなければならなかった。

しかし、世の中は想像以上に甘く無く、夜になって、ナフィルの借家に来客があった。

訪れたのは若いが理知的で少し神経質そうな顔をした男で、ビジットと名乗って徴税官だと告げた。

「同行して、遺跡の宝物を記録させて頂く」

男の言葉に、ナフィルは絶句した。


王都への探索は、これまで4度行われている。

かねてから場所だけは知られていた王都を確認するために送られた1度目の調査隊は、賢者や導師が自ら赴こうともせず、傭兵などを雇って委託したため、魔力を感知することはおろか知識的にも到達することができず失敗した。

そのため、若手の賢者を中心として半年後に2度目の調査が行われたが、予定が過ぎても調査隊が戻らず、遭難したものと思われた。

直ちに捜索隊が送られたが、調査隊を発見することは出来なかった。

ところが王都に偶然たどり着いた。これが実質的な3度目の調査隊となった。

そこで出会った美しい女は、自身を魔術師だと名乗って、2度目の調査隊の末路を語った。

「魔術師以外を迎え入れることは出来ないと警告された」

40人近く居た捜索隊から、2人だけが戻ってそう報告した。

当初は言葉だけだった警告は、捜索隊が強行突破を図った途端に容赦の無い罰となった。

突然息苦しくなって次々と倒れていく中、最後まで残ったのが2人だけだった。

その2人は解放され、事の顛末とそこに居た魔術師と名乗った女の言葉を伝えるため帰された。

しかし、精神的に障害を負ったのか、未知の病に侵されたのか、2人は時々恐慌に襲われたり高熱を発し、発狂して相次いで死んだ。

その後、4度目の探索までは実に20年以上開くことになった。

その4度目の探索は、学術院に迎えられた現代の魔術師、アローム・エルバイオによって行われた。

アロームを迎えた美しい女性魔術師は言った。

「あなたが魔術師と名乗るなら、あなた以外の人間たちを殺しなさい」

アロームは僅かな躊躇を見せた後、20数人の同行者を殺した。

それによってアロームは王都に迎え入れられたが、そのまま戻る事はなかった。


「あなた、王都に行くと言う意味が分かってるの?」

その直前に訪れていたエイブスを含めた3人を前にして、ナフィルは不釣合いな杖で床を突付きながら説明をした。

「無論、私は皆を殺してまで入る気は無いわ。でも実際にどれほどの危険な目に遭うか分からないのよ?」

アスリンは随分と力強い意思のある目でナフィルを見つめている。

しかしエイブスは、志願したわけでもないのにどうして進んで同行を求めたようなことになっているのか、納得しかねる顔をしていた。

「誰の差し金? リュナン導師?」

基本的に政治的干渉を受けない学術院だが、「王都」には特別な重みと意味がある。

遺跡の調査や保全を統括するリュナン導師は三賢者と呼ばれる権威者の一人で、学院の渉外担当でもある。

学術と芸術の総本山で、いかなる勢力の干渉も受けないとは言われているが、そんなはずは無い。

嫌々命じられている、とナフィルが考えたのには、これまでの自分に対する評価が元であって、それは極めて正しい認識だった。

だが、ビジットは僅かに厳しい目付きをしただけで、

「私は自分の意思でこの任務を志願している」

と言って、さほどナフィルの説明に感銘を受けた様子はなかった。

それどころか、

「オルタ傭兵事務所には優秀な傭兵を推薦してくれるよう頼んだ。問題は無い」

と言って立ち上がる。

ナフィルは目を丸く見開いて、その反応に少なからず驚く。

魔術師であるとか、見た目が普通の少女にしか見えないとか、まるでお伽話のような体験が待っているとか、そういったことで余り好意的に思われない身である。

無謀だ。そういった話を今まで聞いていないので、恐怖に対する想像力が欠如しているのではないか?

しかし、何かを問いかけようとする暇も無く、ビジットはナフィルらを顧みることなく出て行った。

明日待ち合わせる打ち合わせだけが用事なのだと、言わんばかりの不躾な態度だった。

「な、何なの? あいつ」

「俺は助けんぞ」

厄介事をすぐ押し付けられるエイブスが釘を刺す。

「勝手についてくる人間を守る義務は私にも無いわよ!」

アスリンが心配そうに二人の成り行きを見守る。

そうは言うが、ナフィルは自分の庇護下に居る人間は守る。

そのことに心配は無かったが、その責任に応えられる力が無いことが、ナフィルに苦悩を強いているのだ。

「学院から来るならともかく、国から送り込んでくるのが怪しいのよ」

ナフィルの言うことにはエイブスも納得がいく。

傭兵はそもそも自由気質が高いので、人を見る目やその機微には敏感だった。

単に王都にある財宝から税を徴収しようとするなら、わざわざ人を送り込むだろうか?

あのビジットという男が、本当に徴税官であるのかには、多少の疑念があった。

「あの〜、もうそろそろおじさんのところに行きませんか?」

ナフィルの不満顔とエイブスの思案顔に、控えめにアスリンが提案する。

いつもは自炊だが、出発前に外で食事をしようと、既に用意をしてもらっている。

「エイブも付き合うでしょ? それくらいなら奢っておく」

ぶっきらぼうに言う。

それに遠慮することは無い。

「スを省略するな」

もう口癖のように、賛意を込めてそう答えた。


 観光前日


翌日、交易のために南に向かう隊商の馬車を利用することにして、一行は南門詰め所前に集合した。

ナフィルは、遅れてきたら待つ気は無いなどと大人気ないことを言っていたが、見た目からは微笑ましい感じしか受けない。

そして、残念なことに、ナフィルの希望は叶わなかった。

ビジットは、精悍な男を伴って現れた。

ぞんざいな態度のビジットとは対照的に、油断無い鋭い目をしたその男は意外と愛想良く、ビジットよりも好感が持てる。

ナフィルの渋い顔に変わりは無かったが、とりあえず扱いに困ることは無いだろうと、エイブスとアスリンは少しだけ安堵して顔を見合わせた。

エイブスは、タウスと名乗るその男がオルタ傭兵事務所に所属していることを改めて確認した。

傭兵隊は司令官ともどもルナン=トルモース代理戦争に参加中で、新参者しか残っていないはずだった。

そのあたりの事情は、ひそかに昔の仲間から聞いて確認してはいたが、タウスからもほぼ同様なことを聞けた。

「何? 随分用心深いけど」

ナフィルがその様子を見て問うた。

ナフィルは、諦観と言うか達観した考え方をするが、基本的な部分で『抜けて』いた。

「お前が気にしなさ過ぎなんだ」

と言って、余り深刻そうにはしなかった。

もっとも、口にはしなかったが実はビジットについては既に調べが付いていて、一晩でその素性や評判を承知していた。

若くして王国の一等事務官になったのは、従軍を志願して戦地で行政補佐や書記官を務めた功績によるものだった。

今回の任務は外、恐らく学術院から持ち込まれたもので、真偽や芳しからざる噂によれば喜んで赴く人間がいようはずもなく、ビジットがその危険に見合うだけの功績を目論んで志願したに違いなかった。

だからこそ、エイブスは傭兵を怪しんだ。

事務所の推薦と言うことだったが、学術院が何かをたくらんでいれば、恐らく一番その役割を果たすのに適格な人物だった。

だが、目的が判然としない。

馬車に乗り込んでから、同じ傭兵として差しさわりのない話をしながら探りを入れるが、怪しいところは何も無かった。

昼休憩で、気掛かりだったアスリンがそれとなく尋ねた。

「不審な点とかあったのでしょうか?」

「ない」

エイブスは即答した。

そして、タウスの言っていることはほぼ間違いなく本当のことだと付け加えた。

「では特に問題はないのですね」

と言って、微笑んで表情を緩めた。

しかし、

「本当のことを言っても問題がないだけだ」

と言って、厳しい顔をした。

傭兵時代、捕虜が随分と本当のことを言うので、その情報を信じて奇襲をかけるべく出撃した傭兵隊が、まんまと敵のわなにかかって全滅したことがあった。

「用心に越したことは無いと思うが・・・」

随分と肩入れしすぎていると思う。

「そ。ま、そっちはエイブに任すわ」

素っ気無いナフィルの答えに、エイブスはそうせざるを得ない理由を見た気がした。

もっとも、ナフィルは既に、そんなことに気を回していられるほど物見遊山な気分ではいられなかった。

二日後、隊商は広大な脊椎山脈を貫く街道の中間に位置する、古都ポルカッタに到着した。


「役に立ててよかった」

顔見知りのおじさんはそう言ってナフィルの手を取った。

「ありがと。助かったわ。それよりもお土産忘れないでね?」

ナフィルはその商人への頼みごとを忘れない。

隊商はそのまま南下してトーマの港まで行くのだ。

「何だ土産って?」

エイブスがアスリンに尋ねる。

「乾燥果物のことでしょう」

隊商が去ると、ビジットがタウスを伴って代官府へ行くと言って分かれた。

その晩はエイブスの知っている宿屋へ投宿する。

物思いに耽ることが多くなったナフィルをおいて、エイブスとアスリンはこれから向かう山中における行動や準備について詰めることにした。

アスリンが、別室で本を読んでいるナフィルにお茶を淹れて、自分たちの分も淹れて戻った。

香り良く、ほんのり甘いがすっきりとした味わい。

「そう言えば、乾燥果物と言うのはこれか?」

アスリンは、

「そうです」

と言って、少し嬉しそうに微笑んだ。

お茶と言うには味は薄い。風味が付いた白湯、あるいは水と言った方が良いかも知れない。

「子供の頃は貧しくて、果物と言うものを知らなかったそうです。森で取れた木の実は、ほとんど村で集めて街で売ってしまうそうなので」

新鮮な果物は高価で、王族や貴族、良くて裕福な商家が口にするくらいで、普通は嗜好品として下層市民出のナフィルが口にすることはほとんどなかった。

森での収穫の際、僅かにその恩恵にあずかったことはあったが、親や親族が居らず村で養われていたナフィルは、村での貴重な収入源を喜んで味わう気など無かったらしい。

アスリンは富裕層ともいえる割と大きな商家の出で、何も気にせず果物を食していた。

2年前にナフィルを探し出して押しかけたあの日、出されたお茶がこの乾燥果物を使ったものだった。

その時に初めて、乾燥果物の存在を知った。

「この話、私にとっては本当に恥ずかしいんですけど」

はにかみながら何とか話題から避けようとする。

エイブスもそれ以上追及する気はなかった。

「ナフィルは・・・」

エイブスは気になっていたことを口にした。

「もしかして緊張してるのか?」

「え?」

思い出し照れ笑いに耽るアスリンが、話題が変わったことに気付いて顔の赤みを増した。

「あぁ、はい。でもいつもですよ? ・・・気付きませんでしたか?」

余り気にしていなかった。遺跡に同行するのは4度目だが、落ち着いた風であったし、単に真剣さの表れだと思っていた。

正直、危険であることは意識していたが、ナフィルの危うさに気付かなかった。

「魔術師が居るのだろう? 俺にはわからんが、同じ魔術師で必ずしも敵対すると限ったことではないのではないか?」

「それは、・・・私にも良く分かりません。ナフィル様は余りお話しては下さいませんから」

一番傍に居るアスリンが、自嘲気味に笑う。

「私が心配なのは、ナフィル様の心です。ナフィル様が落ち着いて見えるのは、心が覚めてしまうからです。これまで、大切な人を守れず、犠牲にしてきたことが、ナフィル様を魔術師にしているのです」

「どういうことだ?」

ナフィルは魔術師なのだろう? と、エイブスは反射的に確認をした。

アスリンは首を横に振った。

「そう、ナフィル様が独り言で言っていたのです。魔術師は人ではないと。人でないから魔術師なのだと」

アスリン自身、理解しかねるようだった。であれば、エイブスに理解出来様はずもない。

「難しいことは分からん」

エイブスは、アスリンにすまないと詫びた。

確かに人の理解できる話ではなかった。そもそも雇われの身だ。雇い主が誰だろうと自分の役目を果たすだけだ。

ナフィルはこれまで、見習いだからと言い訳しながらも頑張っていた。

皆を死なせてまで王都には行きたくないと、魔術師らしからぬ発言をしたのを今になると良く理解できた。

「変わった奴だな」

アスリンが困ったような顔をして首をかしげる。

「まずは王都まで送り届けよう。それが俺の仕事だ。それ以上は金も貰っていないしな」

アスリンも頷いて同意する。

ナフィルがエイブスの元を初めて訪れたのは、傭兵事務所で推薦されたからだった。

傭兵隊は出払っていて、遺跡に入った経験のある腕の良い傭兵は居ないとの事だった。

そのときの、酷く自信なさげな様子を思い出した。

人見知りをするのかと思った。初めての遺跡に行って戻った後、態度が随分大きくなったからだ。

あれは、恐れていたのだろうか?

