医者の本分
シャッ、シャッ、と聞き慣れない音が耳に入ってふと見ると、
「!」
そこでは黒金達の母親が包丁を研いでいた。
「申し訳ありません、耳障りでしたでしょうか?」
俺の視線に気付いたんだろう、慌てて片付けようとしたが――砥石だ。さすがは鍛冶師の家、包丁くらいは手に入るってことか。
普段の調理には未だに黒曜石なんかの石器を使っているこの時代、それでも鍛冶が本業の家であればそれで包丁を作ればもっと料理が楽になる、くらいの考えは出て来て当然だ。包丁程度のサイズであれば残り物の鉄でも作れるだろうしな。
だが、それより何より。
「それは――砥石、ですか…?」
「え? その…名前は知りませんが鉄を磨くにはこの石でなければだめなんだそうで…」
あった――砥石が。この時代に手に入るのかと悩んでいたが、手に入るんだ、本当に。考えてみれば頼んだメスはもちろんのことこのナマクラの剣だって既にきっちり磨いてはあった。折り畳み鍛錬をしていなくても磨きさえすれば鉄の切れ味だけは高められるし、何より見た目を整えるためにも磨くことは必要だ。あれだけツルピカな銅鏡だって、砥石を使ったかどうかは知らないが何にせよ磨かなければさすがに鏡にはならない。
あったんだ、この時代にも。
「包丁の研ぎ方――教えて下さい!」
「ほ、ほうちょう…?」
「今やってることのやり方ですっ、俺にも教えて下さい!!」
「は…はあ…」
なぜ料理などしないはずの白彦である俺がそんなことに興味を抱くのか、母親にとっては理解不能なんだろう。まあ確かに専門の料理師のいる王宮内で俺が料理するなんてのはこれまでも、恐らくはこれからも一生涯ないのかもしれないが、メスは自分で砥がざるを得ない。
そしてここには砥石も、その使い方を教えてくれる人もいる。
「その…こうして石を濡らしまして…」
「先に水で摩擦係数を下げるんですね?」
「…まさ、つ…?」
「いえ、続けて下さい」
なんてツイてるんだ。何もない時代なんだと半分以上諦めていたが、実際に調べてみれば実は想像以上に何でもあるんじゃないか。科学的根拠だの理論だのより先に経験と知恵が生活の豊かさを支えている。倭代のやることなすことオーパーツだと勝手に決め付けていたが、アイツがやっているのは実際には既にあるものの使い方にただちょっと手を加えているだけで、別にこの時代にあったって何の不思議もないものばかりだ。
ただ、俺達はゴールを知っているから勝手にオーパーツに見えているだけであって、実際にはちょっと知恵を絞れば誰にだって思い付く程度のものでしかない。まあもちろんその「ちょっと知恵を絞る」ってのが現実には天才的な発明と呼ばれるものから来ているんだから、それを思い付くこと自体がその当時はそれぞれ正真正銘の奇跡だったんだろうが。
「その…こうして少し斜め気味にしてこう…」
「角度を付けて刃先を薄く砥ぎ上げるんですね?」
「…かくど?」
「続けて」
「はあ」
理論なんて所詮は後から来るものだ。やってみたらできた、だからそれを続けている。それが人類の発明史上のほとんどを占めている。先に理論があってその理論通りに発明品が生まれるなんてのはそれこそ人類史上のごくごく短い期間のことでしかない。
人類の逞しさ、小さな発見に対する執着心――そんな何もかもが改めて驚愕と感動を与えてくれて、その時の俺はきっと子供の様なワクワクとした感情に目を煌めかせていたんだろう。
「――白彦様。なんかすげー楽しそうっすね」
「楽しいさ!」
モノを学ぶ喜び、知らないことを知る楽しさ。いつの間にかずいぶんと前にどこかに置き忘れて来たそんな感情が久しぶりによみがえって来て、改めて思い出した。あの、初めて見る漢字に感動を隠せずにいた黒金やウドがどれだけ好奇心に瞳を輝かせていたのかを。
『 だから、学校を作るのよ 』
倭代はそこまでわかっていたんだろうか。子供にとって学ぶことが喜びでもあることをわかっていてあの発想になったんだろうか。
子供に未来を、希望を、喜びを与えられることは結果的に国を豊かにすることに繋がる。豊かな国は国民に余裕を、選択肢を与えることができるようになる。自発的に国を良くしたいと考えられるような国民を育て上げることができるようになる。それは結果的に為政者にとって最も好都合な国造りの基礎になる。
国民が満足できない国なんかあったって意味がない。国なんて結局は多くの人があって欲しいと願うから存在するまやかしでしかない。国民が守りたいと思える国を作るのは、結局国民をいかに満足させることができるかにかかっている。
「その石、刃金に頼めば貰えますか?!」
「え? は…恐らくいくつか持っているとは思いますが…」
次の瞬間、俺の脚は考える前に鍛冶小屋の方へ駆け出していた。
砥石だけじゃない。刃金には手術用の縫い針に剪刃 ( ハサミ )、注射針も――…持針器、鉗子、鑷子 ( ピンセット ) なんかもゆくゆくは欲しい。そうだ、赤金のガラス用の吹き竿も頼まなきゃならなかったんだ。
「刃金!」
鍛冶場に飛び込むとトンカンと刃金が工房の職人達と真っ赤になった鋼鉄を叩いていたが、突然の乱入者に驚いて振り返るのが見えた。
「作って欲しいものが山ほどある!」
「あの…今は犂鏵を作っているのですが…」
「その後でいい、話だけでも聞いてくれ!」
そうだ。人が安心して幸せに暮らせる第一条件は健康にあったはずだ。そう信じたからこそ俺は医療の道に進んだんじゃなかったのか。
こんな時代じゃ無理だ、できない、じゃないだろう。こんな時代だってやろうと思えば何でもできるだけの素材は既にあるんだ、だったらやればいいだけの話じゃないか。
だったらやればいい。何をためらう理由がある。
俺がこの時代に飛ばされて来たのは神様のミスでも白彦の呪いでもなんでもない、この時代の人を救うために21世紀の医療知識や技術を手に入れただけの話だったのかもしれないじゃないか。
白沢伊槻、お前はいついかなる時でも結局医者以外の何者でもないだろう!!




