お前は誰だ?!
「――…Bingo. (当たり)」
「。」
…。
「――え?」
今この女、一体何て言った…?
「…I'd l... (ねえ)」
ありえない事態に完全に思考が停止した。
「え?」
だって今のは…今の言語は。
「――…Who a...(あなた、―― 何者なの?)」
「英語…?!」
お前こそ一体何者だ…?! 何で古代の日本で英語が話せる!? それこそありえないだろう!!
完全にパニックだ。古代にトリップしただけでも充分パニックしてるのに、この「姫巫女様」とやらは英語を操るだなんて――…何で? 一体何が起こった!?
「Could y...(あなた、英語わかる?)」
「…」
ごくりと、意図せずして自分の喉の奥で唾を飲み込む音がまるで他人事のように聞こえた気がした。
どうする…ここで「わかる」と答えるのが正解なのか、恍け通すのが正解なのか…そもそもこっちも英語で返すべきなのか、日本語で返すべきなのか。
判断に迷った。突然意味の分からない言語を話し出した姫巫女様に周囲がざわつき出したのもパニックに拍車をかけたが、とっさに反応するにはあまりにも究極の二択すぎた。
究極の二択? いや、チャンスだ…何だかわからないが今は乗るしかない。少なくとも他の誰に知られることなくこの絶対的権威を持つ女とだけ会話できる唯一無二のチャンスじゃないか。今を逃したら次があるかどうかの保証もないし、あっちがカマをかけて来た以上、この女には何らかの意図もあるはずだ。
それに、何よりも少なくともこの女には何か秘密がある。そして、その秘密を漏らすリスクを取ってでも俺との接触を望んだ理由は一体何だ?
これが例え罠だったとしても、今のこの状況を打開するにはここはとにかく乗るしかなかった。今この状況下ではなすすべが文字通り何もないが、この女と接触できれば少しは状況も変わるかもしれないじゃないか。いや、確かにリスクが高いのは事実だが、このまま一生恍け通す方がむしろよほどリスクは高い。どうせ八方塞がりなら見付けた糸には縋るに限る。
「I'm s...(参ったわね…英語が通じれば助かったんだけ…)」
「Yes! I...(いや、わかる!)」
諦めて引く気配を見せた姫巫女に慌てて活路をこじ開けた。今ここで逃してなるものか、何だかわからないがこの女からは何か活路を見出せる予感がする。どっちにしたって今この女の差し伸べた手を取らなければ状況は何も変わらない。だったらここは賭けるしかないだろ!
「Oh, g...(あら、良かった。話せるなら話せるってさっさと言ってよ、もう)」
「I'm c...(こっちだって色々と思うところがあったんだよ)」
っつか。
何だこの女…英語になった途端、いきなり砕けた口調になりやがった。
さっきまでとはまるで違う権威もへったくれもない言葉遣いに何だか拍子抜けな気分だ。いや、ある意味ほっとしたと言ってもいいかもしれない。こっちもあっちも何だか特別な身分っぽかったから何をどう話すのが正しいのかそれを考えるだけでも自覚していた以上に気を張らざるを得なかったが、他人の耳を気にせず気安い話し方が許されるとわかっていれば状況は全然違う。この女が味方かどうかはわからないが、少なくとも今は共通言語を持つ唯一無二の仲間意識がある。
よく、権力者なんかは奪い取った植民地とかで住民に言語の強制をやりがちだが実際には言語なんてのはそう簡単には母語として根付かない。なぜなら言語ってのはその人間のパーソナリティのひとつだからだ。逆に言えばそれは共通の言語を持つだけでも仲間意識が芽生えやすいことを意味してもいる。
それを肌身に染みて痛感したような気分だった。
と。
「――…全員、ちょっと外して頂戴」
「姫巫女様…?!」
突然姫巫女が日本語を話し出して現実に引き戻された。
「白彦とふたりきりで話がしたいの」
「しかし…」
「姫巫女様のお言葉ですよ」
反論しかけた侍女を、カーテンの向こう側にいる姫巫女とは別の女の声がぴしゃりと遮った。若いな…声だけじゃ確実なことはわからないが、思ったより若そうだ。
若そうだがカーテンの中に入れる時点でおそらく外側に侍ってる侍女たちより身分は高いんだろう。
実際言われて周囲に侍っていた侍女達はしぶしぶの体で立ち上がり、どうすればいいのかわからずオロオロしていたスズには俺の方からうなずいて退出を促した。それでも本当に俺の傍を離れていいのか自信が持てず、スズがちらちら俺の姿を確認しつつためらいがちにそれでも最後に廊下に出て行くと、カーテンの中で姫巫女の両端に控えていた残りのふたりもゆっくりと立ち上がって部屋から出て行く影がカーテン越しにかすかに見えた。
そして、室内が静まり返る。
う。何だか居心地が…。
と、その瞬間だった。
「はー、肩凝ったあああああ」
「。」
…。
「――へ?」
「まったく、巫女様も楽じゃないわぁ」
「…」
オイオイオイオイ。何だこいつ、一体何なんだ?