・・・魔術師になりきれない自分を。・・・魔術師である自分を?

エイブスにはあの時、ナフィルがその見かけどおりの年恰好の少女としか思えなかった。

この計り知れない存在であることが魔術師という事なのかも知れない。

と、エイブスはそれ以上踏み込んで理解する事を止めた。


ビジットは僅かにも表情を緩めなかった。

家柄だけで代官となった男に愛想を振りまく気にもならない。

そもそも敬意を払うだけでも嫌なのだ。元から愛想が無いと言われたビジットの顔には、侮蔑を浮かべていないと言う逆の意味で、無表情だった。

だが、それはその男もそう思っているに違いなかった。

市民出の年若い男が、一等事務官などというのは耐え難いことだろう。

官位を示す徽章の線が1本半しか違わない。しかし、年齢には倍以上の開きがあった。

言葉だけの事務的申し送りを済ませ、書簡を補佐官に手渡す。

代官は官位よりも爵位をひけらかすかのように、もったいぶったやり方で補佐官にそれを確認させ、わざわざ読み上げさせた。

それを聞いていた代官は口元を歪ませ、取り繕うともせずに笑った。

「おやおや、戦場に勇んで行かれたかと思えば、今度は妖精の国かね。不肖の身には考えも及ばぬな」

ビジットは表情においても無視をした。

代官は面白くなさそうに表情を厳しく引き締めると、

「好きにしろ」

とだけ行って、補佐官へ手を払う。

「お部屋を用意いたします。こちらへどうぞ」

ビジットとそう年の変わらない補佐官が先に立って扉を開く。

礼だけは失わず、補佐官についで部屋を出た。

「またとんでもない任務を仰せつかりましたね」

その補佐官、二等書記官の青年は、同情するようにそう言った。

志願で来たとは思わなかったらしい。それについては訂正しないでおく。

「あの傭兵はどうした?」

「既に部屋を与えておいたのですが、酒場に行くと言ってすぐ出掛けました」

「そうか」

それを聞くと、もうあの傭兵への関心は失せた。

馴れ合う気など無い。任務だって満足にこなせるか当てにもしていなかった。

めったに人が来ないのか、その書記官はひとしきり日常的な話題に触れると、食事の時間を告げて立ち去った。

用意されていた水を口にして、ベッドに腰を下ろす。

この任務が不愉快であろうと、元々日頃からそう愛想が良いとは思わない。

今回の話を、誰しも本気に思わなかっただろう。

自分自身そうだった。いや、王都の存在を、ではない。魔術師が居て、それと共に王都に行くと言うことがだ。

しかし、ビジットは知っていた。

学術院が秘匿する、少女の姿をした魔術師がいると言うことを。

任務を志願した時の、皆の一様に驚いた顔に関心はなかった。

だが、その少女を目にしたとき、騙されているのではないかと疑ったのは確かだった。

半信半疑なのは、今も変わりない。

ただ、確かに見た目だけでは計れない、人としての格の違いのようなものを感じた。

それは、進んで危険に身をおかなくてはならない自身の境遇からくる、道は違えど傭兵と似たような感覚なのかもしれない。

食事は代官府の事務官や書記官が集まってのもので、少なからず気を紛らわせることができた。

代官である行政官は日頃から食事を共にすることはないそうで、それは喜ばしいことであったが、反面特権的意識が垣間見れて、感情面では気分を害することになった。

ビジットの任務は補佐官から伝わっているようで、当然興味本位で聞かれたりした。

王都があることは知られている。

しかし、それは遺跡としてであって、現在も半稼動状態にあるということは一部の人間しか知らない。

だから、専ら話題は『魔術師』に偏った。

「魔術師というのは本当に居るのですか?」

若い事務官は、半信半疑にそう口にした。

その場に居るほとんどの人間が、それに対し否定的に自分の考えを口にする。

ビジットは、だが、その問いに容易には答えが出せないでいる。

実際にあの少女の姿をしたものが魔術師であるのかどうかは、そのうち分かるとしか言いようがない。

だが、そんなことが言えるわけもなかった。

「居るのだろう。でなければ私は面白くもない芝居に付き合わされることになる」

そう言うのが精一杯だった。

居るとも居ないとも言えない。にもかかわらず、期待を裏切らないで欲しいと密かに願う自分が居た。

「私は見ましたよ」

一番年下の書記官が、得意げに声を上げた。

「事務官と居られた人たちでしょう? あの中に居たのですよね?」

そう言ってから、書記官は臆して顔が青ざめた。

ビジットが冷たい目をして睨み付けていたからだ。

「口外をするな」

ビジットはそうとだけ言った。だが、否定はしなかった。

場が白けたことで、年配の事務官が無難な話題に逸らしたが、ビジットは自分の思いに耽った。

現実に気付いたのか、気付かされたのか、今、自分はどれを現実だと思ったのか。

何とも思わなかったあの少女を、初めて不気味に思った。

王都に行く意味を自分に問いかけてみる。

その答えを出す前に、結論は出ていた。

どうであろうとも逃げられはしないのだと。

「先に失礼する」

ビジットは別の話題に花咲いていた皆にそう言い置いて、先に宛がわれた自室に引き上げた。

他の連中だって、私欲であの少女に付き従っているに決まっているのだ。


朝から機嫌の悪い顔をしていた。

「何なのよ一体」

とナフィルが咎めるほどだった。

「やっぱりだ」

後悔してもどうなるものでもない。

「すいません」

とアスリンが何故か謝る。

「お前が謝ってどうする?」

エイブスはうんざりしたが、不機嫌さを極力抑えてそう言った。

本来なら雇い主であるビジットが迎えに行くはずなのだ。だがタウスは、

「雇い主に迷惑は掛けられない。同じ傭兵仲間じゃないですか」

とエイブスの役割を的確に把握した発言をして渋い顔をさせた。

昨日、と言うよりも早朝だが、タウスは酒場で喧嘩騒ぎを起こし、警備隊詰所に勾留されていた。

身元の引き受けに、タウスはビジットではなくエイブスを選んだのに深い理由など必要ない。

それだけにどれほど文句を付けようと納得せざるを得なかった。

憂鬱なのはそれだけではない。

昨晩、ナフィルは「王都」への行き方を説明した。

「この街の中心部にある移送の門は失われている。ここから徒歩で山を越えて直接王都へ行く」

それは当然のことのように思われた。

そんな便利なものがあるのなら、当初から困難な予想も覚悟もしていないのだし。

問題はその前に得々と王国時代の移動方法を説明した後だったからだ。

「王都へはこの街にある門から行くの。門は常時開放型の転移魔法陣で、三重の結界によって守られてる。王都自体は三つの霊山に囲まれた高地の盆地に固定されていて、ここから4・5日ほどかかるそうよ。つまり、歩いていけるの」

どうして魔法で行けるのに近くに在るのか。

「簡単よ。王都の近くに作ったんだもの」

今でこそ脊椎山脈を南北に貫くいくつかの細い街道の一つにある要衝に過ぎないが、この街は当初から学術院の力が強く及んでいる特別な場所。

魔法や魔術というものが表面だって出ないだけで、エイブスはナフィルがこの街に来たことで、その世界の人間には当然のように伝わっていることが分かった。

それは、簡単に言えば横取りや独占であって、おおよそ知識欲や好奇心と言ったナフィル寄りのものではなかった。

「一々気にしていられない」

とナフィルは無関心を装っていても、現実はそれらがナフィルを妨げていることに違いない。

ナフィルの関心は王都に向いていたが、エイブスはそこまでの道中にこそ気掛かりがあった。

「具体的にどう行くのだ? 方向だけしかわからんのか?」

「今は乾季だから川沿いに行くわ。そこから今時期だけ木の切り出しで使われている集落があるの。そこの猟師に途中まで案内をして貰うつもり」

王都に近いので、ポルカッタには学術院の支部がある。

そこの意図が透けて見えた気がした。

一行は一列になって歩く。

先頭がエイブスで、ナフィル、アスリン、ビジット、タウスの順だ。

「目の前が若い女だからって、色目使うなよ?」

エイブスが軽口のつもりで言うと、

「私には妻も子も居る」

とビジットは醒めた言い様で受け流した。

ビジットの方が年上なのだが、エイブスはひげ面で体格も良く、背では僅かに及ばないが、見た目では立派に引率者のように見えた。

堅物のようなビジットに、妻も子もいる。

軽く受け流したつもりだったが、その衝撃は何故かアスリンにだけは分かって、不自然に微笑まれる。

今日は何も悪いことが起きません様に。

朝からついていないエイブスは、恐らく生まれて初めて謙虚にそう願った。

願った先は、無論神ではない。


雨季には谷一杯に流れる川も、今は谷底に僅かに流れているに過ぎない。

木材の切り出しはこの時期に山に入って行い、雨季に水かさが増えてからそれを利用して下流に流すそうである。

その時には、この谷底は両側の急な斜面まで激しい流れに覆われる。

「雨季じゃなくて良かったですね」

アスリンは心底そう思って言った。

迂回することになれば、それだけで2日は余計にかかる。

山地で森の中だ。ビジットはもちろん、ナフィルにも苦労が少ないに越したことはない。

意外と、見た目からは分からないがアスリンは体力がある。

ナフィルより背が高いとは言え、標準的に見ても低い方だ。

それにもかかわらず、アスリンは自分とナフィルの分の荷物も持っている。

エイブスがいくらか受け持っているとは言え、エイブスとアスリンはほぼ対等だった。

加えて、アスリンは自分の剣と盾も持っている。しかも得意な得物だと言って、短い弓と矢も携えている。

タウスも、鎧を付けてないとは言え余りにもアスリンが重武装なので、

「これは勇ましい」

などと微笑ましげに言ったが、ダーナ教導団卒業というのを聞いて真剣で厳しい表情になった。

あそこは身分や富裕の差が通用しない軍事教練所で、そこを卒業したということには独特の重みがあった。

トレビスの戦乙女と呼ばれたメイリス王妃に憧れていたと言うだけあって、見た目的には全く女性らしい風貌が多く、一見してそうは見られないところにこそ真価があるように思われた。

もし、それを意識してやっているのだとしたら、まんまと油断したり不意を衝かれるに違いない。

エイブスが本気で口説き落とそうと思わないのは、本性をまだ嗅ぎ取れないからで、決して臆しているからではない。

「と思うが・・・痛っ!?」

肩に痛みと衝撃が起きた。

思わず振り向くと、ナフィルが杖でエイブスの肩を叩いていた。

「何だ?」

眉間にしわを寄せ、不機嫌そうに言い放つ。

「声を掛けても上の空だからよ。休憩しましょ」

いつもより早いが、と言おうとしたが、ナフィルがビジットを気遣って言ったのだとすぐ察した。

普段から渋い顔をしているビジットだが、明らかにそれとは違う厳しい顔をしている。

こんなので持つのか?

俺でさえ、魔術師という輩の世界に戸惑った。

常識で測れないという部分だけではない。素直に恐怖したのは、これが自分たちの日常ではないからだ。

「こんな調子でたどり着けるのか?」

嫌味ではなく、現実的に考えてエイブスはそう言った。

状況についていけていないビジットへの、ある意味親切心からだ。

ナフィルは答えない。

その代わり、洞察力はさすがなのか、

「いや、すまない。私が足を引っ張っているようだ」

と、ビジットが詫びた。

「無理もありません」

とアスリンは言ったが、

「不慣れなんだから仕方ないわ。遅れるようなら置いて行くだけよ」

とナフィルが冷たく言い放つ。

それが照れ隠しではなく本気なのには苦笑してしまう。

だが、ある意味それが温情だろう。

夕方にようやく、乾季だけ使われている集落に着いた。

ビジットはナフィルに負けじと頑張って付いて来ていた。

いよいよ、お伽話の妖精の国へと入るのだ。

その入り口にふさわしい、寂れて人気のない集落を、何故か不気味に思わず懐かしい気がした。

ビジットも含め、我々は既に異常なのだと、悟るのだった。


 観光1日目


森の中で開けた場所から夜空を見上げる。

「何か在るのか?」

エイブスはナフィルの様子をいぶかしんだ。

ナフィルは答えない。

アスリンは子供の頃に聞かされた魔女の話にあった光景が思い浮かんだ。

月明かりに照らされたその幻想は、悲しみに包まれていた。

どうして悲しかったのか?

恋人を亡くしたのか、はたまた友人だったか、とても大事なことだったが忘れてしまった。

祖母にせがんで、何度も聞いていたはずなのに。

祖母はもういない。ナフィルに聞くことなど出来るはずがない。

夜明けが近いのか、暗いだけだった空に青みが増す。

「今行くわ」

ナフィルがこちらを向いて、歩み寄る。

アスリンは声を掛けようとして、思い留まった。

大丈夫ですか?

