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Iam estis  作者: Muffin
Dr. 白彦
39/85

執刀開始?!

 その時だった。ワンワンっ、と突然吠え出した犬の鳴き声が聞こえて反射的に全員が外に目をやったのは。

「ああ、黒金(くろがね)だろ」

「…黒金?」

 犬なんかいたっけ、と言う疑問が湧いたが、この話の流れから恐らく赤金の飼っている放し飼いの犬の名前が黒金で、どこかに行っていたその犬が帰って来ただけなんだろう、と言う結論にたどり着いた。


   のだが。


「――にしちゃ今日はまたずいぶんうるせーな…」

 と不信感を抱いたらしい赤金がちょっと様子を見て来ようと立ち上がったその時、外と内とを隔てる気持ちばかりの簾の向こう側で何か、ドサッ、とそれなりの重量のモノが地面に落ちる音が聞こえて赤金が簾を上げると、

「黒金…?!」

 道を登り切ってこの洞穴からやっと見える程の距離に少年が倒れていた。年の頃はまだ10代前半くらいだろうか、服こそ泥で汚れ切っていたものの、赤金と違ってきれいに整えられた鬟と木綿製のそこそこ上質な衣装からそれなりの身分の少年だと言うのはわかったが、それより俺の目を引いたのは彼の右大腿部を真っ赤に染め上げた鮮血の量だった。

「オイっ、どうした黒金!? しっかりしろ!!」

「不用意に動かすな!」

 俺が慌てて駆け寄って抱き起こそうとした赤金を突き飛ばして受傷部を確認すると、応急処置的に腰帯で圧迫止血を試みたようではあるが出血部位と量からして右大腿動脈を損傷している可能性が高く見えた。傷を負ってから一体どれだけの距離を歩いて来たのかは知らないが、これは一刻も早く出血を止めないと確実に失血死する。

「ウド! 水を持って来てくれ!」

「はいっ」

 ともかく傷を確認しないことには話にならない。止血に強く縛り付けた絹製の腰帯を解くと少年はその痛みに呻き声を上げたが、それに構っていられる余裕はない。続けて患部を確認するため血に染まった木綿の開口部を強引に引き裂くと、何かを刺したかのような傷口が確認できた。おそらく野生動物に牙で噛まれたか角で突かれたかしたんだろう。だが、これは損傷部位が悪すぎる。

「白彦様、水っす!」

 竹筒の水筒に入れて持って来た水を渡されて傷口を洗い流すと、出血はまだ続いていた。本来であれば動脈は縫合するべきところだが、生憎この世界にそれを可能にする手術器具はない。それどころか現状でできるのは飲料に足る程度にしか清潔とも言えないただの井戸水で泥を洗い流すのがせいぜいで、治療の大前提である消毒をすることさえできない。

 瞬間的に様々な条件が脳裏を過り、最も可能性の高い結論が弾き出されると俺の視線は倭代の姿を探していた。

「倭代っ、お前確か針持ってたよな?!」

「え…持ってるけど――って…え? まさかでしょ? これ動物の骨よっ?」

「いいから寄こせ!」

 倭代に指示するのと同時に腰の剣を抜き、両手を水筒に残った水で洗い流してから剣に巻かれたシルク製の飾り紐を解く。それを歯で引き裂いて解れた部分から絹糸を引っ張り出そうとしたがなかなか思ったようにはうまくは行かない。何度か失敗を繰り返してなんとか必要に足る長さの絹糸を予備も含めて何本か確保すると、それを汚染しないように腰から解いて広げた腰帯で慎重に包んでからさっき床に放置した剣を抜いて今度はまだ火が点いているはずの焼き窯に走って鉄製の刃を突っ込む。

「白彦お前、一体何を…」

「傷口を縫合する。あいつを慎重にここに運んで来てくれ」

 消毒もできなければ麻酔もない。針だって人の皮膚をようやく通る程度の強度でしかも手術用に使うには恐ろしく太い。手術台もなければ照明だって日の光だけで衛生環境は最悪の屋外だ。おまけに飾り紐から抜いた絹糸の強度だってどこまで持ったものかわかったもんじゃない。

 条件は極めつけの最悪だが、やらなければ患者は確実に死ぬ。だったらやるしかないだろう!

「縫ってる間、当然痛みに暴れるだろうからお前とウドとふたりがかりであいつをきっちり押さえ込んでくれ」

「縫うって――…正気か、お前?! 人間の身体だぞ!?」

「議論している暇はないんだ!」

 一度窯から剣を抜いて確認したが、まったく変わった様子が見られずもう一度突っ込んだ俺の横で、しかし赤金がうるさい。

「冗談じゃねえ! 人の身体を何だと思ってやがる!!」

「ここで縫わなきゃそいつは今ここで確実に死ぬぞ?!」

「白彦様!」

 一方で俺の声が聞こえたんだろう、ウドが少年――どうやら犬じゃなくてこっちの少年の方が黒金だったらしい ――を運んで来て傍に横たえてくれた。余計なことを考えない分、現状赤金よりウドの方がよっぽど使える。今は一秒一刻を争う事態なんだ、四の五の言わずに言われたとおりにしろ、赤金!!

