石鹸
未来の世界では ♪行きはよいよい帰りは怖い♪ なんてわらべ歌があるが、今回に限ってはその逆で、帰りは粗末ながらも刳貫船で川下り――…いや、充分恐怖には値したしスズに至っては悲鳴も出ない状態ではあったが…少なくとも体力的には…いや、あの激流の中、船べりにしがみ付いているだけでも結構な体力を奪われたような…。
ともあれ行きよりは格段に速く王宮に帰り着くことができたことだけは確かなんだが、こっちがそんな苦労の果てになんとかミッションをコンプリートして帰って来たってのに、身なりを整え直してさっそく報告に倭代のところに行ってみると。
「…。」
当の本人は黄金&白金を侍らせ、例によってなタンポポコーヒーと胡桃やレーズン、干し柿なんかを茶菓子に何とも優雅に茶なんぞしばいてやがった。
だめだ…ここでブチ切れたら単純に俺の負けだ。
それよりも今は本題だ。
「(話がある)」
「(なあに、改まっちゃって?)」
石鹸を作る鹸化に必要になるのは油と強アルカリだ。油はもう少し待つだけであの菜の花畑が勝手に枯れて集めた種から菜種油を大量に手に入れることができる。
とすれば後は、強アルカリの中では最も簡単に手に入る水酸化カリウムあたりを選ぶのが妥当だろう。
ちなみに水酸化カリウム ( KOH ) は水酸化カルシウム ( Ca(OH)2 ) と炭酸カリウム ( K2CO3 ) を混ぜれば作り出せるわけだから、まずは水酸化カルシウムと炭酸カリウムを手に入れる必要がある。
幸い水酸化カルシウムは貝殻を825℃以上で焼くだけで簡単に手に入る。これがいわゆる消石灰だ。
825℃と言うのはなかなかの高温だが、それでもまだまだ貴重品とは言え1500℃以上の高温でなきゃ融解しない鉄の製造技術が既にある以上、800℃程度の温度が作り出せるレベルの窯はこの時代にも当然あるはずだから問題はない。なら後は肝心の材料だが――もちろん時期的に旬真っ盛りの浅蜊や蜆の貝殻を使ってもいいが、実はこの世には貝類の固い外殻を体内に収める進化をたどった生物がいる。それが今死ぬほど喰わされまくってるイカだ。
しかも好都合なことに今飽きるほど喰ってるコウイカこそ甲烏賊と書くほど特に大きな甲を持っていて、21世紀ではいわゆるインコの餌のボレー粉代わりにカトルボーンと言う名称で市販もされているくらいサイズもでかい。それをこっちは毎日毎日あれだけ喰ってるんだから、廃棄されているカトルボーンも相当な量になっているはずだ。どうせ捨てるだけのものならこれを使わない手はない。
だが、そんな俺の目的を知らない倭代にとって、
「(イカの甲をできるだけたくさん集めてくれ)」
「…………………………は?」
突然大真面目な顔で「ゴミをたくさんくれ」などと言い出した俺は、ただただひたすら理解不能な生物に見えたに違いない。菜の花を見付けて来た、と言う報告をしに来ただけのはずがいきなりの生ゴミ回収宣言。そりゃまあ確かに何が起こったか理解できなくても何の不思議もない。
「(イカの甲から消石灰を作る)」
「(SHŌSEKKAI? って園芸肥料とかの?)」
「(ああ)」
そして。
「(それから、そのコーヒーに使ったタンポポの残りの茎や葉も大量にあるはずだよな? それも欲しい)」
「…………………………はい?」
タンポポみたいな雑草を燃やした灰を水に入れて攪拌した上澄みから炭酸カリウムは抽出できる。まあ、植物の中に含まれている炭酸カリウムなんてせいぜい数パーセント、例え1年分のコーヒーを作ったとしてもその残渣程度じゃ量もたかが知れてるからそこらじゅうの雑草毟りをする必要があるとは思うが、少なくともコーヒー作りで不要になった部分を捨てた場所にならいくらでも草木灰の原料になる植物が捨てられているはず。そこに毎日竈で出る灰なんかも合わせれば石鹸を作る程度の量になら充分なはずだ。
「(草木灰が必要なんだ)」
「(SŌMOKUBAI?)」
