スズ
何が何だかわからないが、どうやら俺はとんでもない異常者の集団の中にいるらしい。
宗教だか何だか知らないが女子供を食料もなく洞窟に9日間も閉じ込めるなんて狂気の沙汰だ。これだから宗教ってのは気味悪がられるんだ。
だが、それは今ここでなんやかんや言ったところでどうにもならない以上措いておくとして、これはさすがに隙を見て逃げ出さなきゃ今度こそ殺されかねない。少なくとも、ここは神の名の下でなら人が死ぬことなんて何とも思わないヤバい集団らしい。そもそもそんな儀式、絶対どっかの誰かがテキトーに考え出しただけに決まってるわけだが、そんなわけのわからない異常なものを「神」の名前を付けただけで無条件に疑うこともしないこと自体が理解不能な心理状態だ。
考え出した奴はどうせ「神から伝え聞いた神聖な決まり事」だとか何とかほざくんだろうが、それを証明するモノなんかどこにもないし、大体神が都合よく自分と同じ言語を語るとは限らない。言語が違う以上翻訳者次第で解釈が変わるのは語源の違う言葉を二か国語以上話す奴なら誰でも知ってるが、例え真摯に翻訳しようとしても文化や常識、感覚の違いなんかでどうしてもニュアンスが変わることは避けられないのが実態だ。例えばお好み焼きがピザだのパンケーキだのと人によって違う概念で訳されてるのがいい例だ。つまり、どんな神聖な考え方も結局はどこかの誰かの勝手な解釈で作り出された産物に過ぎないってことなんだ。
もちろんそれが他人や社会を傷付けることもなくむしろ自分自身にとって有益になる考え方なら別に俺だってどうこう言うつもりはない。信じる信じないはあくまでも当人の自由で責任だし、それで本人が幸せならそれが一番だろう。
ただ、弱い立場の女子供を強制的に犠牲にする文字通りの「生贄」って発想だけは看過できない。生贄なんてもんを捧げたいなら自分の身体を捧げやがれ。よりにもよって抵抗もできない女子供の命をありもしない絶対の権威を使って強制的に奪うなんてのはそれこそ傲慢の極み。ましてや人を救うはずの神が人の死を望むなんて、そんなことあるはずがない。
誰だか知らないそんなことを指揮した権力者に無性に腹が立って来た。そうだ、この身体の持ち主さえ死ななければ俺がこんなわけのわからないことに巻き込まれることだってなかったんだ。俺だって立派な被害者だ。
むかむかと腸の煮えくり返る怒りがこみ上げて来て――…って、マジでこみ上げて来た…っ!
「う゛。」
「…『う゛。』?」
洗面器なんて便利なもんが目の前にあるはずもない。だがこのまま質素なものとは言え寝具にぶちまけるのも気が引けて反射的に目の前の汁椀を手に取ったのだが――考えてみれば9日間も何も喰ってないんだ、吐けるほどのモノなんかもう身体中どう絞り上げたってあるはずもない。胃の中が空の状態で吐けるのはせいぜい胃液程度だが、その胃液さえ乾涸びてるような現状では幸か不幸かさっきむりやり飲み込んだひと口ふた口程度の液体くらいしか出て来るはずもなかった。
一方、何が起こったのかと首を傾げた少女は目の前で吐かれて気が動転してしまったらしい。あわあわ とどうすればいいのかわからず動くに動けず立ち尽くしてしまい、
「だ、大丈夫だから…」
自分でもそれどころじゃないのに彼女を何とか宥めようと笑いかけようとして、しかし俺はどうやら失敗したらしい。
うりゅううううう…
「泣かなくて大丈夫だからっ! 頼むから泣かないでくれ!! っつか泣くのだけは勘弁してくれ!!!」
自分でもどこから絞り出したのか首をかしげるくらいの声量で叫んでいた。
っつか、高! 子供の声ってマジ高! 別に以前だってそんなに声の低い方ではなかったが、それでもこんなに高い声で自分が叫んでるなんて、違和感ありまくりすぎて俺の方が退くわ。
状況把握云々以前の問題として、まずこの身体に慣れることの方に時間がかかりそうだ。絶対的に脳がこの身体条件に付いて行けてない。自分の身体なのに自分の身体じゃない、なんてそりゃまあ脳だって混乱もするわな。今は寝てるからまだマシだが、立って動くようになれば歩く、手を伸ばすなんて単純作業でもリーチの違いに付いて行けず更に脳は混乱を来すようになるんだろう。…想像するだけで疲れ果てて考えたくもない。
って、考えたくもないわけだが――このまま寝たきりで過ごしていても何も事態は変わらないし、情報収集するためには最低限の視覚情報も必要だ。この、何もない閑散としたログハウスの中では収集しようにも情報量が少なすぎるが、かと言って何か聞き出そうにも話せる相手は子供ひとり、限度がある。
「え、と…君、名前は何て言ったっけ?」
ともあれ名前もわからなければ呼ぶに呼べない。ヒモロギの儀とやらの後遺症に託けてすっ恍けたフリをしながら何とか無難な情報を引き出そうと試みることにした。
すると、
「ご挨拶が遅れ申し訳ありません、スズと申します。これから白彦様のお傍まわりのお世話をさせていただきます」
「これから、って――…」
まさか、初対面なのか…?