私が傍に居ますよ!

そんなことを言おうとしたのだが、ない交ぜになってしまって出て来なかった。

もっとも、ナフィルの顔は悲しげではなく、少し緊張したいつもの魔術師だった。


稜線からその開けた盆地を埋め尽くすような建物の群れを見た時、皆はそれまでの苦労を一瞬だけ忘れることが出来た。

盆地それ自体が王都。

お伽話で語られた伝説の魔法王国の王都は、朝日を受けてそこに歴然として存在していた。

しかし、その冷ややかな空気に違わない、静寂にも包まれていた。

喜びで満たされていた感情が徐々に冷めると、皆は等しく表情を引き締める。

無言で、下る道を探りつつ降り始めた。

すぐ目の前にあるようでも、道が無いので思うように辿り着かない。

しかも、上から見た時には気が付かなかったが、外周を高い外壁で囲まれていた。

「こんなにあっさりと見つかるのに、どうして今まで誰も見つけられなかったんだ?」

エイブスの指摘は、人間にしてみれば当然だろう。

「魔術師じゃないからよ」

ここは王都だ。今でも人間が不用意に近付けない魔術が生きていたとしても不思議ではない。

あの外壁は人間に対するものなのだとすると、ナフィルは自分が半端な魔術師であることを自覚せざるを得ない。

「ここは、魔術師の都市だもの。魔術師以外が入ることはもちろん、見つけることも出来ないのよ」

先ほど感じた規則正しい魔力の流れは、恐らく侵入者を識別する結界なのだ。

自分が魔術師として認識された証。

それは表立ってはいなかったが、ナフィルに多少の自尊心めいたものを湧き起こさせた。

だが、そんな些細なものはすぐ吹き飛んだ。

山と盆地を隔てるだろう境界にそびえ立つ高い壁は、絶望的にナフィルたちを拒絶していた。

「どこから入るんだ?」

ビジットの疑問に、ナフィルが答えられるはずも無い。

「どこかにあるはずだ。壁に沿って辿っていけば良い」

エイブスが当然のように言う。

ナフィルは壁を見上げた。

その高さはとてもどうにかなるようなものではなく、自尊心などと言うものは何の役にも立たなかった。

エイブスの提案は至極もっともなもので、誰もそれに異議は挟まなかった。

だが、その日の夜、もはやその役目を不動のものにしたビジットが苛立ったようにエイブスに詰め寄った。

「どこにも無いではないかっ! 一体いつまで探し続けるのだ?」

言わんとしていることはよく理解できる。全員が疲れて果てていた。

「しかしな、この高さを見ろ」

一人を除いた全員が、闇にうっすらと見える外壁の頂を見上げる。

「壁を登るのも、そして恐らく降りるのも、とても楽なようには見えんぞ?」

周囲に生える木の倍はある高さ。

エイブスは気付かれない程度に、一人焚き火を見つめているナフィルを視界に納める。

何かを考えているようで、しかしその様子は意気消沈といった感じで、質問することを憚らせた。

「どうにかならんのか?」

というエイブスの配慮をよそに、ビジットがナフィルに問う。

ナフィルは視線を下げたままで答えない。

アスリンが心配そうにナフィルを窺う。

王都の外周がどれほどのものであるか、恐らくビジットの居た城塞都市とは比較にならないことだけは確かだった。

あの街でさえ丸1日はかかる。上から見ただけでその3つやそこらはあるだろう大きさだ。想像するだけで気が滅入る。

「まあ何だ。食料も心許ない。明日一日様子を見て決めよう」

エイブスはそう言って纏めようとした。

ナフィルは一度考え事を始めると中々口を開かない。エイブスはこの役目も給金の内とした。

「ここまで来て戻るのか?」

だが、出発する前から、と言うよりも恐らく生まれてからずっと不満しか持ち合わせていないと思われるビジットが、声の調子を少し上げて抗議した。

隣に座るタウスがうんざりした様な顔をしてそっぽを向く。

エイブスは俺に言うなと逆に抗議したくなった。

ここまで来て、むざむざ宝の山を拝まずに戻ることに納得はいかない。

しかし、肝心のナフィルがこの調子ではどうしようもない。

相手はお伽話で散々語られた魔術師だ。

畏怖することはあっても、間違っても愛想良く謙虚で人が良いなどということを考えてみる気は無かった。

その後、皆は満足な休みを得られずに一夜を過ごすことになった。


さすがに朝は皆無言だった。

一番知識を持ち合わせているナフィルが黙ったままなので、皆不安や不満を持ちつつも、何がしかの結果が出るだろうと思っていた。

だから、それを見つけたのは全くの予想外で、喜ぶところではなかった。

整備された水路が、外壁の下をくぐって外へ流れ出ている。

「ここから入れないか?」

声に出したのはタウスだったが、一人を除いた全員がそう思ったに違いない。

エイブスとタウスが水路と外壁の隙間から中を窺う。

「明かりはある。続いてるのは間違いなさそうだ」

腰の辺りまでの深さ。流れはさほど早くない。

だが、這いつくばらなくては潜り抜けられない。

しかも、水の中だ。どれほどの長さなのか分からないが、その間息を止めなくてはならない。

「よし、まずは俺が行こう」

皆の期待を嗅ぎ取ったわけではないが、エイブスは自分から名乗り出た。

「そんな必要ないわよ」

と言う声に、皆の視線がナフィルに集中する。

「誰?」

アスリンの独白に、ナフィルが厳しい目つきをして空を見上げた。

ふわりと、皆の中心に女性が舞い降りた。

そこでようやく、声の主がナフィルではなくこの女性であることに気が付いた。

「中々入ってこないからどうしたのかと思ったら、そりゃあ入れないわよねぇ」

女性は全く他のメンバーを無視して、ナフィルに話しかける。

それは旧知の相手に話しかけているような親しみがあった。

反面、ナフィルの表情は険しい。

「知り合いか?」

「誰だこの女は?」

エイブスとビジットの声が被る。

口調に似合わない物腰と容姿。

アスリンが、見かけによらずナフィルを庇うように間に立つ。

しかし、女性は動じた様子も無く、手を小さく振って、

「警戒しなくても良いわよ。私はただの案内役だから迎えに出ただけ。あんなことにはならないから」

と言って両手を挙げた。

アスリンが驚いた顔をした。そして、ナフィルを振り返る。

「あんなこと?」

この女は何を言ってるのか、エイブスは理解できずにいた。

「おい、聞こえんのか?」

ビジットが肩に手を掛けようとする。

「ビジット!」

ナフィルが叫ぶ。驚いてその手が止まった。

「気安く触るもんじゃないわよ」

女性ではなくナフィルが忠告する。

その意味するところが分からず、ビジットは手を上げたままエイブスに助けを求めた。

「人間じゃない!?」

エイブスの表情が凍りつく。

ビジットはその場から動くことも出来ず、顔を青ざめたまま固まった。

「ナフィル様っ!」

アスリンが指示を求める。

しかし、どうすることも出来ない。

「何もしやしないわ」

女性は軽く頭を振ってそう言った。

「ようこそ王都へ。私はここの案内人でユーリと言うの。本当はもっと長いんだけど、どうでも良い事だからユーリと呼んでね、ナフィル」

その馴れ馴れしさを素直に受け取れない。目の前の存在はそれだけ特異だった。

「どうして私の名前を知っているのかは取りあえず後で良いわ。あなた何者?」

「案内人だって言ったでしょ?」

困ったように答えるが、もちろんその答えを期待したわけではない。

「説明が必要なのね。良いでしょう。元よりそのつもりだったしね。魔術師ナフィル」

不敵に笑うが、楽しんでいるようにも見えた。

「ここへ歩いてくる人はいないけれど、入れないのがその証。とりあえず中に入れるわね」

と言うや否や、全員が塀の内側に居た。

「なっ!?」

驚いて声を上げかけたビジット。

しかし、他の全員が声を上げなかったのが異常なのだ。

だが、女性は気にした風でもなかった。

いや、ビジットの他にも驚いていた。

「本物!?」

ナフィルが驚愕の表情でうめいた。

一瞬で王都の中に移動しただけでなく、目の前の女性が、いつの間にか本物に変わっているらしかった。

しかも、自分には魔術の発動を感知できなかった。

外壁の中は何もなく、すぐ内壁が立ちはだかっている。その外壁と内壁との隙間に移動したのだ。

「さて、では中央広場に案内するわね。本来の入り口はそこだから、壁に入り口は作られていないのよ」

ヒュッと風が髪をなびかせる。

再び、一瞬にして石造りの古風な建造物に囲まれた広場に転移した。

「ここが中央広場よ。その正面にあるのが王都のゲート」

ユーリが楽しそうに腕を広げて広場を示すと、くるりと翻って背後の石造りの正しく『門』を指す。

今度はみんな驚かなかった。

それよりも、広場が、比べるまでもなくポルカッタの正門広場よりも小さいことに驚かされる。

それは現実的な広さ以上に狭く感じられた。

『王都』に対する印象のせいだろうか?

それでも、ナフィルは感慨深そうだった。

「お話の前に、まずは街の中を案内しましょうか」

ユーリは、興味深そうに周囲を見やるナフィルにだけそう声をかけて、腕を手にとって歩き出す。

アスリンが慌てて後を追うが、男3人は三者三様の顔をして、少し間を空けて連れ立って歩く。

と、

「そうそう、自由な行動は許しませんよ。この街は、人間にはちょっとだけ厳しいですから」

そう言って、ユーリは小首をかしげながら顧みた。

その表情や仕草は、全く魅力的な女性そのものだった。

しかし、エイブスは、いや恐らくここに居る『人間』は、その言葉に息を呑んだ。

ちょっとだけ、と言う言葉の意味を、そのまま受け取ったり出来るほど、鈍感ではない。

背後に妙な気配を感じた。・・・いや、感じただけだ。

エイブスはそう確信した。

そう思わせるほどに、ユーリの言葉には聞き逃せない重みがあったのだ。

背くことはすまい。

エイブスは雇われている以上、当然そう思った。

その一方で、こいつらはどうなのかと思わずにもいれない。

3人は先ほどよりも緊張感をみなぎらせながら、付いて行った。

通りも狭い。

広場から伸びる一番大きい通りでさえ、人が5人も並ぶと一杯になる。

意外さはもう既に感じていたが、雑然としていて区画が整っておらず、真っ直ぐな道が満足にない。

「予想外だな」

そう口をついて出た。

趣きとしては良い。

しかし、王都に対する印象とはかけ離れている気がする。

しかも、

「妙だな。扉がどこにもないぞ?」

と、ビジットが違和感を指摘した。

確かに、道の両脇に立ち並ぶ建物には、入り口と思しきものが何一つなかった。

「王都で見るべきものはいくつもないわ。この建物は体裁を整えるだけのもの。つまり見せかけね」

などとユーリは平然と言った。

「この・・・ほとんどがか?」

エイブスが周囲を見回して驚嘆の声を上げた。

「ここに住むことが許された魔術師は限られていたのよ」

ナフィルが仕入れた知識を披瀝する。

「正確には住むことに耐えられた、だけどね」

ユーリが訂正して、照れくさそうに笑った。

どこが笑うところなのか、指摘しようとしてエイブスは止めた。

理解できないものに対する防衛本能だろう。

もっとも、ビジットは果敢に挑戦をして敗退していたが。

「入り口が無いだけで、中身はちゃんとしているのよ? 例えば・・・」

ユーリがそう言って建物の壁に右手をかざすと、そこに扉が現れた。

取っ手を引く。

覗き込むと、そこは部屋だった。

一通りの調度品が揃っている。そこいらの宿屋よりも格別に良いに違いなかった。

パタンと閉じると、扉は再び壁に溶け込んで消えた。

「ここは王都としての役割を求められたところ。街としてのものは、まぁ有体に言えば必要ないわ」

ユーリは両手を挙げて全てを曝け出す仕草をする。

しかし、だとすればこれほど大きくなくても良さそうだと思う。

体裁を整えると言うような、何かしらの意味が必ずあるのだろうか?

そもそも、区画も整理されていないのはどうしてなのだろうか?

