奇跡の人?!
と、その時だった。外で何か騒ぎになっているようなざわめきが聞こえて来て何かとウドとふたりで家の外に出ると、川べりに何か人だかりができているのが見えた。
「何だ?」
「さあ…」
状況はウドも俺も変わらない。俺にわからないんだからウドにわかるはずもないのはわかってはいたが、つい傍にいる人間にとりあえず聞いてしまうのは人間の習性と言う奴か…だが、
「ダメだ、息してねぇ」
「こうなったらもう…」
微かに聞こえて来たその単語に医者としての本能が無条件に脚を動かしていた。
「白彦様?!」
何が起こったかは知らないが、とにかくそこには緊急事態に陥った病人または怪我人がいる可能性が非常に高い。今救急救命医が出ずにいつが出番だ。
「通してくれ!」
突然現れたまさかの白彦の存在に人垣が驚愕の面持ちを持って割れて行く。
「し、白彦様…?」
「白彦様なのか、本当に…?!」
「本物かよ…?」
白彦は本来ならばここになんているはずのない殿上人だ、噂にその容姿に付いて聞いたことはあっても、本物なんか見たこともない連中だらけの中で本当にこんな容姿の人間がこの世に実在するんだ、と言うくらいの驚きが肌にビンビンと伝わって来るが、そんなことに構っていられる状況じゃない。
割れた人垣の先にいたのは、横たえられた少女がひとり。ずぶ濡れになっているその様子から川に落ちたのは明白だった。
「退いてくれ!」
それでなくても人が溺れてパニックになっているところに突然の、ここに存在すること自体がまずあり得ないはずの白彦の登場だ、何が起こったかわからず呆然と立ち尽くしていた男を強引にその場から引き剥がすと、
「大丈夫ですか?! 聞こえますか!?」
ダメだ、反応がない。鎖骨を叩いても反応しないし、胸部・腹部どちらを見てもこれは完全に心停止状態だ。
「白彦様…っ」
何か手伝えることは、とでも続けようとしたんだろうが、残念ながらこの時代AEDや救急車は存在しない。つまりウドに手伝えることは何もない。
とにかく今は胸骨圧迫が最優先だ。
「戻って来い…頼むから帰って来てくれ…!」
うら若き少女の上に馬乗りになり押してみたが、残念ながら白彦のモヤシ腕じゃ腕力が足りていないのは押した瞬間にわかった。しかも充分な胸骨圧迫を続けるための体力も全然足りない。挙句に見たことも聞いたこともないことを溺れて意識のない人間にいきなり始めた白彦の奇行に、周囲はどよめき始めている。相手が下手に手出しのできない白彦でさえなければ即座に邪魔されていても何の不思議もない状況だ。
「ウド! 俺のやり方を見て覚えられるか?!」
「はいっ」
胸骨圧迫は実は見た目以上の体力勝負だ、ここは満足に押せもしない俺がやるより体力バカに任せる方が正解だろう。
「真っ直ぐにこのくらい押して、手を放して戻ったらまた押す。湶が折れてもいい、このくらいの速度で30回続けられるか?!」
「はいっ!」
圧迫作業をウドと代わり、俺は圧迫回数を頭の中で数えながら頚椎症の有無を確認――幸い首に怪我はなさそうだ。これなら頭部後屈・顎先挙上で気道が確保できる!
「…29、30! 一旦停止だ!」
「はいっ」
ウドをそのまま待機させ、俺が横から額と顎に手を当て気道確保、被衣を患者の顔に被せてから鼻をつまみ、マウストゥマウスで人工呼吸を試みる。
「し、白彦様…っ?」
だが、戻らない。顔色にも何ら変化もない、ダメか…!
「ウド、もう一度だ!!」
「は、ははははいっ」
2、3、4…戻って来い戻って来い戻って来い戻って来い…! 頼むから戻って来てくれ!!
「…29、30! 代われ!」
「はいっ」
もう一度人工呼吸を試みる。AEDもない、この応急処置しかできることのないこの状況下で、助かる可能性があるとすれば時間との勝負だけだ。頼む…! 一秒でも早く自力で息を吹き返してくれ!!
とその瞬間。
「ごぽっ」
奇跡的に少女が水を吐き出してくれた。
「けほっ、けほっ」
続けて少女が身体をひねって胃から水を吐き出す。
「…間に合った…」
へた…っ、と身体中から気力と体力が一気に抜けて行くような感覚に襲われてそのまま俺はへたり込んでしまった。こんな状況、救急救命医をしていれば日常茶飯事なんだが、自分以外に頼れるものが何もないと言う背水の陣状態ではそこにのしかかって来る責任の圧迫感やそこに付随する恐怖がまず違う。
「。」
――恐怖。
そうか。俺は怖かったのか…そりゃ怖いよな。この命が助かるかどうかは俺次第だったんだから。俺が間違ったらこの子は死ぬ。研修医の頃はずっとそんな恐怖にいつも押し潰されそうだったっけ。
いつの間にか命のやり取りさえもがルーティーン化していたのを、こんな事態になって改めて思い知らされる。いつだってそのくらいわかっているつもりだったはずなのに、忘れちゃいけないはずの初心がいつの間にか摩耗していた自分が情けなくなる。
そんな自嘲の嗤いが漏れかけたその耳に、
「――すげえ…」
「。」
ふと誰かの呆然自失とした呟きが聞こえて来た。
一体誰が、と反射的に視線をさまよわせたその瞬間、
「口吸いで死者が蘇った!」
「奇跡だ!」
「死んでたのに…これが白彦様の御業なのか!」
「白彦様すげえ‼」
「白彦様!」
「白彦様!!」
「え…え?」
わらわらと何やらとんでもない驚異と尊敬の感情が人だかりの中に無意味やたらと盛り上がって行くのが肌で分かった――ってちょっと待て、これただの人工呼吸だぞ?! いや、もちろんこの時代にはまだあったはずもない医療行為ではあるんだろうが、でもそんな、ちょっとやり方を教われば誰にでもできる程度の技術を奇跡とか言われても…。
「やっぱり白彦様、マジですげーっす!」
「いや、すごいのは俺じゃなくて…」
それはウド、お前の方だ。ただちょっと見て覚えただけで…完璧な胸骨圧迫だった。お前がいなかったらこの子は確実に助からなかった。この子の命を繋いだのはウド、間違いなくお前だ。
だが、客観的に見れば単純に「死者が生き返った」大事件だ、そんな奇跡を複数の人間が同時に目にすれば、その話は無意味に感動的に盛り上がってしまうのは避けようのない事態らしい。
「奇跡だ…奇跡だ!」
「ありがとうございます、白彦様…!」
「白彦様!」
…なんだか…とんでもない誤解が広まってしまったような…。
こうして白彦は、この村における奇跡の具現者として一躍有名人になってしまった…いや、有名だったのは前々からではあるんだが、こんな田舎村では所詮遠くの都の「何だか知らないが偉い人」に過ぎなかった俺が、この村の英雄的な存在に祭り上げられることになろうとは…いや、だから奇跡の具現者は俺じゃなくてむしろウドの方なんだけどな。




