菜の花畑
「…ウド…」
「?」
てなわけで道案内を頼むことになったは良かったんだが、
『すぐ近くっすよ』
なんてウドの言葉を真に受けて歩き始めたものの、行けども行けどもたどり着く気配なんかありもしない。と言うか、そもそも建物の3階の高さから眺めてその影も形も見えなかった花畑がそんな「すぐ近く」になんてあるはずがないと俺も初めから気付くべきだったんだ。野山を毎日自由自在に駆け回って生活している弥生人の距離感覚を、少しは想定しておくべきだった。
しかし。
「あとどのくらいかかるんだ…?」
「もうすぐそこっす」
「…。」
その返答を、一体これまでに何度聞いたことか。
ウドのこの体格とこの時代の人間の時間感覚、そしてこちらは白彦のモヤシ脚とスズを連れている、なんてハンディキャップをまったく考慮に入れなかった俺にも確かに落ち度はあるが、それにしたってなんてスタミナだ…ウドが独活の大木と茶化されている理由が身に沁みてわかった。
これは少なくとも、スズみたいな体力のない幼女を連れて来るような距離じゃない。道も完全な獣道や崖が少なくなくて子供には危険この上ない箇所だってたくさんあったし、本人が何と言おうととりあえずスズだけでも置いて来るべきだった。
完全に息の上がっているスズを庇えるほどの体力的な余裕など今の俺にはもはやない。かと言ってまさかスズひとりこんな野っ原に置いて行くわけにはいかないし、仮に都合良く民家か何かが見付かったとかで安全が確保できて「ここで待ってろ」と命じたところで、ここまで付いて来たからにはスズ自身が白彦付き婢の名誉にかけて意地でも付いて来ようとするだろう。
せめてウドに「自分よりも体力のない人間を案内している」と言うことが理解できるだけの配慮があればまだ話は違ったのかもしれないが、太陽の位置を始めとした俺の曖昧な方向感覚だけが根拠とは言えウドが遠回りをしている気配がない以上、どちらにしても距離的には最短を取っているのは間違いない。とすれば、歩きやすさを優先すれば時間的に日が暮れかねない距離になる可能性だってあるし、この場合、普段と同じ最短ルートを選んだウドとこちらに気を利かせて遠回りを選んだケースと、どちらが正解なのかを判断するのはウドでなくても極めて難しい問題なのかもしれない。
せめてウドが俺と同じ時間の基準単位を持っていてくれてたなら少しは違ったんだろうが――…改めて度量衡を統一することの意味を思い知らされた。もちろん時間の単位はメートル法にはならないが、もしウドが km と言う距離感覚を持ってさえいたならば少なくとも出発前にある程度必要になる移動時間は予測できたはずなんだ。こんな距離になると初めからわかっていればスズが何と言おうと強制的に置いて来たのに。
既に膝はガクガクだ。明日は100%確実に筋肉痛に違いない。筋肉痛で済めばまだいいが、下手をすれば肉離れなんてことも…。
まだ目的地にたどり着いてさえいない今から今晩、部屋に上がるのにあの階段を昇らなきゃいけないのか、と考えただけでげっそりして来た。いや、その前にまたこの道を帰らなきゃいけないんだった…体力持つのか、俺?
ぐったり。
「その『すぐそこ』ってのは、どのくらいの距離のことなんだ?」
メートル法はもちろんのこと、分や時と言う概念もない。分数の概念に至ってはあるはずもない。そんな相手にあとどの程度の距離を歩かなければならないのかなんて簡単なことでさえ尋ねることの難しさを改めて思い知らされた。数と言う概念だけは共通していても、実際にはそれだけでは目の前に並べられている情報の具体化以上のことにはほとんど意味を成さないようだ。過去や未来、推測なんかの「直接目に見えない情報」をやり取りするのにはどうしても単位と言う共通概念が欠かせないのだろう。
おかげで倭代が、いや、始皇帝が度量衡の統一を国家プロジェクトとした理由が身に染みて理解できて来た。
だが。
「この丘を越えた先っす」
「。」
今度ばかりは思っていたより明快な返答が返って来て顔を上げた。この丘を登り切れば花畑が見える――それは到着を意味してはいないが、それでもゴールが見えるのとあとどれだけかかるのかが未だにわからずにいるのとでは例え同じ距離であろうとも感覚的、疲労度的にはまったく状況が違う。
「スズ、あと少しだ。頑張れるか?」
「は…はい…っ」
山野を歩き回るなんて最初からまったく想定されていないスズの衣装の裾は既に泥だらけだ。それでなくても木を彫っただけの粗末な靴を履いてて充分歩きにくいってのに、こんな凸凹だらけの山道で手を付いたり膝を付いたりなんかを繰り返したせいで裾どころか全身ボロボロ。だが、それでもスズは使命感だけで必死になって付いて来る。
せめて彼女を背負ってやれるだけの体力がこの身体にあれば、なんてそれはただのないものねだりでしかないが、この身体はまだ若い。鍛えさえすればそれなりにくらいはなるはずだ、なんて次の目標を身に噛み締める羽目にもなる。
と、頑張って丘を登り切ったその先に見えたのは。
ぶわ…っ
遮る丘が途切れたことで、春の突風が身体全身を押し倒そうとでもするかのように吹き抜けて吹っ飛んで行きかけた透目絹のベールを慌てて掴み、その下で瞼を細めたその先に、その目の前に広がっていたのは。
「…。」
21世紀に見たことのあるものと非常に良く似た、このアルビノの目にはあまりにも眩しすぎる言葉を失うほどの黄金色に輝く金色の花畑。
間違いない。菜の花だ。それも、こんなにたくさんの。
「なんてきれい…」
隣でスズが息を呑んで感動しているが、無理もない。確かにこれは絶景だ。菜の花畑なんて見慣れてる俺でさえ言葉を失うくらいなんだから、ましてやこんなものを生まれて初めて見たんだろうスズにとっては正に圧巻の光景に違いない。
その上スズからすればこれまでに味わったこともないほどの苦労をした上でやっとここまでたどり着いたんだ。
「ここは天国なのですか、白彦様…」
「――天国か」
思わず笑ってしまったが、そう言いたくなるのも正直わからないでもない。
「天国になるかもしれない場所、かな」
料理だけじゃない。菜種油が手に入れば燃料にもなるし、潤滑油としても利用できる。それどころか薬剤を作る際の基材にもなるし、衛生上不可欠な石鹸だってアブラさえあれば作ることができる。
ドロドロに汚れ切ったウドやスズを見て出て来た石鹸と言うアイデアに自分でも驚いた。もちろんこの時代だって洗剤に該当するものはある。大豆の茹で汁や米の研ぎ汁、竈の灰なんかでももちろん汚れは落ちるが、界面活性力や保存性と言う点では石鹸には敵わない。
倭代はこの国の人達を豊かにすることを考えているのかもしれないが、俺は健康こそが人生における何よりも大切なものだと信じている。
そして健康には栄養面も不可欠な条件なのは事実だが、それにも増して衛生面での水準向上無くしては成立しないものなんだ。