「さ、あれがこの王都の中心、最高執政官府よ」

ユーリの指し示す目前、高くそびえる塔が一行を見下ろしていた。


その男を見た時、頼りなさそうに見えた。

だが、別に落胆したわけではない。

彼が初めてではなかったからだ。

恐らく、彼の『立場』が変わったのだろう。

初めの頃は、その人物にこそ価値があった。

王宮の主人にこそ意味があるのであって、だから、ここはその権威に見合うような過度の装飾を必要としなかった。

しかし、いつしか王宮に価値があるようになってしまったようだ。

その男にとって、この質素な空間は不安なことだろう。

それを気の毒に思うことは無かった。

それが、その男の役割だから。

しかし、最早興味は無かった。

何を成すのか、何を思うのか、もう私の興味を惹くことは無いだろう。

自分を保ち続けるということが、いかに難しいことか、いかに理解されないことか、よく知っていた。

ナフィルを知った時、その境遇を好ましく感じたのは、彼女が『魔術師』だったからだ。

「どう? がっかりした?」

ユーリはむしろ楽しげにそう聞いた。

正しく王都の中心にある塔は、どれほどの高さなのか比べようも無いので見当もつかない。

しかし、その威容のある外見とは裏腹に、魔法王と呼ばれた魔法王国最高執政官の建物の中は、華美に過ぎることは無くどこまでも質素だった。

ナフィルはユーリの問いかけに答えなかった。

いや、一同は感想を述べることも忘れ、1階のホールを眺めやった。

それは驚くというよりも、呆れていたのだろう。

何も無かった。いや、長いすやいくつかの机が見られるが、王宮や宮殿という印象とはかけ離れすぎていて腹立たしいくらいに何も無い。

「金になりそうなものは全くないな」

タウスが苦笑しながら本心を吐露した。

「言葉通りなら魔術師の王なのだろう? その住まいがこれか?」

エイブスにも合点がいかない。

「ここは住まいではないけど、そうね、思うほど壮大でも荘厳でもないわね」

ナフィルは気も無く応える。自分には関係の無いものだという意識があった。でも、やはり感銘を受けるものらしい。

「魔法王は権力者ではないわ。権威の守護者であり代表者よ。実質的な統治権力は評議会にあるの。魔術師だって人間だって、何かを決めたり守ったりするのには話し合いが必要だし、我慢も必要なのよ」

案内役というだけあって、随分と分かりやすい説明だった。

しかし、それはそうだろうが、魔術師に対する印象としては幻滅も良い所だ。

反面、当初の印象からすると、ユーリに対する魔術師としての不信感は薄らいでいた。

「上へは、鏡の通路でしか行けないわ」

壁に掛けられた巨大な鏡を指して、ユーリはそこへ歩み寄る。

「気がついていると思うけど、ここでは魔力は私の制御下にあって魔術も制限されるから、いかなる存在もこの街の理に従ってもらうわよ。つまり、基本はこれね」

そう言ってスカートを摘んで裾を持ちあげる。

ほっそりとした白い足が覗く。

「・・・歩けと言うことね」

歩くのを何とも思わない連中はユーリの動作に目を奪われていたが、ナフィルだけは渋い顔をしてその制約の重さを理解した。

「それって・・・魔法王も?」

「当然でしょう? 魔術師に自由なんて与えるものではないわ」

と、ユーリは含みもなくあっさりとそう言った。

その突き放したような言い方に、ナフィルは驚いて問い質そうとする。

が、ユーリは微笑み一つ残して、鏡の中に入っていった。

「・・・どうするのだ?」

ビジットが不機嫌さを隠さず問う。

「戻れるのか?」

傭兵としては、退路をまず確保するのが最優先される。

タウスの疑問に、エイブスも異論は無かった。

しかし、付いて行くしか選択肢は無い。

このホールに入ってしまった段階で、もはや逃げ道は無かった。

塔一階の入り口から入ったはずだったが、気がつけばこのホールに出口は無い。

「あの入り口は転移門だったのよ? 戻る方法を知らない以上、付いて行くしかないわね」

ナフィルは苛立ったようにそう言うと、鏡に近付いて行く。

鏡に触れる。ひんやりとしたその鏡に、今まで映っていたナフィルの姿は消え、部屋が見えた。

色々な表情を浮かべる各人を一瞥して、ナフィルは鏡を通り抜けた。

そこは、先ほどに比べると非常に小さな部屋だった。

応接室・・・と言うよりも、待合室のようだった。

そこに、ユーリが消える時に見せた微笑みのまま、待ち受けていた。

「きゃっ!?」

問おうとしたナフィルの背中に、アスリンが体当たりをするようにしがみつく。

続けて男たちも入ってきて、ナフィルは部屋の中央に押し出される。

「ここが謁見の控え室よ。あぁ、でも今は主は居ないけどね」

清々しいまでの晴れやかな笑顔で、妙に弾んだ様子のユーリにナフィルは戸惑った。

「ちょっと待って、まず説明をして! 私には分からないことだらけなのよ!?」

理解しようとしても、阻害する意識があった。

ナフィルはそれを無視して、ユーリの自己満足に付き合う気は無かった。

「あらら」

ユーリは笑いをこらえるように、顔をほころばせた。

「私ばかり知っていて先走りすぎたかしら? 余りにも楽しくて、いえ、嬉しくてついついね」

そう言うと、目を細めて微笑みを控えめにした。それが挑発的な不敵な笑みにも見える。

「でもね、受け入れるだけなのよ? あなたに必要な説明は、いくらでも夜に説明してあげるわ。まずは王都を知りなさいな」

「私が理解しているものなんてほとんど無い。それこそ、人間と変わりない」

ナフィルの疎外感にも似た違和感が口を衝いて出た。

アスリンが心配そうにナフィルの服を掴んでいる。

「あなたは、あなたが魔術師見習いだと名乗ろうと、厳然たる王国の魔術師なのよ」

その言葉に、ナフィルは信じられないものを見たような呆然とした顔をした。

「わ、私は魔術師とはとても呼べない未熟者よ」

認識が誤っている。ナフィルは訂正を求めた。

「どう言い逃れようと、魔術師たる責務と制約からは逃れられない」

ユーリはそう言って聞く耳を持たなかった。変わらぬ笑顔のまま。

「別に認めてあげているわけではないわ。無論、嫌々認めているわけでもない。分かるでしょ? いえ、分かっているのでしょ?」

だから受け入れなさいと、そう言っていた。

二人のやり取りが分からない人間たちが、不安な気持ちを共有するように顔を見合わせる。

ナフィルは、絶望した顔を、苦しげに歪ませた。

「あなたの望みは叶わないけれど、望むものはあるわ。あなたは何が目的で来たの? それが分かっていれば、急く必要は無い」

ナフィルの感情が揺れた。それで充分満足する。

「さ、いらっしゃい。虚を失おうとも、ここはその実を未だ保ち続ける魔術師の本拠地。嫌でも分からせてあげるわよ」

開け放たれた両開きの扉の向こうは、人気の無い過去に追いやられた玉座がある。

「意味は無い。でも必要はある。幻想にも礎は必要よ?」


謁見には二通りの意味があった。

功を労う事と、罪を問う事。

今、ナフィルはそのどちらでもない『観光』目的で、主無き玉座の前に居た。

「ここは塔の最上階。この街で一番の高さにあるわ。私はここが好きで、良くここから街の全てを眺めているのよ」

そう言って、玉座になんて目もくれず、外へと通ずる開け放たれた扉へと歩いていく。

ナフィルが少し名残惜しそうに魔術師の王の残滓を振り払うと、ユーリの後を追う。

ビジットはナフィル以上に感慨も無く、その後に続く。

アスリンも、エイブスと目配せをしてから追いかけて行った。

「おまえは行かないのか?」

エイブスがため息混じりに、吐き捨てるように言う。

「特に興味はないからな。あんたこそ行かなくて良いのか?」

興味深いのか、タウスは玉座の前から動こうとはしなかった。

「にしても、本当に金目のものが無いな。お互い、得なことは無いかも知れん。ご苦労なことだな」

タウスが自虐的な苦笑いをして、エイブスを労う。

しかし、その言葉には共感できない。

何故なら、タウスは本気でそう思ってはいないと信じるからだ。

「どれ」

そう言って、エイブスが玉座に腰を掛ける。

「こんなことが出来るなんて思いもしなかった。それだけでも、恐らく俺はこの世界でたった一人の男だと思わないか?」

それを見たタウスが目を丸くして絶句した。

「・・・そんなことをして何ともないのか?」

と、エイブスが無事であることを不思議がった。余りにも迂闊なその行為に驚いたのだ。

エイブスの背筋を、冷や汗が伝った。


テラスで風にその長い髪を自由になびかせているユーリが、ナフィルを察して髪を撫で付けながら振り向く。

「凄いでしょう? 風景だけではないわ。この街自体が魔力の安定的貯蓄を行う巨大な装置なのよ!」

腕を広げて、背後に広がる街並みを背負う。

それは一種不気味な光景だった。

喧騒さがない形だけの街を、巨大な濃い魔力が、規則正しく渦を巻くようにたゆたっている。

もちろん、それはアスリンにもビジットにも視えてない。

いや、ナフィルでさえはっきりと視えている訳ではない。

それでも、これほど濃いのを感じることは余り無い。

だからこそ異常なのだ。この異常さは、ナフィルにしか分からない。

そんな様子を知ってか知らずか、ユーリはすぐ近くに立つ塔を指して、

「あれがこの街で二番目に高いレイドの塔。この街には15の塔があって、あっ、今は14しかないけど、ほとんどが魔導師が個人で所有する工房よ」

街並み同様、それらの塔も適当に建てられているようで、視界には五つほどしか見られない。

ユーリが指す塔はこの塔に一番近いところにあり、その最上階がすぐそこに見下ろせる。

「向こうに2つ、塔があるでしょ? あれが私の館。左が星見の塔で、右が夢見の塔。後で案内するわ」

そこは二つの塔が特徴的なだけで、豪奢なわけではなく、その館は街並みに溶け込んでいる。

それはこの塔も同じで、漠然とお城のようなものがあると思っていただけに、期待を裏切られた感じがする。

「まるで死者の街だ」

ビジットの感想は、ある意味的を得ていた。

だからと言って、この街の管理者の前で言うべきことでは無いだろう。

しかし、ユーリは気分を害した様子も無く、

「この街は生物のためにあるわけではないから、そう言ってもおかしくはないわ」

と肯定するようなことを言った。

ビジットが毒気を抜かれたような顔をする。

ナフィルは初めて人を気遣うような顔をするビジットを見た。

「そもそも、何だってこんな高いところに作るのだ? まさか風光明媚だからという理由でもあるまい」

自分は脇役と思われたが、意外にも反応があるため、ビジットは口を衝いたように感想を述べる。

「魔術師にとってみれば、余り意味は無いわね。高いとか低いとかでは無い。いえ、上とか下とか、そういうことではないのよ。強いて言えば遮蔽されない空間ということね」

ユーリは、嫌な顔もせずビジットに応じている。

ただ、基本はナフィルにあるようで、それはあくまでもナフィルへの説明のついでのようである。

「この塔にしても、必要なのは魔法王そのもので、外見なんてどうでも良い事よ。だけど、見失うと、こんなことになる」

こんなことと言うのは、主無き玉座であり、最高執政官府の塔であろう。

「あ、もちろん大事なものとか必要なものもあるけどね。でも、あなたたちが見ても意味は無い。ここも、別に一度見れば充分」

ナフィルは、ユーリがこの塔に敬意を表しているわけではないことを理解した。

ユーリにとって、魔法王そのものにこそ意味があって、この塔は必要だから残されている。

「この塔は、必要なの?」

「あら、言ったでしょ? 私はここから見る景色が好きなのよ」

それが本心からなのか、ナフィルは格上の魔術師であるユーリの心の内など計りようが無かった。

ナフィルにとって、王都とは手っ取り早く知識や手段を手に入れる術に過ぎなかった。

王都から得ることばかり考えていた。だから、王都から受けるものがあることに初めて気がついた。

受けるものがある?

ナフィルは自分が魔術師だと言う自覚を初めて感じた。

一様に、この「王都」に思いを馳せたのか、一瞬の静寂が訪れる。

ユーリの横顔は、懐かしんでいるようでもあり、諦観しているようにも見えた。

「さて、次に行きましょうか」

ユーリは興が削がれたのか話題を切り上げると、謁見の間に戻った。

すると、神妙な顔をしたエイブスが、一旦ユーリの顔に目を留めて躊躇する仕草を見せてから、

「すまん、つい軽い気持ちで玉座に座ってしまったのだ。大丈夫だろうか?」

とナフィルに告げた。

絶句、と言うよりも呆れて声が出なかった。

「大丈夫よ。何もありはしないわ。ただ、覚悟だけはしておいて頂戴。ここは、何もしなくても無事で居られる保証がないところなのよ」

ユーリは穏やかな顔のまま、そう宣告した。

「エイブ、あなた、何だってそんなことをしたのよ?」

情けないと言わんばかりの顔をして、ナフィルは搾り出すような声で責める。

魔が差した? いや、あの時、何かに誘われるような感じがしなかっただろうか?