何なら種を確保した後枯れたあの菜の花をすべて焼き払って炭酸カリウムの抽出に利用すると言う手もある。どうせ菜の花は一年草だし、枯れた草は焼いて漉き込んだ方が翌年の肥料にもなって一石二鳥。もともとこっちは恒常的な菜種油の生産を考えているんだから、連作障害対策も含めて定期的に作付け地を変えるくらいの方がむしろ菜の花にとってもいいだろうし、こちらもあれだけの量の草があれば採れる炭酸カリウムの量も期待できる違いない。大体にして人間の生活上炭酸カリウムの用途は無限にあるから多すぎて困ることもないし、作れるものなら作れるだけ作るに越したこともない。
ともかく。
「(消石灰と草木灰があれば強アルカリの王道・水酸化カリウムができるんだ)」
「(KASEI KARI…ちょ、ちょっと待ってもらえない?)」
突然話を止められてはたと我に返った。しまった…石鹸作りなんてアイデアの方に気を取られて状況を考える方を完全に怠っていた。科学用語みたいな専門用語は専門外の倭代だけでなく俺も英単語では知らないモノが多いからそこの単語だけは日本語を使っていたが、消石灰だの苛性カリだの、もしかしたらこの時代の人間でもわかるかもしれない話をベラベラと…見れば何が起こったのかと黄金達を始めとした婢達が完全に眉を顰めているし、スズに至ってはハラハラしすぎて泣き出す寸前だ。
「(理系は正直苦手だから一体何の話してるのか私にはさっぱりなんだけど、それで結局あなたは一体何をしようって言うの?)」
何をするつもりなのか。
決まってる。
「(衛生は健康の基本だ。そのために石鹸を作ろうと思ってる)」
「(…石鹸?)」
石鹸は原理さえわかっていれば化学らしい化学も技術らしい技術もほとんど要らない。タンポポとカトルボーンから作った苛性カリに油を混ぜて鹸化させるだけで石鹸ができるんだ。もちろん苛性カリは強アルカリで取り扱いには充分な注意が必要にはなるが、この時代にあるものと技術だけでも石鹸なら充分作れるってことだ。
「(あと、リトマス試験紙代わりに赤紫蘇も使いたいんだが手に入るか?)」
「(リトマス試験紙…なんか恐ろしく懐かしい名前なんですけど)」
確かに、文系の倭代ならリトマス試験紙なんて耳にしたのさえそれこそ小学校以来かもしれない。pHを調べるのに存在する実験具と言う知識はあっても、学校での実際の実験はその先ばかりでわざわざpHを調べるなんてことはしないからな。
と、その瞬間、突然倭代がくすりと笑いを零したせいか、途端にこの場に蜷局していた居心地の悪い空気が一気に窓枠の外に流れ出したような開放感を感じた。
「(…何だよ?)」
「(ううん。そんな化学的なことをこの世界でやろうなんて、よりにもよってあなたが言い出すとは思わなかったから)」
「。」
確かに、この時代にはまだ存在していなかったはずの石鹸をわざわざ作り出そうなんてのはこれまでの俺の立ち位置からは完全に外れた発言だったかもしれない。
だが。
「(一体どう言う心境の変化?)」
「(別に今でも俺は過去改変に賛成してるわけじゃない)」
過去を変えることが正しいとは思わない。
だが、正しいこととやりたいことは必ずしも一致するとは限らないし、ましてや自分を偽ってできるのにやらずに後悔する人生を選ぶことが、俺にはできないと思い知らされただけだ。
「(まだ言ってる…ほんっとガンコなひとねぇ…)」
「(やかましい)」
どんな人生になろうとも俺にとっては一度しかない人生なんだ、俺が動くことで不幸になる人間が後々現れるとすれば、その罪は人選を間違えた神様に背負って貰う。
「(俺は過去を改変する気はないが、目の前の人達の健康に役立つことができるなら何でもしてやると決めた、それだけさ)」
金だの政治だの下らないパワーゲームだのには興味もないが、この世界の人達が俺の持ってる知識と技術で少しでも健康と言う名の幸せの根幹を手に入れることができるのなら、全力でやってやろうじゃないか。
それが俺だからな。




