タイムスリップ?!
眼下に広がるその光景に、俺はただただ言葉を失った。
ありえない。
脳に浮かんだのはただその五文字だけ。
だってありえないだろう、何だこれは、この光景は?
二階建ての建物の窓から階下にのぞくそこに広がっていたのは、古代史の特番なんかで観たことのある高床式倉庫群とまだ水も入れられていない一面の乾涸びた田んぼだった。建物の下を行き交う質素な麻の貫頭衣を纏った男達は博物館でしか見たことのない鬟を結っていたり、大きな土器を抱えて忙し気に走り去って行く高く髪を島田に結い上げた女性だったり…。
何だこれは、何だこれは。
言葉が出て来ない。いや、脳の奥底に浮かんだ漢字二文字を必死に否定しようと意味のない表面上の混乱が、ぐちゃぐちゃと脳の底から何とか合理的な解決案を捻り出そうとひっ掻き回しているだけなのはわかってる。わかってはいてもそれでも否定せずにはいられない、ありえない、ありえない。何だこれは、何だこれは?
「――…白彦様…?」
どう反応していいのかわからず完全に思考停止した俺に不安げなスズの声がかけられて現実に引き戻された。
現実。
そう。これは現実だ。夢としか思えないが、これは否定のしようのない現実。
ここは――…古代の日本だ。
いや、相当手の込んだ古代のテーマパークか何かかもしれない。最近古墳とかブームだしな、なんてことも一瞬くらいなら脳裏を過らなくもなかった。過らなくもなかったが、果たしてテーマパークくらいでこんな、視界に入るすべてから近代的なモノを排除して再現できるものだろうか? そもそも日本にこんな巨大な古代テーマパークがあるだなんて聞いたこともないし、第一あまりにも手が込みすぎている。
それとも実は現在でも古代からずっと近代化に取り残された集落があったとか?
いや、いくらなんでもそれこそありえない。これだけの土地面積があれば衛星写真にだって確実に写るし、開発しようにもどうにもならないような山間部ならともかく、日本みたいな人口過密国でこれだけの見渡す限りの平野部が確保できていれば未だに開発されていないわけがない。
つまり、SFなんかでおなじみのいわゆるタイムスリップって奴を俺は自分で体験してしまったらしい。脳移植がどうのとか幼児化実験がどうのとかそんな次元の話じゃない、むしろ次元を飛び越える事態に俺は直面してるらしいってことだ。
待て待て待て待て。俺が一体何をした? 確か崖から落ちかけた女を助けようとして諸共落ちただけだよな? 頭は確かに打った記憶があるが、あの衝撃で精神だけ過去に吹っ飛んだとでも言うつもりか?
って、つもりも何も現実がそうなってるんだからもはや否定のしようもないわけだが、いやいやいやいや、いくら何でもそれはない。それはあっちゃダメだろ。頭打っただけでいちいち過去に飛べてたら歴史なんて改竄のし放題だ。ないないないない、それはない。そもそもタイムスリップなんて簡単にタイムパラドックスの起こる事態を認めてたら三次元世界そのものが成立しない。
夢だ。俺は夢を見てるんだ。夢だったら何だってアリさ、自分の身体が幼児化してようがアルビノ化してようが、世界設定が古代だろうが夢なんだから何だってアリ。そう、それが合理的で現実的な唯一無二の解答案って奴だ。俺は頭を打ってまだ意識不明の状態なんだ。だからこんなわけのわからない夢を見てるんだ。そうだ、そうに違いない。夢に整合性を求める方が間違ってる、それだけだ。
っつか、そうであってくれ。そうでないと困る。
――って。
ンなワケあるかああああああ!?!?!? 何で?! 何でこんなことになってるんだ!? いくら何でもこれはないだろう!
完全にパニックだ。ありえない、実にファンタジーな現実が今目の前にある。まったく、一体全体どうなってるんだ、これは!?
誰か、誰でもいいから納得のできる矛盾のない説明をしてくれ。いくらなんでもこれは俺の理解の許容範囲外だ。不可能な可能性を片っ端から排除して残ったのが一番あり得ない不可能って、それじゃ何の解決にもなってないだろう。いくら何でもこれはありえなさすぎる。
「…あの…、白彦様…?」
あまりの展開に付いて行けてない俺に肩を貸している状態のスズにも俺の混乱ぶりは伝わったらしい、不安そうに見上げて来るこの子に何を聞いてもわからないだろうことはわかってはいても、じゃあ一体誰に聞けばわかるって言うんだ。非常識にも限度ってもんがある。
ああああああああ、完全に臨界点ぶっ飛ばした…ダメだ。それでなくても血糖値限界なのに、脳に必要な最低限のブドウ糖が確保できていない現状で思考が完全に空回りしてる。
ダメだ、まずは食事。とにかく脳をマトモに機能させる必要がある。胃捻転を起こそうがとにかく今は粥だけでも喰おう! そうだ、すべてはそれからだ!