エイブスは、

「人選を見直さないといけないかもねぇ」

と言うナフィルの言葉を意識の外で聞きながら、奇妙な不安と落ち着きの無さを感じていた。


その疑問に答える者は居なかった。

ビジットは怒りを抑えきれず、険しい表情をしたまま、その光景に目を奪われていた。

「情報どおりだ。奴らはこの村を捨てて二股の関所に後退したらしい」

傭兵隊の隊長が、斥候から戻ってビジットに告げた。

しかし、ビジットは反応をせず、ただ黙ってそれを見ている。

「どうしたんだ?」

隊長がビジットの護衛をする傭兵に問う。

「さぁ? 突然あれを見て、どうしてこうなったのかって言い出してそれっきり。ああいうの見慣れてないんでしょう」

見慣れる? これが、普通だとでも言うのか?

子供が、幾人も道端に積まれていた。

その脇で、母親とおぼしきまだ若い女性が、強姦の跡も生々しく、腹を割かれて殺されていた。

この村は、今朝に領主の守備隊が撤退したと言うので、我々がたった今、進駐してきた。

この有様は、自分の領地で、守ってくれる味方であるはずの守備隊の兵士によって、起こされたのだ!

官吏としてここに来たビジットは、その事実に衝撃を覚えずには居られない。

進駐した先で、交渉を行って治安を維持し、食料などを調達するのが任務だ。

略奪はもちろん、徴発も厳しく戒められていた。

傭兵隊は国軍であって、その品位を貶める行為を起こさないよう監視し、監督するのが従軍行政官代理たる自分の役目であり、その最大の目的は秩序を保つことにあった。

ビジットは出世のために前線を志願した。それは、妻と二人の子の為。つまり、家族のためだ。

しかし、目の前の家族は、守るべき味方によって、殺されていた。

戦争中であれば仕方のないことはある。

しかし、これが許されて良い訳が無い。

「ここの領主は、自分の領民を害し、捨てて逃げたと言うのか?」

「別に珍しいことじゃない。どうしようと好き勝手だし、どうなろうと知ったことじゃないんだよ」

当たり前のことを聞くなと、言外に言っていた。

しかし、納得のいくものではない。

国としての体面は、民を守ることにある。

「それほどまでに、この国の秩序は乱れているのか?」

ビジットは悲嘆に暮れた。

国を守ると言うことは、軍隊に依るとは限っていない。

法を作り、それを守る官吏も、国を守っていると言うのが持論だった。


魔術師と言うのは超越者の姿で語られている。

そこには、国という枠も、秩序という戒めも、無いように思われた。

それは単なる思い込みに違いなかったが、魔法王国と魔術師と言うのが、上手く結びつかなかったのは事実である。

魔法王の塔とは目と鼻の先に、王国評議会議場はあった。

塔に比べれば遥かに権威主義的な建物で、ユーリの説明では元よりあった太古の神殿であって、その点で言えば間違いがなかった。

そして、議場は塔の高いのとは対照的に、広大だった。

「ここまでの広さが必要なの?」

ナフィルがため息を吐くように出した言葉。

巨大な正面に開かれた入り口から入ると、そこは中央広場よりも広いホールだった。

「一々でかいわね」

ホールはもちろんのこと、三方向に伸びる通路の幅も、天井までの高さも、人に合わせたサイズとは思えない。

「神というのは余程大きかったのだな」

そんなどうでも良いことを口にして、エイブスはナフィルに睨まれる。

「大きさというものが定まっていなかったからなのよ。適当に作ったらこの大きさだっただけ」

ユーリの説明も適当だ。

しかしそこに、ナフィルは当事者めいたものを感じてその背を見つめた。

元々王都のことを余り知らなかったが、それは魔術師にとってそれほど重要なことではないと思っていたからだ。

リシュエス師からも、王国や王についてはもちろん、王都についても全く聞いたことが無い。

来る直前に調べ直しはしたが、それはどこにも記述されている基本的なものでしかない。

僅かに導師から、

「未だに王都を管理している魔術師が居る」

と言われてこれまでの学術院の調査の経緯を説明され、

「高圧的、敵対的で無ければ危害は加えて来ない。交渉には充分注意するように」

という注意を受けたことが唯一の情報だった。

しかし、ユーリは『王都』と言う一つの世界を管理下におく魔術師だ。

これが並みの魔術師でないことは、会ってすぐ分かった。

だが、ナフィル自身、王国の魔術師に会ったのは数人でしかない。

「それだけで推し量ろうなんていうほど、簡単ではないのだろうけどね」

と言うナフィルの独白に合わせたように、ユーリが振り向いた。

「今は使われてはいないけれど、手入れはされているわよ。もっとも、ここが再び使われることは無いけど」

そう断言して、右手の通路を先頭に立って進んで行く。

殊更、使われることが無いと言い切るのはどうしてなのか。

釈然としない思いは、すっかり話に置いていかれているエイブスには、いや恐らくタウスも、不快感として残る。

ナフィルは当然だろう。ビジットも興味が無いわけではないようだ。

先程アスリンにそれとなく聞いてみたが、ナフィルを気にしているせいか特に気にした風ではなかった。

何だろう? 玉座の一件から、エイブスの中には疑心暗鬼にも似た『王都』への不信感が渦巻いていた。

怒りや悲しみ、無論喜びもだが、それは羽目を外すことはあっても、自分の傍から離れることは無かった。

妙な言い方だが、それを捕まえている紐が、ここに来てから緩んでいるのではないか、という不安を抱かされている。

自分をしっかり意識していないとどうにかなってしまいそうな存在の不安。

ナフィルに話し掛けたくとも、ナフィル自身が必死なのは見て取れる。

知らず知らずに崖っぷちに追い詰められているような切迫感。

そうでない事を祈りながら、自分だけは客観的に状況を見極めようと、強く意識した。

未だに得体の知れないユーリは、

「魔術師と言ったって、人格者ばかりいるわけではないのよ」

と言って、王国の秩序と世界の保護を取り決める倫理機関というのが役割だと、評議会を説明した。

ナフィルは、渋い顔をした。

しかし何かを尋ねようとはしなかった。

煌びやかな装飾がされた両手開きの扉の前で、ユーリが一行の揃うのを待つ。

全てが大きい中で、その扉は普通の大きさである。

「ここが、魔法王国の中心よ」

そう言って無造作に開かれたそこは、立派で大きな机が並んだ、この建物には似つかわしくない極めて小さい部屋。

「評議員、と言うのか? それはこれしか居ないのか?」

ビジットが納得のいかないような顔をして、独白のようにユーリに問う。

「ここは公爵位にある貴族が会議をする部屋よ。王国の終末には16の公爵家のうち、7家しか集まらなかったからそれしかないけど」

机は確かに立派なものだ。しかし、部屋には中心にある魔法陣を囲むように並ぶ机の他に、何も無かった。

「意外でも何でもないわ。集まって話をする。それ以外にここの必要性はないでしょ?」

そう、ナフィルに問い掛ける。

それが、『理』であり、『拘』なのだろう。

魔術師がここにわざわざ来て、顔を揃えて話し合う。

その事に意味は無かったが、その事にこそ意味があった。

ユーリが反対側の扉を開く。

どういう配置なのか分からないが、曲線を描く通路を更に通って、先ほどの部屋を拡大したような部屋にたどり着く。

その間、ユーリは当主の外見や性格を交えて、公爵家の説明をした。

本人は楽しげであったが、聞いている方は全く分からないので聞き流すしかなかった。

だが、

「ここが大会議場よ。今歩きながら説明した公爵16家と、議員が15名、そして必要に応じて執務官や巡察官が呼ばれたりすれば、全員で40名近くになるわ」

と言う説明を聞いて、ビジットの表情が険しくなった。

「おかしいではないか。どうして円卓ではないのだ? これではどちらかと言えば教室ではないか」

「そうね。・・・それは、実質的に合議の必要がなくなったからよ」

ユーリの言葉に、全員が驚いて視線を集める。

「どういうこと?」

ナフィルが問うのは、自分の、魔術師の根幹に触れるからだ。

「王国末期には、ここで合議する必要がなかったから。つまり、小会議場で決まったことを、ここで申し送りするだけだからよ」

その説明は、説明になってなかった。

「誰も反対したりしないのか?」

そのもっともな質問に、ユーリはかすかに自嘲的な笑みを見せ、

「統一された意思に、誰が反対すると言うの? いえ、統一されている、と言うべきかしら?」

と要領を得ない答えをする。

「ならば、どうして王国は滅びたのだ?」

「あら、その理由は、あなたもこれまで実際に見て来たのだから知っているでしょう?」

ユーリは含みのある笑みをして聞き返す。

ビジットは答えない。

ユーリは、

「そうね、要は王国は魔術師のための器だったのよ。それが、中身が違ってきたものだから、王国という器の必要性が無くなった、と言うところかしら?」

「では、何故この王都は残っている?」

その問いに、ユーリは初めて即答をせず二拍ほどの間を置いた。

しかし、今度ははぐらかすようなことはしない。

「それはね、・・・魔術師が居る限り、ここは在り続けなくてはいけないからよ」

今見ている風景が、それまでの印象を塗り替えられ、空虚さで占められた。

ここは、魔法王の玉座とは異なり、捨てられた所なのだ・・・。


「この街には自由に行ける所も、自由で居られる所も余り無い、と言うことは言ったわよね? 今日ナフィルが泊まるのはここ」

鬱蒼と木々が茂る、柵で囲まれた公園のようなところを、ユーリは指し示した。

「王都を訪れる貴族用の迎賓館、と言えば良いかしら? 有体に言えば宿泊施設ね」

「ここでなら安全と言うことか」

皮肉で言ったわけではないが、興味も無いのにつき合わされているタウスが暇を持て余していたのは確かなようだ。

「外へ出なければね。まぁ中も全て自由に歩きまわれるわけではないけれど」

軽口を叩くように、少しおどけてそう言ったユーリを、ナフィルは困ったように、ビジットは厳しい顔で、見やった。

居心地の悪さ、というものを皆感じていた。

それは、まるで興味の無いことにつき合わされているエイブスやタウスも、肝心なことをはぐらかされて戸惑っているナフィルやビジットも、等しく感じていた。

結局、議場で説明してくれたことはほとんど理解できないことだった。

王国の歴史や王国末期の解散にまつわる顛末は、聞く人によっては非常に貴重な資料だろう。

しかし、生き証人であるユーリの語り口調も、お世辞にも感銘を受けるような厳かなものではなかった。

重みを感じるような人物が不在な事を、ユーリは嘆いたりしなかった。

むしろ、義務感めいた煩わしさすら感じさせた。

ナフィルとビジットは、そのことに戸惑うのだ。

その迎賓館は、門をくぐっても建物の姿は見えず、前庭をしばらく歩かされる。

ある意味、一番ここが、意図的に魔術師としての権威を知らしめている感じがした。

そしてたどり着いた建物は、表面的には小さな館のようであった。

議場に似た美術的要素を持つ建築物である。

あっちが魔術師に似つかわしくなかったのは、自由を気質とする魔術師に、権威的秩序が重ならないからだ。

しかしここは、幻想の住人たる魔術師には似つかわしい。

議場とは同じようであるのにそう思うのは、やはりあちらが神殿であったからだろうか?

