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Iam estis  作者: Muffin
神籬の儀
2/85

時の亀裂

 俺は一体何をやっているんだろう?


 望んで医者になって、望んで救急救命医の道を進んだ。規模の大きい設備も技術も充分な第一志望だった大学病院に就職できて、人並み以上の給料も貰って出世より純粋に救命活動に情熱を燃やす上司にも仕事熱心で気さくな同僚達にも何ら不満はない。

 希望通りの仕事に希望通り専念できてるってのに、ひと時たりとも気の抜けないこの仕事の実に貴重な合間ができた瞬間、一息吐こうとしてふと心に思い浮かぶことがある。


   俺は一体何をやっているんだろう?


 充実したやりがいのある仕事。やりたくて手に入れた仕事に何ら不満のない待遇。こんな若輩者の身で大抵の人からは「先生」と呼ばれて心から尊敬され、毎日毎日見ず知らずの相手から

「あなたは私の命の恩人だ」

 と心の底からの感謝を受けて生きる、普通に考えれば誰の目にも羨ましがられるに違いない恵まれまくった勝ち組人生真っただ中にいるってのに、何かが満たされないこの感情…俺は一体何をやっているんだろう?

 そんな疑問にいつの頃からか苛まれるようになった。理由もわからない、ただただ湧き上がって来る――虚しさ? 何の不満もない人生になぜ不満を抱かなければならないのかわからない感情を持て余して俺は気付くと休みのたびに他人のいない場所を求めてさまようようになっていた。

 ただ誰もいない静かな場所に座って意味もなくひとりで時間を過ごす。普段慌ただしく行き交う人に囲まれてただひたすら目の前の患者の対処をこなすことに追われるばかりの職場とは正反対の場所で、何もせず何も考えずただぼうっと、ゆっくりと過ぎていく時間に無為に身を委ねて、夕焼けを見て帰るような生活がここしばらく続いていた。


 そんなある日だった、あの女と出会ったのは。


「。」

 その日も人気のない丘に登ってのんびり過ごしていた。

 何をするでもなくいつもと同じ行きつけのカフェでテイクアウトして来たコーヒーとハムサンドを交互に口にしながら足元の、クリスピーさが自慢のぼろぼろと落ちた自分の身体より大きなバゲットくずを必死に運んで行く蟻なんかを眺めながら過ごしていたのだが、何か物音が聞こえた気がして振り返るとそこには20代半ばくらいの、最低限にしか身なりも気にしない動きやすさ最優先の服装の女が熱心に土を掘り返して何かを探しているのが見えた。

 何を探しているのかは知らないがこんなところに人がいるなんて珍しいな、とその時はそのくらいにしか思わなかったし、バゲットの残りの固い耳の部分を口に放り込んだその時くらいまではその女とはそれっきり二度と会うこともないだろう、わざわざ挨拶する必要もない距離で助かったな、それくらいのことしか考えていなかった。


  のに。


 ずる…っ


「!」

 その女が足を滑らせたのが視界の隅に飛び込んだ。

 その瞬間、職業柄か反射的に身体が動いていた。反動でポケットからスマフォがずり落ちて石に当たった乾いた音が聞こえたが、今はそれどころじゃない。瞬間的な状況判断からの情報だけだがどうやらもともと足元が空洞にでもなっていたらしく、運悪く彼女のいたあたりの足場が崩落したらしいのはわかった。すぐに上がって来ないところからして崩落部は足が届かない程度には深いことも明らかだ。

 もちろん彼女も本能的に手近にあった木の根っこにしがみ付いて堪えていたが、女の腕力なんてたかが知れてる。座っていた位置からは良くは見えなかったが自力で彼女が自分の身体を引き上げられるとは到底思えず、足はためらうことなくその場に駆け付けていた。

「平気か?! 今助ける!!」

「あなたは…?」

「自己紹介は後だ!」

 腕を伸ばしてはみたもののもともとが崩れやすくなってる場所だ、足場が悪い。なんとか手には届いたものの、この、こちらも掴まる場所をマトモに確保できないこの状況下でどこまでこの右腕一本にかかっている成人女性一人分の重量を引き上げられるか…。