 そんな焦りにジリジリしている俺に、

「白彦様…もしかしてなんかすげー痛いことするんすか?」

「ああ。手元が狂わないように全力でこいつの身体抑えててくれるか、ウド?」

「ならちょっと待って下さい、すぐ戻ります!」

 と言うが早いか、ウドは突然身を翻して洞穴の中に戻って行き、剣から手を離せない俺は追うこともできず見送るしかなかったが、すぐにウドが手に何か細長いモノを持って戻って来たのが見えた。

「これ噛んで下さい!」

 そう言ってウドが黒金に差し出したのは――…

「ウドお前―― 一体どこからそんなもん…?」

「どっかいてー時、良く婆ちゃんがこれ噛んでろってくれたんす」

 それは何の変哲もない柳の枝だった。

「え…そりゃ何か噛んでれば舌は噛まずに済むかもしれないけど、でもそんなの噛んだって…」

「―― いや」

 専門知識のない倭代の目にはただの枝にしか見えないだろうが、ウドの差し出したそれに俺は正直目を剥くしかなかった。なぜなら

「柳ってのは学名 Salix.L ――サリチル酸が発見された植物なんだ」

「…サリチル酸?」

 黒金は既に意識も朦朧としていて自発的に柳の枝を噛むこともできなかったから、倭代に説明しながら俺が無理矢理その口に枝を押し付けて猿轡にし、頭の後ろできつく縛り付ける。よし、これなら舌を噛む心配もない、一石二鳥だ。

 …そう、一石二鳥。なぜならサリチル酸とは。

「――アスピリンさ」

「アスピリン、って――まさかあの鎮痛剤の?!」

「ああ」

 もちろん麻酔ほどの効果は望めないが、それでも多少の鎮痛効果は望めると片やでほっとした一方で、

「てめえっ、人の弟に何てことしやがる!」

「弟なら猶更だ! 助けたければ四の五の言わずに協力しろ!!」

 なんて赤金は赤金で俺の胸倉を掴んで殴ろうと腕を振り上げた。が、とっさに俺の盾になろうとして間にウドが入り込む。

「退けッ、ウド!!」

「止めて下さい、赤金様! 俺バカだから白彦様が何しようとしてるのか全然わかんねーっすけど! でも白彦様は絶対悪いことする方じゃねーっすから!」

「退け!!」

「退かねーっす! 黒金様に何かあったら俺のこと殺してくれていいっすから! だから…だから今はとにかく白彦様を信じて下さい、赤金様!!」

 なんて、どうしてウドがここまで俺のことを信用してくれるのかなんて俺には正直さっぱりだが、そんな真っ直ぐすぎるウドの信頼に赤金の興奮も多少宥められたらしい。

「…ホントに助けられるんだろうな?」

「少なくとも、やらなきゃこいつは間違いなく死ぬ」

 こんな状況下で助けられる保証は正直ない。だが、血さえ止められれば助かる可能性は少なくともある。可能性がゼロなのと僅かでもあるのなら選択肢はひとつだ。

「黒金…相当痛むだろうが頑張って耐えてくれ。これしか方法がないんだ」

 剣を窯から引き抜くと、赤く熱くなっているのが確認できた。よし、これだけの熱があれば充分だろう。

「ってオイ…お前そんなもんで一体何する気だ?」

 だが、兄としては当然の反応だがいきなり熱く熱した剣を取り上げた俺に一抹の不安が過ったんだろう赤金の質問に、

「周辺部の殺菌消毒と同時に動脈を焼き止める」

「え…動脈って塞いじゃって大丈夫なもんなの?」

 反応したのは赤金ではなく倭代の方だった。医学知識はなくても動脈がどれだけ重要な血管かくらいは倭代でも知っているらしい。

 もちろん塞がずに縫合できればそれに越したことはないし、できることなら俺だってそうしているところだが、生憎今手元にある針じゃ太すぎて血管なんてどう逆立ちしたって縫えるはずもない。だったら

「人間の血管ってのは、メインの経路が塞がっても近くの血管がバイパスになって代行してくれるようになるんだよ」

 こんな太い動脈の代わりなんてのが早々簡単に流れてくれるのかどうかはそれこそ神のみぞ知るってところだが、今はその奇跡に賭けるしかない。最悪後日右脚を丸々切り落とすことになったとしても、少なくともこの少年はこの先生きては行ける。だが、もし今ここでやらなければ後はただ失血死を待つだけだ。

「いいか、ふたり共。手元が狂えばそれだけこいつを苦しませることになる。何があっても全力で押さえ込んで、特に右脚だけは一寸たりとも動かさせるな」

「了解っす!」

 ウドが黒金の両足に乗り、その両腕に全身全霊を込めて右足を押さえ付ける一方で上半身担当の赤金が黒金の両肩を押さえ込んだのを確認してから慎重に熱した剣を患部に近付ける。

「――行くぞ」

「はい!」

「…マジでやる気か、白彦お前…」

 こんな無茶苦茶、やったこともない。できる保障もないしとっさに思い付いた理論だけだが、他に考えられる手段はない。

「絶対暴れさせるなよ!」

「はいっす!」

「信じたからな、白彦!」


   その瞬間。


 じゅわ、と言う嫌な音と共に黒金のこの世のものとも思えないような絶叫と生肉の焦げる臭いが立ち上がった。






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