建物、それ自体に驚く要素は無かった。

皆が目を丸くして見つめたのは、扉の前に、王都に入って初めて見る、ユーリ以外の生物がいたからだ。

玄関前のエントランスに、随分と洗練されている揃いの給仕服を着た少女たちがいた。

もっとも、果たしてそれが何なのかは判断がつかない。

皆、同じような顔をしていた。無表情な似た顔が並んでいる様子は、とても異様な光景だった。

「ナフィルの世話をさせる僕よ。身の回りのことなら命じればほとんどのことは足りるでしょう」

20人は居る。その中に、1人だけ首に青い飾り紐を巻いた少女が居る。

あれは目印だろうか? エイブスはその少女だけがかすかに柔和な表情である気がした。

「ミュエル」

ユーリが声を掛けると、その少女が一礼をして列から前に出た。

「あれをナフィルに付けるわね」

見た目以上に幼い感じのする早歩きでナフィルの目の前に立つ。

「ミュエルです。ナフィル様の、王都におけるお世話をさせていただきます」

アスリンが目をしばたかせた後、

「お世話でしたら私でも出来ますが?」

と遠慮がちに、しかししっかりと口を挟む。

「ここは王都よ。魔術師に付けるのは支援者である方が良いでしょ。特にナフィルは余り良く知らないようだし」

それはそうなのだが、目の前の少女に得体の知れないものを感じて、気が気ではない。

「ナフィルのお連れにも1体ずつ付けるわね。質問には答えられないけど、差し支えは無いでしょ」

ユーリがそう言うと、

「急いで造ったので似た姿にしてみました。能力も必要最低限しかありませんが大丈夫だと思います。もし問題があれば仰ってください」

と、ミュエルが微笑みながら付け加えた。

「造った?」

魔術師同士の理解し難い会話にエイブスは反射的に応じたが、答えを得ても分からないのだ。

「人を作るのか?」

ビジットが信じがたいものを見るように少女たちを見やる。

「あれは人形ですが、魂ではなく私に組み込まれた術式を元に与えた命令に従ってる道具に過ぎません」

ミュエルが既知の事実として告げた。

タウスが天を仰ぐ。

エイブスが情けない顔をしてナフィルを見るが、ナフィルの方は当に諦めたように軽く首を振った。

聞き流せ、と言うことらしい。

「疲れたでしょうから、すぐ食事にして、早めに部屋に案内させましょう」

ユーリが目配せをすると、ミュエルが一礼して聞きなれない言葉を発した。

扉脇に立つ二人の給仕が、大きめの両手扉を開く。

ホールには二人、同じ顔の給仕が反対側から扉を引いて押さえている。

ミュエルは再び何事かを命じると、一団を引き連れて先に中へと入った。

一人に一人ずつ、給仕が傍に立つ。

「荷物を預けて頂戴。とりあえず食堂に運ばせて、後で部屋に行くときに一緒に持って行かせましょう」

エイブスが荷物を恐る恐る渡す。

その時、僅かに手が触れた。ひんやりとしていた。

確かに、活力というような生命力を感じない。だが、実際に人間とどう違うのかは分からなかった。

食堂はホールにすぐ隣にあって、既に用意もされていた。

部屋にはいくつもの円形テーブルがあり、その三つに二人分ずつ、料理が並んでいた。

意外に思えたのは、既にパンと肉料理、野菜料理が並べられていることだった。

貴族なら、料理は順を追って出されるのが普通だろう。

「今、スープをお持ちします」

ミュエルがそう断わると、給仕が全員を席へと案内する。

エイブスとアスリン、ビジットとタウス、そしてナフィルとユーリ。その配置は当然のように決められていた。

スープが皆に行き渡ると、

「お口に合うか分からないですが、どうぞお召し上がりください」

とミュエルが声を掛ける。

「豪勢じゃなくで失望させたかしら?」

と、ユーリが楽しそうに言う。

「どんな期待していても良いけど、実際はこんなものよ。私の好みでもあるけどね」

そう言って率先して口に運ぶ。

礼儀も何も無い。歓迎されているとは思いもしないが、おもてなしという雰囲気でもない。

「そう言えば朝に食べたきりだったな」

エイブスがアスリンを促すように口へと運ぶ。

よもやが毒があろうとは思わないが、味付けが突拍子も無い事はあり得る。

が、口に運んだそのスープの味付けはほとんど素に近い、良く言えば素材の味そのもの、悪く言えば味付けの薄いものだった。

「! 美味しいですね」

アスリンの感想を聞いて、エイブスは顔をしかめる。

「教導団時代に味覚は捨てました」

と言っていたアスリンは、質素な味付けの方が口に合うらしかったが、生活から酒が切り離せないエイブスには、味付けとは濃いものと決まっていた。

肉料理に手を伸ばす。

「これは何の肉だ?」

聞こうとした訳ではなく、つい口を衝いて出た疑問。

「山鳥です」

傍らに立つ給仕が突然そう告げた。

「しゃべれるのか?」

驚いてその給仕を見る。

相変わらずの無表情で、話をしようとは思ってもいなかった。

造ったと言うし、質問にも答えないと言ったではないか。

「その程度のことなら答えられます。この館と、日常的情報については大丈夫です。魔術に関わるものは入れてませんので、答えられないのです」

ミュエルがそう言って頭を下げた。

まじまじと給仕を見る。が、反応は全く無かった。

「でも、山鳥なんてどこに居るのですか?」

アスリンは不思議そうに料理を見つめた。

「この近隣の山には、鳥も動物も居ませんでしたよ?」

食料調達について、教導団では当然教えられていた。

狩猟方法はもちろん、食べられるものを探すことも、食べられるかの判断についても、まさに命がけで教えられた。

だが、生来の性格が災いしてか、どうしても残酷な狩猟方法が身に付かなかった。

「そう言えば、教えたくとも全く見当たらなかったな」

エイブスも不思議がった。

「それはね」

ナフィルが、無遠慮に料理を口に運びながら説明する。

「王都には魔力が集積されている。魔力は、人間や動物には余り良い影響を与えないの。だから動物は近寄らない、ということよ」

ユーリは二回頷いて、特に付け加えるようなことをしなかった。

「体に良くないのか?」

ビジットが顔をしかめた。

料理が、と言うわけではないが、食欲を失わせたらしい。

「直接干渉しなければ大丈夫よ。魔力酔いと言って、気持ち悪くなったり頭がボーっとしたり、お酒に酔った様になることはあるけど、病気と同じで気をしっかり持っていれば問題ないわ」

それを聞いて、エイブスが考えに沈む。

「もしかして、気分が悪いんですか?」

アスリンが心配そうに覗き込む。

「ん、いや、酒が無いのでちょっとな」

「そうだ、酒は無いのか?」

エイブスの答えを聞いて、タウスが給仕に問う。

「食後にご用意いたします。シア様は食事中にはお飲みにならないので」

給仕が答えずに、ミュエルが答えた。

話し掛けた給仕が無反応なので、タウスは少しばつが悪そうに居ずまいを正した。

「ところで、シア様という方が居るのか?」

ビジットが再開した食事を止め、給仕にではなくミュエルに問う。

「いえ、ユリエルシア・アークシオン様です」

「んぐっ!?」

理解出来ない話が続いて、つい聞き逃しそうになった。

ごくんと飲み下して、ユーリを初めて見たようにまじまじと見つめた。

「私のことよ。ユーリと呼ぶように言ったのに、ミュエルの製造者がミュエルにそう呼ぶように制約を掛けたのよ」

ユーリがどうでも良いことのように言う。

その話は、それ以上特に話題になるようなものではなかった。

しかしナフィルは、それ以上食事に手をつけることはなく、不信感を露わにして、ユーリを見つめていた。


結局、エイブスは3回もスープをお替りした。

それだけでなく、ミュエルの勧めもあって、山鳥の香草焼きも2皿平らげた。

もっとも、タウスもスープと肉料理をお替りしたのだし、アスリンも遠慮がちにではあったが、茹でた野菜に香味オイルをかけただけのサラダをお替りしていた。

ビジットだけが、

「私にはこの量で充分」

と言って、綺麗に平らげた。

「ナフィルは余り進まないみたいね」

と、何やら含みを持たせた笑みをして、ユーリが言った。

ナフィルはまともに相手をしようともせず、ただ睨み付けるようにして、その時を待っていた。

「そうそう」

と、皆が食事を終えた頃、ユーリが他愛のない事を思い出したかのように、付け加えた。

「王都には3日間しか滞在出来ないから、明日は今日見れなかったところへ行きましょう」

それを聞いたビジットとエイブスが、

「何だって?」

と揃えて声を上げた。

「3日間もここに居るのか?」

エイブスはビジットに譲ったらしい。ビジットが疑問を口にした。

「ナフィルの用が済まないのだから、とりあえずそうなるわね」

ユーリの答えは、ある意味ナフィルの意思を代弁していた。

しかし、それが早く済むのなら、その限りでもないが。

「私としてはしばらく居るべきだと思うけど、それを待っては居られないでしょう」

だが、ユーリにはそうさせる気は無いらしかった。

「ここでは、魔術師以外が無事で居られる保証は無い。ナフィルはきっと、貴方達を思って帰ってしまうのでしょうね」

最後は少し芝居じみた言い方だった。

終始無言のナフィルは、それをして肯定した。

「さて、ここに居ても良いけど、部屋へ行くのなら案内させるけど?」

ユーリがナフィルに言う。

「・・・皆に任せるわ」

不貞腐れたように言うと、ミュエルが

「ここで飲まれるのでしたら、お酒の支度を致しますが?」

と、タウスに声を掛けた。

「アスリンは部屋に行ってなさい」

ナフィルがそう言って立ち上がる。

ユーリも、それに応じて立ち上がった。

「ナフィル様はどうされるのですか?」

アスリンが慌てたように立ち上がる。

「私はユーリと話があるのよね」

それはユーリへの確認なのか、それとも自分の予定なのか、何とも不明瞭な答えだった。

ただ、アスリンがそれに伴うことが出来ないことだけは明白だった。

「大丈夫よ」

と、ユーリがアスリンを諭した。

「心配するようなことは何も起きないわ」

それは、アスリンの危惧することを全て否定する言葉だった。

見透かされているのだろうか?

思わず自身の体を抱きしめて、心の中身を守りたい衝動に駆られる。

「お部屋へご案内いたします」

すぐ傍に、給仕が立ってアスリンを促す。

「男同士でどこかに集まろうか」

そう言ったエイブスの声を、アスリンは遠くに聞いていた。


男たちはすぐ上の階の、タウスの部屋に集まった。

しかし、ビジットは初めの数杯に付き合った後、

「管理者が居る以上、私の仕事は終わっている。報告書を作ってしまっても良かろう」

と言って、さっさと自室にこもってしまった。

親交を深めようとも思わないので、結果として傭兵二人で飲むことになる。

まもなく、酌み交わす酒は余り品とは無縁なものとなった。

「期待外れも良いところだ」

と、吐き捨てるようにタウスが毒づいた。

「命があるだけマシと思うしかあるまい」

別に諌める気は無いが、エイブスは本心でそう思う。

「報酬は確かに良い。しかし、俺はこの仕事を得るのに苦労したんだ。何せまだ誰も手をつけたことの無い遺跡だと聞いてたからな」

無論、エイブスもそう思っていた。

もっとも、事前にナフィルが

「生きて帰れるか分からないのに、お金の心配してる場合じゃないわよ」

と、まるで自分が無理やりつき合わせているのを忘れたかのように言い放っていたから、期待もなにも無かったが。

「不愉快なのはそれだけじゃない」

タウスは、部屋の片隅で無表情のまま立っている給仕を一瞥してから、

「気に食わんのはあの態度だ」

と、タウスはユーリの応対を切り捨てた。

あの魔術師は、我々をまともに相手をしていなかった。

その扱いが最低限の礼儀を持っていたのは、ナフィルの所有物に対する扱いと変わりが無い。

「つまり、こうして生きていられるのはナフィルのおかげと言うことか」

皮肉にしては辛らつな表現だった。

タウスにしてみれば、ナフィルも人間ではない魔術師なのだ。

「ま、そういうことだな」

エイブスもそれを否定しなかった。

それは紛れも無い事実だった。自分も人間である以上、タウスには同調しても、ナフィルを庇うことは出来ない。

「だが、これが仕事である以上仕方が無い。俺はナフィルから報酬を約束されている。お前はそれだけでは不満なのか?」

タウスは、直ぐには答えなかった。

自分の何かに問い、その答えが返ってくるのに、カップの酒を飲み干す時間が必要だった。

「ま、戻ったらまた仕事を探さにゃならんだろうよ」

とだけ言った。

はぐらかされたか?