「どこか足をかけられる場所はあるか?!」

「ちょっとムリかも…完全に空洞になってるし、ここ」

「マジかよ…」

 なんでこんなとこにこんなでかい穴があるんだよ、暗くてよくは見えないがそこまで深い穴ではなさそうだしいっそ落ちた方が安全な気もするが――落ちてまた上がれるのか、となると話は別だ。こんな誰も来そうにない場所でふたり揃って穴から出られなくなったりした日には目も当てられない。スマフォの電波が届けば助けも呼べるがここまで奥の見通せないレベルの穴の中じゃそんな保証もない。ましてや万が一彼女のスマフォがバッテリー切れだったりなんかした日にはそれこそ完全アウトだ。

 引き上げるしかない。

 俺はあくまでも医者で、机の上の勉強ならともかく体育で女子に騒がれた経験なんて一度もない。つまりは強いてどちらかに分類するなら生粋のインドアもやし系の人間だ。どう欲目に見たって腕力になんて自信もあるわけもない程度にはヒョロいこの腕一本で、果たして人ひとり分の重量を持ち上げられるのかどうかはかなり疑問だが――やるしかない以上はやるしかない。

 と、気負ったその瞬間、掴んでいた命綱の根っこから手が滑った。

「しま…っ」


   まずい。


 そう思ったその時には既に女共々薄暗い穴の中に真っ逆さま。どうか大して深い穴でだけはありませんように、なんて祈る間もなく転がり落ちた先で頭に強烈な衝撃を感じて、ああ、マジ大したことないただの穴じゃないか、なんて安心する半面、でも今俺完全に後頭部岩かなんかに派手に打ち付けたよな? これってマジでヤバくないか? くも膜下出血起こしてここで死ぬのか、俺?

 なんてのが瞬時に頭の中を過ったと思うが早いか意識は暗い暗黒の中に引きずり込まれて行った。

 救急救命医がこんなラストとか、さすがに皮肉すぎだろ、これ。


 …マジかよ…。



          ☆



 ぴちょーん…


「冷てっ!?」

 ふと首筋に冷たい雫の落ちた感触があって真っ暗な暗闇の中から俺は無理やり意識を引きずり戻された。

 反射的に起き上がろうとしたその瞬間、


   ずきんっ!


「――!!」

 ってぇぇぇぇぇぇぇ…なんだ、この後頭部の痛み…って、ああ。そう言や頭打ったんだっけか、俺。

 後頭部に走った鋭い痛みに意識を失う直前の記憶が戻って来たってことは、どうやら俺は死なずに済んだらしい。周囲は真っ暗でほとんど何も見えないが、反射的に手を伸ばした後頭部から血の滴るような液体の感触はないし、感触があるってことは生きてるってことだ。頭をしたたかに打ったのは事実だが打ち所が良かったのか脳震盪を起こした程度で済んだのだろう。

 と、そこまで分かったところでほっとしたはいいが――…一体ここはどこだ?

 足を滑らせた女を助けようとして穴に落ちたまでは覚えてる。覚えてるがそこから先が思い出せない。穴に落ちたんだから上を向けば空なり何なりが見えるはずだが、おかしなことに頭上には光ひとつ見えやしない。最初は気付くまで時間がかかって既に真夜中にでもなっちまったのかとも思ったが、ここまで何も見えるはずの木や空が頭の上に見えないのはおかしい。いや、むしろ光は横からわずかに漏れて来てる。

 一体何が起こったのかわからないが、これは何かが絶対的におかしい。

 とその時だった。

「――…誰かいるの…?」


   びくうっ?!


