君は好きだと叫びたい
大切にしていたものを自ら踏みにじることで大人になるのかもしれない。
誰が叫ぶのだろうか。
君は、好きだ!と叫びたいのか。
君は好きだ!と誰かが叫びたいのか。
君はということはそれ以外が嫌い或いは、好きではないのだろうが、その感情の機微を理解することは甚だ困難だ。
やっぱり「君が好きだと叫びたい」がしっくりくるな。
と思いながらスポーティーさの中にエロをはらんだミドルショートの彼女を視界に捉える。
何を隠そう私、谷井啓太郎17歳は初恋の真っただ中である。
同じクラスの柳京香が好きだ。
かわいいから。
性格も好みだ。
仲もいい方だと思うが、逆にいろいろ失うリスクを避けて告白というロイター板を踏みしめていない。
エロい。それは私、谷井啓太郎の主観によるところが大きいのかもしれない。
好きということは生物的に考えればヤリたいということであってもおかしくない。
わきあがる若い欲望を肯定しつつも、青春真っただ中であることを考慮し、下半身と精神を切り離した崇高な恋も体験してみたい気持ちもある。
「おい、ケイ。次体育だし早く外行こうぜ」
「あぁ」
「京香ってたぶんヤリマンだよな」
「俺は知らねぇよ」
「そうなの?俺頼んでみようかな」
何をだ。心の中で突っ込む。
友人の小谷文雄との会話は、下卑た軽快さを持っている。
それはこの年代特有のものなのだろうか。
男というのはこういうものなのだろうか。
まぁ、どうでもいいのだけれど。
今の会話で、「京香がエロい」というのは私の主観だけではないことが発表された。
私、谷井啓太郎は「愛している」や「好きだ」といった類の言葉を使ったことがない。
だんだんと世の中で人間として生活していると、テンプレートというものが大手をふるって歩いていることに気が付く。
「そういっておいた方がうまくいく」
というものが世界に蔓延している。
人間という種が存在して社会生活を送っている以上無限繰り返される統計データ収集から生み出されているテンプレートは強い。
でも、テンプレートを使うということはうまくいかせることであって、私の意思を使う、動かすことではない。
私、谷井啓太郎は青春をきれいなものとしたい。甘酸っぱくもあってほしい。理想としては、心を動かしたいし、動かされたい。その中で、「好きだ」という言葉を乱用していない自分を心強く思う。
好きという特別な感情。特別な言葉をここぞという時まで取っておくのだ。
あれから、大学2年の夏に青春は敗北した。
京香に告白した。
それはそれでうまくいったのだけれど。
言葉の持つ軽薄さに敗北した。
「君が好きだ」という言葉は、相手の手の平から、指の間から、するりと抜け落ちた。
「あ、そう」という言葉で完結した。
愛を成就させるために、受け取りやすいイミテイションの言葉で着飾った。
付き合えるという事実に対する喜びと。
私の『好き』が世にあふれている『好き』と同等に扱われたことに対する、絶対的無力感。
私個人に与えられた私という主人公が歩む青春の逡巡という物語は劇的に幕を下ろし、現実社会の春が訪れた。
とても、満たされた絶望だった。
逆か、むなしさの先の喜びだった。
いやどうでもいい。
京香を抱いた。
キスをした。
セミロングまで伸ばしたきれいな髪をそっとなでた。
シャンプーと雌の香りがした。
セミロングとセミショートって両方ミドルってことじゃないのか。
青春を終えた真実の愛を前に、私は…いや俺は。
少し冷めた視線で事も無げにつぶやく。
「愛してるよ」
「うれしい。私も」
淡白な真実は捨てられ、彩られた愛は今日も燃え上がる。
それでも。
本当に『君は』好きだと叫びたい。
明日は変わるだろうか。
ありがとうございました。