「スズ…粥だけ持って来てくれないか?」
ずるずると壁に背中をこすり付けながら座り込み、急ぐ必要もないのに慌ただしくパタパタと粥を取りに寝台へと走るスズを眺めながら、俺は現実の深刻さを改めて思い知らされていた。
何だこれは、何だこれは? 一体何が起こった? 何でこんなことになった?
よりにもよってタイムスリップ。一緒に閉じ込められてた「姫巫女様」とか言うコスプレ女に会えばもう少し事態も改善できるかと期待していたが、そんな希望さえ打ち砕かれた。こんな状況じゃ例えこの村からは逃げ出せたとしてもその先には何もない。基本的人権とかこれまでの生活とか、そのすべてが完全に消えているこの状況下、じゃあ俺は一体どうしたらいい? このまま「白彦」に成りすまして一生を終えるしかないのか?
冗談じゃない。一体何のために奨学金貰ってまで医者になったんだ。いくら将来に悩んでいたからって、よりにもよってこんな未来を期待していたわけじゃない。…未来? いや、ここは過去だろ! 自分の未来が過去にあるだなんて、一体誰が想定する!
「どうぞ」
恐る恐るの体で木匙を突っ込んだまま冷めた粥椀を差し出して来るスズに礼を言う余裕もない精神状態で、ダメだ、今はともかくまず喰うべきだ。しっかり喰ってしっかり養生してきっちり体調を整えてからならきっと、何か建設的な対策も――…って何をどうすりゃ「建設的」な将来に繋がるってんだよ!? 古代だぞ、古代! 農耕黎明期の!! こんな2000年も前の過去に俺の未来はない!
参った…セロトニン以前の問題として本格的に絶望的な状況になってしまった。こんな状況でどう事態を解決すればいいんだ。っつか、解決する方法がそもそも存在しないだろ、これ。
頭の中は絶望の二文字だけがグルグルと繰り返し繰り返し…おかげで胃の負担とか余計なことを考えずに啜れたせいか、意外と上澄みくらいならすんなり食道を通過してゆっくりと胃の中で溶けて行くのを感じ取ることができたのだが。
こんこん。
突然、壁をノックする音が聞こえて俺もスズも同時に顔を上げた。
「失礼します。白彦様、姫巫女様がお呼びです」
え…?
ま、待て。まだ何の対応策も考え付いてない。こんな状況であのコスプレ女――じゃなくてホントにそう言う職業の…巫女さん? とやらに会えだなんて言われてもどう対応すべきなのかわからないし、せめて恍け通すのが正解なのかいっそ居直ってすべてぶちまけるのが正解なのか考える時間だけでも――…
「あの…白彦様はまだ歩かれるのも不自由なさる状態で…」
ナイス、スズ! とにかく今は時間を稼いで――…
「姫巫女様のお言葉です」
「…。」
そこで納得するな、スズ!! 誰の言葉だろうがマトモに歩ける状態じゃないとかいくらでも言いようはあるだろ! 姫巫女様とやらの眼前で吐いてもいいのか、とか!
だが、残念なことに「姫巫女様のお言葉」は絶対らしい。いや、そうだよな…この時代の巫女っつったら神様も同然。有史以前の時代なら神様なんてそれこそ絶対だ。たかがいち侍女に過ぎないスズがとやかく言えるはずもない。
「すぐに身支度を整えて参られますよう」
どうする…一体どうすればいい? 事情をすべて話せば協力してくれる相手なのか? それとも白彦じゃないと判明した時点で首を刎ねられるような状況なのか?
スズの手で鬟を結い直され、上着を着せられて身支度を整えられている間も、両サイドを成人の侍女達に支えられて何とか階段を登っている間も脳の中はフル回転で解決案を探し続けたが、結局どれが正しいのかなんて結論が出るはずもなく、その奥に3人の成人女性が座ってる気配のある暖簾のようなカーテンの真正面、部屋の真ん中あたりに座らされた俺は正直完全にお手上げ状態になっていた。
そして。
「――白彦。お勤めご苦労様でした」
「…」
こ、ここは返事をした方がいいのか…それとも黙ってるべきなのか?
姫巫女様とやらに対する対応のイロハもわからない。とにかく頭を垂れて顔を上げないでいると挨拶のようなものや、思っていたより親しみやすい日常会話みたいなものが繰り返され、何となく気が緩んだその時だった。
「でも、その外見だとあなたも白い目で見られて大変でしょう?」
「あ…いや。それほどでは…」
って、知るかよ。この外見で会ったことあるのはスズとあの侍女達とあんたくらいだし。
なんてそのままスルーしかけたその瞬間。
「――…Bingo.」
「。」
…。
「――え?」
今、この女―― 一体何て言った…?
ありえない単語を聞いた気がして思考が固まった。だってこいつ、今一体何て言った…聞き間違いじゃないよな? だって今、ビンゴって――…
「…I'd like to ask you.」
「え?」
そこへ、畳みかけるように続けられたその言語は。
「――…Who are you?」
「英語…?!」
この女は一体何者なんだ…?!