エイブスは、ともすれば心情や本心を吐露するのではないかと期待していた。

どうしてか、この王都に居ると気が大きくなるように感じる。

感情的と言うか、感情に流されるという感じだ。

しかし、タウスは表情を隠し、それまでのやさぐれていた雰囲気を一掃させた。

「それよりも・・・」

と、エイブスはタウスに請われて自身の傭兵時代の話をする羽目になった。

傭兵同士は、常に情報交換をすることが不文律になっていた。

それが生き残る道であり、金や名誉を得る道である。

エイブスはここで初めて、タウスが傭兵隊ではなく、遺跡発掘ギルドで活動していたことを知った。


程よく悪酔いをすると、夜が深けるのも待たずにエイブスは自室に引き上げた。

まだ寝るつもりは無かったが、タウスはベッドに横になり、部屋の隅に立つ無表情の少女を冷たく見やる。

世話をするとは言うが、恐らく監視役だろう。

ただじっと、用事を仰せ付けられるのを待ち続ける。

それを少し哀れに思う。

同情ではなく、どちらかと言うと侮蔑的に。

自分は、自分の意思で好きなことをしてきた。

それには、自分のどうしようもない限界を知ると言う苦悩があったが、何ものにも縛られない自由があった。

自分が望み、自分が考え、そして自分が行動する。

目の前の少女には、それが全く無い。

人間ではない生物と言うことを気味悪く思わないわけではない。

しかし、見た目には人間に遜色は無く、だからこそ人を模しているのだろう。

その点で言えば、彼女が人間でないのが頷ける。

仮に殺したとして、呵責を覚える必要は無いかもしれない。だが・・・。

今、行動をするのは不味い

無理をすれば出来ないこともないかもしれないが、それは余りにも無謀に過ぎる。

タウスは、ユーリの言っていた「三日間」を反芻していた。

時間的なこと。場所。状況。そして知識。

「ここは大人しくしているしかないが・・・」

部屋に押し込められて、ただ暇をもてあますのでは面白くも無い。

昼間のエイブスの迂闊な行動を思い出した。

「俺も結構無謀だな」

タウスはそう言いながら少女の前に立つ。

無表情ではあったが、自身の境遇を嘆き、沈んでいるようにも見受けられる。

端正な顔立ちをした、出来の良い艶やかな陶器のような肌をした少女は、タウスが目の前に立っても、少し下を見るように視線を下げたままだった。

「ま、外に出られないなら俺の相手でもしてもらうか」

タウスがそう言うと、少女は顔を少し上げ、見上げる形となった。

タウスには、それが許しを請うような、嗜虐的な感情を湧き起こさせる表情に見えた。

本当に人間ではないのか確かめてやる

タウスは情欲的な感情に任せ、少女の腕を取った。

しかし、少女は特に抵抗することもなく、そのまま手を引かれてベッドへと連れて行かれた。


裕福な商家という良家の子女であったが、アスリンは決して大事に育てられたわけではなかった。

どちらかと言うと厳しい方だろう。子供の頃から荷物運びや帳簿整理をやらされていたし、頭を叩かれたり蹴られたりした事もあった。

今でこそ港町で商会を営んではいるが、そもそも、曽祖父に当たる3代前の創業者は南海と北海を1ヶ月掛けて行き来する隊商をしていた。

家族総出で仕事をしていた。女であれ子供であれ、働けるものは働く。夜盗や山賊から荷を守るため、女であっても武器を取って戦うのが慣わしだったのだ。

そのため、戦って命を落とすこともあった。

大好きな祖母も、隊商に付き従って戦った経験がある、と言っていた。

また、父親の次兄に当たる伯父は、数度争った因縁のある山賊団との戦いで命を落としていた。

そうまでして何故危険な商いを行ってきたかと言うと、既に他界した娘婿である祖父が、曽祖父の言葉であるとして言っていた。

「人は皆自分のすべきことがある。作る人、運ぶ人、売る人、買う人、こうした人が繋がって私たちは生きている。作る人は時として買う人になったり、買う人は時として運ぶ人になったりもする」

私たちはそうした繋がりのある一部である。

そして、それを二つも三つもしている我々は、何と尊い仕事をしているのだろう?

「仕事は、それが使命であれ金であれ、命を掛けてするものだ」

そうした考えを受け継いでいる現在の当主である父親はそう言った後、続けて

「なのに自分の命を他人に預けるとは、商いの実益を超えている」

と眉間にしわを寄せ、渋い顔をしながら付け加えた。

教導団に入りたい、と告げた時のことだ。

父親は、アスリンが魔術師の近侍になりたいという意思を知っていたから、自ら自分ではなく他人の意思のために働くことを暗に非難したのだ。

祖母はしかし、アスリンの決意を無碍に否定したりしなかった。

「あなたが決めたことなら、それが他人を不幸にすることでない限り、私は見守っているわ。ただ、それをやり遂げずに諦めたりしてはいけない。それだけは約束して頂戴」

ナフィルの話を子供の頃から聞かせてくれていたのは祖母だった。

初めは単なるお伽話だと思っていた。

しかし、そうでないことが大きくなると分かってきた。

祖母の姉に当たる人は、昔ナフィルの元に実際に居て、給仕として働いていたと言うのだ。

その人に会ってみたい、と祖母に言ったが、首は縦に振られることは無かった。

何故なら、祖母にも居場所が分からなかったからだ。

アスリンが、この世には望んでも届かないものがあるということを自覚した初めての体験は、入団試験に臨む年の初めに起きた。

その日、アスリンは朝食を家では無く、勧められて親戚のところで摂っていた。教導団を卒業して戻った従兄に話を聞くためだった。

だが、海賊討伐を果たし、東沿海航路を通って1年ぶりに入港する船の積荷を迎える為、港に行く祖母の付き添いをすることになっていた。

アスリンは話を聞くことで家からは付き添えないため、港に近い店で落ち合うことにした。

その祖母は、店から来た迎えの少年と共に店に行く途中、襲われて少年共々殺された。

襲ったのは海賊の残党という事だったが、その利益を得て協力していた貴族の後ろ盾があったことが、街中での凶行を可能にしたのだと噂された。

しかし、それはアスリンにはどうでも良いことだった。

自分が居たらどうにかなったのではないか?

その思いが、アスリンに自責を強いた。

この日に襲われたのは祖母だけでなく、貿易や海上輸送に携わる商人と、海軍の貴族や騎士など20人近くに及んだが、少人数だったため、護衛が居た人たちの多くが生き延びていた。

失意の中にあったアスリンは祖母の葬儀の後、祖母の姉に当たる人が生きているというので会う機会があった。

その女性は存在自体を隠されていた。だから、父親は知っていたが母親は未だに知らないはずだと言う。

アスリンが知ったのは、ナフィルのことを良く話していた祖母から聞いていたという、その女性からの召請があったからだ。

そこで、祖母が父親から口止めされていたことも知った。

女性は、旧市街の身寄りの無い人々が寄り集まって暮らす施設に居た。

アスリンは、その女性を見たときに驚きを隠さなかった。

女性は祖母の姉とは言っていたが、見たところ母親よりも若いのではないかと思ったのだ。

女性は祖母と同じような慈愛に満ちた優しい微笑みをして、

「私もね、少しだけど魔術が使えるの」

と言って、魔力に干渉することが肉体に影響して、見た目的には老化していないのだと告げた。

メルキス学術院からは、第三種の魔力干渉能力者であるという指定をされていた。

それはナフィルの影響を受けて、特殊能力として魔力に干渉できるようになったからだった。

「でもね、もう体のほとんどは動かないの。魔力に当てられたのね。」

施設の人に聞けば、もう何度も昏睡状態になって、話をすることはおろか生きているのも不思議であると言われていた。

「妹の代わりにね、あなたに伝えておこうと思って」

自分のことはどうでも良いからと、女性は全く健康そうでありながら、血の気の薄い顔を綻ばせて、アスリンに手を握るように促した。

「望めば叶う。でも全てが叶うわけじゃない。全てが良い事ばかりじゃない。分かっていても、どうしようもないことがある。あなたは見つけたんでしょう? だったら立ち止まらないで進みなさい。・・・妹は、私にそう言って送り出してくれたの。ナフィル様の所に行くことは、家も家族も捨てることだった。その覚悟が無かったのね」

そこまで話して、深く息を吐く。

アスリンは止めようかどうしようか悩んだ。

しかし、血色の悪いその唇は、閉じることは無かった。

「良いのよ、悩んでいて。覚悟だって、したつもりでもその時になれば揺らぐもの。後悔しないようにしようと、後悔する度に思ってきた。ナフィル様もそうだった。二人して悔やんだりしたもの」

アスリンから視線を外し、懐かしむようにそう言った。

力が入らないからなのかもしれなかったが、優しく握られたその熱っぽい手の暖かさを、アスリンは心地よく感じた。

祖母の手も、しわだらけで節くれだってはいたが、同じ暖かさだった。

それを思い出して、感極まって知らず泣いていた。

「ナフィル様に宜しくね。あの人、いつまでたっても自覚の無い人だから」

後ろ髪を引かれる思いで、血の繋がりがある「魔法使い」の元を辞去した。

覚悟が出来たわけではなかった。

自分の至らなさを痛切に感じた。一方で、自分が何でも出来るという傲慢さが恥ずかしかった。

魔術師と生きるということはどういうことなのだろう?

自分なりの覚悟を見つめ直そうとして、アスリンは当初の希望通り教導団入団試験に挑んだが、補欠合格を果たしたその時にも、アスリンの心は晴れないままだった。

この世には望んでも届かないものがあるということを自覚した二度目の体験は、教導団に入って半年たった頃に起きた。

基礎教練を経て半年後に行われた検閲を終了し、特修教育中のアスリンに特命の任務が下された。

重要人物の身辺警護である。

良家の出であるアスリンは、行儀作法について秀でていた。

教導団には他にも女性が居ないことも無かったが、基本的に粗野で粗雑であると言った印象が的外れではないことを証明していた。

必然的にアスリンが抜擢されたが、その相手とは、トゥーリ教団の聖女と呼ばれた「魔法使い」だった。

確かに、アスリンは魔術師であるナフィルの近侍となることを夢見ていた。

しかし、実際に、神秘の術なるものを身近に感じることは無かった。

その望む世界に、とうとう私は近付いたのだ。自覚が緊張感と高揚感をもたらした。

が、実際に会ったその「魔法使い」は、まだ12歳の少女だった。

弱視で、鼻の頭が付くほど近付かないと、顔の判別がつかないとの事だった。

この世を見ないその不思議な瞳を持つ、凄く落ち着いた大人のような微笑みをする娘、というのが、アスリンの第一印象であった。

アスリンが奇妙に思ったのは、その時の教団の幹部たちが警戒心を露わにして、仲間内でも決して和やかな雰囲気を醸し出していなかったことだ。

本来、教団の秘蔵とされる「魔法使い」を、教導団から派遣された護衛が守ることなど考えられない。

その特殊な状況下で、その作られた外面を唯一とする少女に、アスリンは親近感を覚えて知らず肩入れをしすぎた。

教団の少女は、名を捨てていたがアスリンにだけ、幼少の頃の名前を教えてくれた。

エクレットという名は、しかし、魔法を顕在化してからは教団の所有物となって捨てられた。

教団の関係者ではないアスリンだけが、警護対象としてのエクレットという名を何の思惑もなく呼ぶことが出来たが、それは得られることの無い幻想だった。

教団にとって、エクレットが人間であっては困る。アスリンの行動は、侮辱であり、禁忌だった。

結局、何者に狙われているのか不明のまま、身辺警護役を解任された。しかし、建物を守る警備役で残された。

自分が一番近くに居た。私が一番に守らなくてはならない。

祖母を失ってから、アスリンは切迫感に苛まれた。

エクレットから離された時、アスリンは二度と同じことにならないよう、敷地の外から常に気を配っていた。

・・・はずだった。

エクレットが殺されたのは、アスリンが離された3日後。犯人は、教団の高司祭である、かつて少女の叔父だった男である。


「どうして!?」

その問い掛けに意味が無いことを、自分自身知っていた。

先ほど食堂で別れ、案内をされて宛がわれた自室に入ったばかりだ。

それがどうして部屋でユーリが待ち受けているのか?

いや、部屋に入った時から、アスリンの記憶は曖昧だった。

自分に用がある。それが予想外のことだったので、アスリンは頭の中が真っ白になった。

ユーリは無表情なまま、

「本来は人間などを相手にすることは無いが、ナフィルはあなたたちを含めてこその魔術師なの」

と言って、あの見通すような眼差しでアスリンを見据えた。

ユーリの濃い茶だったはずの瞳が、昏い赤になっていた。

アスリンは声を出そうとして、それが叶わないことを知った。

いや、それどころか体が動かないっ!?