 突然、思わぬ声が聞こえて来て心筋梗塞でも起こすかと思った。聞き慣れない女の声――ああ、そう言えば女を助けようとして共々穴に落ちたんだった。とすればあの女が傍にいるのは当然なわけで――…

 と、声を振り返って固まった。見えたのはこの真っ暗な中なんでほんのわずかなシルエットとうすぼんやりとした姿だったが、その中でも歌舞伎役者よろしく真っ白に塗りたくられ強烈な厚化粧を施した顔が暗闇にもわずかな光を纏ってこっちを見ていたのだ。


   ななななな何だ、この女…コスプレか?!


 世の中にはこう言う派手な格好を好んでやるいわゆる「コスプレイヤー」とか呼ばれる人種がいることくらいは知識では知ってはいたが、実際に見たのは初めてだったから正直度肝を抜かれた。っつか、ここまでやるのか、ああ言う連中ってのは? いや、マジでこれはすごすぎる…。

 正直ただただ退いた。巫女かなんかのコスプレなんだろうが、それにしたってあの隈取…いや、隈取とは違うんだろうが、なんと言うか…ただただひたすら強烈なインパクトっつか…真っ白なおしろいの上に鋭角に引かれた真っ赤なルージュとこめかみまで続く長いアイライン、額に描かれたよくわからない紋章なんかがこの暗闇にもとにかく目を引く。そして何より本物にしか見えないレベルによく出来た金色の装飾具に耳と首元に光る翡翠の勾玉。服もやたら本格的だし、ありえないくらい長くまっすぐな黒髪も確実によくできたカツラだろう。

 正直、しっかし金かかってるな…一体その衣装一式揃えるのにどんだけ散財したんだよ、こいつ? なんてマジで退くしかないくらいの衝撃しかなかった。

 いや、まあ世の中には色んな金の使い方があるわけで…むしろ俺みたいに稼ぐだけ稼いで碌に使ってる暇もない人生送ってる方が珍しいんだろうが、それにしたってな…。

 なんても思ったが、俺と違ってあっちはまったく俺の姿が見えていないらしかった。いや、俺だって見えてるとは言えないレベルのうすぼんやりにしか見えてないんだが。

 岩壁を頼りに一歩ずつ恐々近寄って来るソイツにどう対応したものか、少なくとも相手があの時一緒に落ちた女ではないことだけはわかったが――、一体何が起こってこんな事態になってるのかさっぱりわからない。ひとまずここは誰でもいいから話をして状況を整理する必要がある。

 と言うわけでこっちから協力的に近付いて手を貸そうとしたその時だった。


   からん…っ


 何かが落ちた音がした。何か? 違う、石だ。

 その瞬間、崖から落ちた瞬間の記憶が脳裏を掠めて背筋に冷たいものが走った。

 まさかまた崩落…?

「そのまま壁にへばり付いて動くな!」

「え…?」

 ここが一体どんな状況になっているのかわからない。壁が安全な保障なんかどこにもないが、下手に広い空間で何も見えないままうろうろしてるよりは壁にくっついてた方が崩落に巻き込まれる危険性は低い。

 とっさに俺も手近な壁に近寄ったが、小石の転がり落ちる音と共に ぎしっ、ぎしっ と何か人為的にとてつもなく重いものでも動かそうとしてるかのような音が続き、何か様子がおかしいと思ったその時、突然目の前にまばゆいばかりの光が飛び込んで来てその強烈な閃光に視界を奪われた。


  今度は光かよ…!!!


 あまりの光量に完全に目が眩んで何も見えない。暗闇に慣れ切ったこの目に焼き付いたその閃光は脳まで衝撃を与えるレベルで思考もマトモに纏まらず、ただ瞼を瞑って右腕を上げて光と共にすべての視覚情報を遮った俺の耳に聞こえて来たのは、

「――お迎えに上がりました、姉上」


  …あねうえ…?


 誰かが厳かに例のコスプレ女に近付いて行った気配だけはわかったものの、想像以上の視覚ダメージに自分でも驚くほど身体が付いて行けず、俺はそのまま再び、しかし今度は真っ白な光の中に意識を引きずり込まれて感覚のすべてを手放さざるを得なくなった。





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