いきなりの砕けまくった発言に耳を疑った。いや、この女がどうやら何か特別な事情を抱えてそうなのは何となくわかっちゃいたが、これじゃその辺の女子大生と変わらないじゃないか。
「予想はしてたけど当たって良かったわ。四面楚歌状態でホント困ってたのよ」
「しめんそかって…」
いや、それ俺のセリフだから。目が覚めたら突然ワケわかんない事態になってて身体は動かないわ古代だわ…って、ちょっと待て。
「なんであんた、英語なんか話せるんだ?」
考えてみりゃ今は先史時代だ。英語が古ドイツ語から分化したのがいつ頃かは知らないが、いくらなんでもさすがに2000年も前に英語が存在していたはずがない。
だが、
「何でって、そりゃ大学院生だからね。専門外とは言え多少の英語くらいはさすがに話せるわよ」
なんて、のそのそとカーテンの下から出て来た予想通りのコスプレ女に、
「そうじゃない、そもそも英語なんてまだこの時代存在しな――…大学院生?」
…は?
今、もしかして何かもっとあり得ない単語が出て来てなかったか? 院生? …大学院?
「そ。あなたと同じ現代人なの、私」
あ、でもここだと未来人って言うべきかしら? とか何とかぶつくさ言ってる姫巫女に思考が一気に固まった。現代人って――未来人って。
「それがいきなり卑弥呼様よ。一体何がどーなってんのよーって話よねぇ」
「卑弥呼?!」
何か歴史の教科書で読んだことのある名前がいきなり出て来て思わず叫んでしまったが、え? なんだって? ここは邪馬台国なのか? あの有名な?
…。
目の前が真っ暗になって行くのがわかった。何となく予想はしちゃいたが、それにしたって邪馬台国…弥生時代。何でいきなりそんなことになってるんだ。
「よくわかんないんだけど、どうやら卑弥呼と私、入れ替わっちゃったっぽいのよねぇ…」
「ぽいって…わかってるのか、事の重大さが?!」
「重大さも何も、現実がそうなんだからしょーがないじゃない」
「しょうがないって…」
何をあっけらかんと…だが、これはかなり重大な情報だ。風景からここが弥生時代あたりだと言うのは何となく予想だけはできちゃいたが、それにしては建築技術が進みすぎてると思ったら…なるほど。この時代の日本の最先端を行く王国だったのか。弥生時代で三階建て建築物なんていくら何でも相当な規模の王国の、それも中央の一番重要な施設でしかありえないはずだ。そう考えれば邪馬台国くらいしか考えられる国はない。
「そうでもないわよ? この時代でも出雲大社ならもっと高い楼閣があったし、吉備連合もかなりの技術持ってたし」
「…詳しいんだな」
「そりゃまあ専門だからね」
「…専門?」
ああ、そう言や院生とか言ってたっけか。
「考古学。基本は日本だけどフィールドワークだけじゃとにかく文字資料が足りないから、中国や朝鮮半島なんかもひっくるめてね」
「…なるほど」
道理で理解が早いわけだ。この異常事態でもなまじ知識があれば逆に否定できる余地もないか。
「でもまさか、自分の研究対象が自分自身だったなんてそりゃもう笑うしかないわよねぇ」
「…確かに」
何て皮肉な現実…いやいやいやいや、そうじゃないだろ。ケラケラ笑ってる場合か。
「自分自身って、まさかお前、このまま卑弥呼として生きてくつもりじゃないだろうな?」
「つもりも何もそれしかないでしょ、こうなっちゃった以上は」
長い黒髪を弄びながら、さも当たり前のことのように言ってのけたこの女に耳を疑った。
「戻りたくないのか、現代に?!」
このままこんなわけのわからない時代で他人として人生を送るつもりなのか? それでいいのか?!
だが。
「そりゃ戻れるものならね。でもどうやって?」
「。」
その言葉に呼吸が止まった。
どうやって――そうだ。どうやって戻る? こんな非科学的なファンタジー、一体どうやって解決する? 何がどうしてこうなったのかはわからない以上、戻る手段はどこにもない。解決策が存在しない以上、俺には一生白彦として生きて行く以外に道はない。
「とりあえず、自己紹介からかしらね」
言葉を失って宙を見詰めることしかできずにいた俺に差し伸べられたその手を。
「私の名前は大鳥倭代。まあ、この名前に今後意味があるのかどうかもはや不明だけど」
「…。」
見上げた先に見えたその顔には既に迷いはなくて。
「――白沢伊槻。一応医者だ」
今はこの手を取るしかない、それが現実だ。