「力を抜きなさい。そうすれば少しは楽になる。・・・あぁ、もう一度言っておくと、ナフィルに危害が加えられることは無い。無論、あなたにも。そう言えば少しは気が抜けるかしら?」

アスリンは、不安や心配はあったが、とりあえず恐慌状態からは脱した。

いかなる状況においても、冷静な状況判断をすることは教導団で嫌と言うほど教えられた。

それは既に技術ではなく感覚であって、ナフィルのことで少し動転してはいたが、今はもう落ち着いていた。

「それで良い」

どうでも良いことにも気を使ってみせている、とアスリンにはそう思えた。

それは、タウスらが感じていた、ナフィルの所有物に対する礼儀に過ぎないものだろう。

「これはおせっかいと言うものよ。昔の失敗は忘れられまいが、それを割り切らねば取り返しのつかぬことになる」

アスリンが精神的に身構える。

それは、『あんなこと』と言われた昔の失敗を、どういうわけかユーリが知っていることに対する防衛本能だろう。

しかし、ユーリはそのことには触れず、

「それと、あなたはこのままナフィルと居れば、ナフィルに求められるままにその犠牲となる。必ず、とは言わないが、そうなる可能性は高い。何が言いたいか分かるかしら?」

「・・・覚悟を決めろ、と言うことですか?」

ふん、と鼻を鳴らした。生意気なことを言う、とでも言いたい様な態度だ。

「あなたが覚悟をしていようとしていなかろうと、ナフィルはあなたが傷ついたり死んだりすれば勝手にそれを自分の罪とする。それはそれで良い」

聞き捨てのならないことを言う。しかし、相手の方が格が高いので問い詰めたりしなかった。

「でも、それならどうして覚悟をしろなんて忠告をするのですか?」

ユーリは表情を変えることなく、

「おせっかい、と言っている。あなたはナフィルにとって見れば一部であり必要なものなの。思うようにならないものだからこそ、私がおせっかいを焼いている」

そう言って妖しく微笑んだ。

その笑みに、アスリンはカッと体が熱くなる感じがした。

それは同姓でありながら、強力な魅了の力による無防備な理性への攻撃だった。

ユーリに対して理由も無く性的な欲情を覚えていることを自覚して、アスリンの顔が朱に染まる。

ユーリが目を瞑って、開いた時には瞳の色は元に戻っていた。

「と、言うことよ。気になるでしょうけど、私はナフィルと大事な話がある。あなたはここでしっかりと休みなさい。近付き得ないものは、どうしたってあるものよ」

部屋の片隅の闇の中へと、ユーリが歩み去ろうとする。

「ちょっと待ってください!」

反射的にユーリを引き止めた。

「一つだけ、教えてください。私は、ナフィル様にとって必要な人間なのですか?」

それは、本当は聞くべきことではなかった。

しかも、それをユーリから聞いたとしてもどうしようもないことだと分かっていて、アスリンは聞かずにはいれなかった。

必要でないから、自分は常にその場に存在が許されなかったのではないか?

「この世に、必要な時に必要なものが揃う、なんて奇跡は起きないわ。あなたは、今、たまたまここに居ただけよ」

その瞳は冷たく、アスリンを射抜いた。

しかし、決して無感情なものではなく、僅かに祖母に似た深い愛情のようなものを感じた。

ユーリはアスリンを置いて闇に消えた。

絶対の安心感が芽生えたわけではない。

むしろ、アスリンは自分の存在価値を計りかねた。それと覚悟が釣り合わないことに、言葉にならない不快感を生じさせていた。


 観光1日目の夜「星見の塔」


食堂には、ユーリとナフィルだけが残った。

「さて、落ち着けるところに行きましょうか」

そう言って、ユーリはナフィルを手招いた。

「ここは淀んでいて見え辛いから、私の塔へ跳ぶわよ」

ユーリが手を引く。体が前につんのめった。

転移ではなく、跳躍という異界を通って移動する魔術だ。

しかしそれも一瞬のこと。

窓の無い石壁と石畳に囲まれた部屋に居た。

椅子も机も無い、魔法陣が床に描かれただけの部屋。

ぽっかりと、下へ降りる階段が壁際に口を開けていた。

「じき、ミュエルも来るわ。その前に・・・」

少し間を取って、ユーリが振り向く。

「聞きたいことがあるのでしょう? 言って御覧なさい」

まるで審問官のような言い方だ。

ナフィルの目が、少し釣り上がる。

そして、一旦口を開きかけたが、深くため息をついてから、

「騙されていたわけじゃないでしょう。言わなかったのも聞かなかったのも同じことだし」

自分に言い聞かせている。

それをユーリは楽しそうに見ていた。

「あなた、神なの?」

出し抜けにとんでもないことを聞くと、ユーリは表情で訴えた。

「・・・また、唐突ね。私は魔術師よ?」

その言葉をいぶかしんで、表情は険しいままだ。

「隠すつもりは無いから話してあげる。アークシオンの名は確かに神よ。私は、原初の混沌に芽生えた14の意識の一つ。アークシオンの下位神だった」

ユーリは手を広げるように自身をさらけ出した後、

「そうね、まずナフィルの認識を改めておきましょう」

と言って腕を組んだ。

表情は消えていたが、どこかしら不愉快な感じを受ける。

ナフィルは自分の体温が下がるのを意識した。

「神と魔術師の違いって知ってる?」

ナフィルは小さく首を横に振る。

「神はね、万能では無いのよ。絶対的な力を持っているけど、でもそれは自分の持つ定まったものだけに限られている。成長も可能性も無い存在。生まれた時に、もう終わっているのよ」

その言い方に驚く。

神の眷属が、自らを否定するようなことを言っていた。しかも、自らを生み出したものを公然と貶している。

「私はね、ナフィル」

抑揚を抑え、声の調子を下げたユーリは、僅かに悲壮感を漂わせた。

「あんな、自身に固執し、未来を委ねるしかない存在と一緒とは思いたくなかった。過ぎ去ったものなんて見たくない。だから、私は魔術師なのよ」

「また怖い顔されてますよ、シア様。ナフィル様が怯えているじゃありませんか」

ミュエルが、ユーリが言い尽くすのを見計らったように、トレイにカップを載せて階段を上がってきた。

「・・・いつもしているわけじゃないわ。大体、ナフィルに私が神とは違うものだと教えていただけよ。怯えてなんていないわ」

心外だ、とばかりにユーリが抗議をする。

それまでの雰囲気が崩れ、ナフィルは人知れず安堵のため息を吐いた。

本人はそのつもりが無くとも、魔術師である以上何がしかの影響を周囲に与える。

威圧感と言うか、強制認識にも似たものを、ナフィルは確かに感じていた。

それだけの自己否定が、ユーリにはあったのだ。

魔術師であると言い張っているのは、自らを高めている一方で、常にユーリを劣等感のように貶めていた現われでもあった。

「お二人は似ていらっしゃいますからね」

と、ミュエルが言った。

ナフィルはその意図を計りかねてミュエルを見る。

「もしそうなのだとしたら、私は神であり続けていたわ」

ユーリは憮然として言い放つと、トレイからカップを奪って背を向けた。

「ここは椅子も無いのです。立ったままですけどどうぞ」

ミュエルが勧めるので、ナフィルは何故か罰が悪そうな顔をしてカップを受け取った。

のどが渇いていたのか、カップが小さいので一気に飲み干す。

ミュエルはそれを待って、トレイを差し出した。

立ったままなので、元々一息で飲み干せる大きさなのだ。

ナフィルがカップを載せると満面の微笑みで応える。

「さて、話の続きよ」

ユーリもカップを載せる。

ミュエルは一礼をすると、そのまま階段を下りていった。

「いっぺんに認識は改まらないわ。だから、今日はナフィルの魔術師と言うものに対する思い違いを正しておくわ。そうでなければ、ナフィルが求めるものを得ることは叶わないから」

ユーリはそう言ってから、少し思案気な表情をして、

「神は神であるが故に絶対なの」

と突然言い放つ。

「誰が一体、神は慈悲深いなどと言ったのかしら。過ちは許されると、求めれば救われると、誰が言ったのかしらね」

とても答えられそうに無いことをユーリは問う。

「そんな訳無いでしょう? 花壇に咲く花は、きちんと世話をされて、綺麗に咲いたもの。それ以外のものなんて認められるはずは無いのに」

ユーリはナフィルに同意を求める。

だが、答えようがない。

ユーリもナフィルに答えを求めたわけではなかった。

「花壇からこぼれた花は、自分で生きるしかないでしょう?」

不敵な微笑みをしてユーリは言う。

そうであるなら悲しむべきだった。なのに何故か、ユーリは嬉しげで、楽しげであった。

「神が、魔術師を生み出したのではなかったの?」

魔術師は、神になることを、神秘をなすことを目標としてきたのではなかったのか?

「そうよ。でもね、結局は自らを否定することが出来なかったの。常に得られ続けることはない。一部を捨てて得るか、自らも変わらなくてはならない」

ユーリが天井を見上げる。ナフィルもつられて見た。

そこには、満天の星空があった。

ナフィルは、目を見開いて、石造りだった天井を見る。

「神は今を生き続けるしかなかった。夢を捨て去ったのは、自分たちだったのよ」

ここは部屋の中だ。外を感じる風の匂いは無い。

にもかかわらず、天井の星は瞬いて、空間の感覚を失わせた。

「魔術師はね、神とは異なり、全てを混沌に帰す術を手にすることが出来る。神に近付くのではなくて、神を超えるのよ」

ユーリが魔法陣の中心へと歩いていく。

「魔術師は、神に見捨てられた存在なの。魔法使いとは違う、自ら生み出さざるを得ないもの。あなたがいくら未熟だと言おうと、一度見放されたものが再びこの世界と交わることなんて出来ないのよ」

魔術師がどうして存在するのか、ナフィルは考えたことが無かった。

もちろん、どうして居なくなってしまったのかも。

ナフィルは目を伏せた。

「魔術師になると決めた時、リシュエス師は既に消失してた。私は、私の思いだけでここまで来た。魔術師になれたのは本当に偶然で、それも取るに足らない程度。私が求めたのは、神の座ではなくて、リシュエス師の思いを届けたいだけ」

「たったそれだけのことに人間を捨てたの?」

辛そうな顔をする。

ナフィルの過去を見るユーリは、それがナフィルを縛るものだと知っている。

「そうね、たったそれだけのことかもしれない。それが人間らしいところだと言われたけど、それはむしろ魔術師には必要の無いもの。だから中途半端だと言いたいのでしょう?」

ユーリは顔を横に振ってそれを否定した。

「至らないからこそ必要なもの。だけど、それだからこそあなたには意外性も成長する余地もある。王国の魔術師たちは、得てからなお費やして求めた。だけどあなたは、その求めるものに費やす全てが、得られないものから賄わなくてはならない」

ナフィルが情けない顔をしたので、ユーリは頬を少し上げるように微笑んだ。

「別に、魔術師になるのに崇高な思いなんて必要ないわ。それが世界の破滅だろうとね。もっとも、そんなことを許しはしないけど」

教えを垂れる導師の様に、ユーリは魔法陣の円に沿って歩く。

「魔術師となった以上、ナフィルがどう思おうと、何を目指そうと、その行き着く先は魔術師の目指しているもの。私は、ナフィルの自覚のなさが返って心配なの」

魔法陣の中心に追い遣られたナフィルが、肩越しにユーリの声を聞く。

「ナフィルもここに来る前に聞いたエルバイオという魔術師も、あなたと同じ何も持たない者だった。あの魔術師がナフィルと違うところは、無いものを補うためには如何なる犠牲も惜しまなかったし、それに対する呵責も持ち合わせていなかったことよ。私はそれでも全然構わなかった」

その理不尽にも犠牲にされた人間たちを思い出し、ナフィルは怒りに震えんばかりに険しい顔をして睨み付けた。

「だから、犠牲を強いたの? 同行した人間を殺せとけしかけたのね。私にもそうしろと?」

しかし、ユーリはそんなことで動揺することも無く、微笑みを少し抑えて

「そうね、それでも良いけど、そうする必要性が無いわ。奪うにせよ与えられるにせよ、補うことに変わりはないし、そちらの方がより効果的に見える」

と、思案気に言って見せた。

ナフィルが絶望した顔から、徐々に血相を変えていく。

「間違わないで。ナフィルが人間であったか無かったかも関係ないの。ナフィルは自分が人間だったから、自分も人間としてそう感じるのでしょう。それを否定はしないわ。でもね、あなたは今や魔術師なのよ。さっきも言ったでしょ? 未熟だろうと何だろうと、人間から見ればナフィルは人間ではなく魔術師だと」

ナフィルには到底及ばない真剣な思い。

気圧されて何も言い返せない。

「あなたがいくら人間を守ろうと、人間はナフィルを信用しない。付き従っている人間はナフィルの全てを知っているわけではないし、ナフィルの全てを許してはいない。ナフィルが人間に逃げ込もうとも助けてはくれない。そして、あなたが自分が魔術師だと自覚しないことが、益々人間を犠牲にしていくことになる。滑稽でしょ? 助けたい思いが強ければそれだけ犠牲にするのよ? だとしたら、あなたは何を求めるの? どんな軽率な理由でも、覚悟が必要だったのよ。だからナフィルは、自分の命と引き換えにしても良いとさえ思った人間を・・・」

「やめてっ!」

心臓の鼓動が頭に響く。視界が途絶え、体温が上がってひんやりとした部屋の中で汗をかいていた。

思考を妨げる言葉にならない声が聞こえた。これ以上考えるのは不味い。

抑えている感情が、否定していた考えが、自分を満たしてしまう恐怖。

「今日はそのくらいで・・・」

ミュエルが、いつの間にかナフィルの隣に立ち、震えるナフィルの肩に手を添え、優しい声でユーリを諭した。

「そうしましょう。取り合えず同じ世界に来ただけでも歓迎すべきこと。私はきっかけにしか過ぎないもの」

天井に広がる星空を見つめる。

主催者であるユーリは、いつの間にか魔術師の様相をして、ともすればナフィルを飲み込もうとする星見の塔の稼動を制御していた。


かなり以前に書いたものです。

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