「至らぬ点など、何なりとお叱り下さいませ」
「…。」
ず、ずいぶんとまたしつけの行き届いた子供だな…女の子ってのは一般にマセてるとは言うが、この年で敬語まできっちり使いこなして立派なもんだ。今時の大学生達に爪の垢でも飲ませたいレベルだ。
って違うだろ!! こんな子供を働かせてるのか、この集団は!? 明らかに就学年齢ど真ん中だろ、学校はどうした! 明確な労働基準法及び児童福祉法違反だ! 告発してやる!!!
――って、ああ、テレビかなんかで観たことあるぞ、これ。信者を洗脳して電気も水道も通ってないような山奥の小さな集落に閉じ込めて自給自足の質素な暮らしで働かせて、子供達を学校にも通わせず…みたいなヤバい新興宗教集団の村。あれか、ここは?
やたらと説得力のある可能性が見えて来た。そうか、あれか。それなら死刑も同然のあの非人道的儀式とやらの説明も付く。
この手のいかにも怪しい新興宗教の教祖ってのは往々にして基本的人権ってのをないがしろにしがちで、疑うことを知らない信者の命をああ言う意味不明な儀式とやらで奪うのをやたらと好む傾向にあるのも実によく聞く話だ。そもそも人の命を守るためにある宗教が実は一番人を殺してるのだって歴史的にも明白な事実。史上一体どれだけの宗教戦争があったことか。
なぜ人はそんな本末転倒な事実に気が付かない? あるのかどうかもわからない来世で幸せになるためだけに生きるなら現世で生きてる意味は何だ? 来世でもその次の来世のためにそこでの人生を犠牲にするつもりなのか? そんな犠牲人生なんか繰り返して何になる、今を幸せになるために生きなきゃ現世に生まれて来たこと自体に何の意味もないだろうに。
腹が立って来た。いや、また胃の中カラッポ状態で吐くのは勘弁だからと怒りは根性で抑え込んだものの――それにしたってどうやら俺が今相当ヤバいところにいるらしいことだけは理解できて来た。下手をすれば逃げ出せば殺されるような究極の隔離環境かもしれない。
どうする…どうする?
とにかく今は情報が足りない。逃げ出すにしても何か、決定打になるような情報が欲しい。何か、何か――…
ふと、その窓枠の外から流れ込んで来るさわやかな春風に気が付いた。そうだ、外を見てみれば少しは何かわかるかもしれない。例え僅かな情報だったとしてもそこから見えて来るものだってきっとある。こんな何もない部屋の中だけ見てても埒は明かないし、室内だけならいくらでも取り繕いようもあるが――窓の外に広がる光景のすべてを作り出すことはできない。
「頼みがあるんだけど」
「はい、何なりと」
俺、いや、『白彦』の役に立てるのが心底嬉しいと言わんばかりの零れるように幸せそうなこの笑顔に見たこともない非人道的な『教祖様』に対する怒りが押さえられなくなって来た。こんな幼気な少女を洗脳しやがって…待ってろよ、スズ。俺が絶対にソイツを告発してこんなふざけたところから救い出してやる。普通に小学校に通って、普通に友達と遊んで勉強して…世界中の子供は全員、本来そう言う人生を歩むべきなんだ。
「外の景色が見たい、肩を貸してくれないか?」
「外、ですか?」
意外なことを言われた、と言わんばかりにきょとんとしたスズはしかしそれ以上深く考えることもなく、なぜか衝立に掛けられた透き通るほど薄いシルクのベールを恭し気に手に取ると、
「では、こちらをどうぞ」
「?」
その時はなぜそんなことを、としか思わなかったが、慎重に頭の上から被せられて思い出した。そうだ、今俺はアルビノの身体だったんだ。室内の光量はせいぜい300ルクスだが窓辺に出るだけでも800ルクスまで跳ね上がる。直射日光の降り注ぐ屋外の光量はこの目には強すぎる。窓ガラス越しでさえないところからそんな明るい外の景色を直接眺めればこのアルビノの目では光過敏性発作を起こしかねない。言わばこのベールは今の俺にとってはサングラスの代わりなのだろう。
そうか、スズは俺が光に弱いのが当たり前だと思ってるから日中の外を見たいなんて言い出すとは思いもしなかったのか。だからあんな意外そうな顔をしたのか、なるほどな。
それよりも。
さて、ここはどこだ? 何か遠目にも目印になるようなランドマークでも見えれば儲けモノなんだが――…そこまでは望まなくても集落の規模とか基礎的な生活環境だけでもわかれば色々と対策の立てようもある。或いは宗教集落どころか、見た目はこんなでも実は最先端科学都市で俺は脳移植の人体実験に使われたなんてオチかもしれない。現在の技術で人間の脳移植が可能だなんて話は聞いたこともないが、成人の身体を幼児化&アルビノ化する実験、なんてのよりはよっぽど現実味のある可能性だろう。
どちらにしても実に非人道的な場所に俺が今いることだけは確かだ。
さあ、見せてみろ、現実! お前がどうあろうと俺は自力で何とかして見せる!
と、そこまでは良かったんだが。
さら…っ
まだ肌寒い春風がシルクのカーテンを舞い上げたその先に広がっていたのは。
「え…?」
な、何だこれは…?!