散華―会津中将の選択―
幕末版、予防接種を受けましょうというお話!?
兵衛の進言を、無理をしてでも受け入れていれば、彼女は死なずに済んだのだろうか。
人払いをし、独り位牌に手を合わせる。
位牌に刻まれた『宝鏡院』の文字を見つめるうち、一筋の涙が頬を伝った。
いかに土屋が反対しようとも、自分がもう少し強く望めば、皆、従わざるを得なかったかもしれない。たとえ家督を継いで一年が経つか経たぬかであったとしても、自身の務めを思えば、兵衛の後押しをすべきであったのだ。先代の血を引く後継を為すことも、重要な務めの一つであるのだから。
そうすれば彼女は、生来の美貌を失うこともなく、今も隣で、あの愛らしく朗らかな笑顔を、自分に向けてくれていたであろう。
病は無事に癒えたものの、あばたが残った。それを気に病み、日に日に弱っていく彼女に、為す術が無かった。
あばたなど、気にならなかった。彼女が彼女である限り、愛おしく想う気持ちが変わることなどあり得なかった。しかし、どんな言葉も贈り物も、彼女の心を晴らすことは出来なかった。
予定通り挙げた祝言も、重荷であったかもしれぬ。婚家から戻っていた美しく聡明な義姉の存在に、心穏やかではいられなかったのかもしれぬ。
そういった憂いを晴らすのもまた、夫である自分の務めであったというのに。
疱瘡にさえ罹らなければという思いは、日が経つ毎に大きくなる。病にならなければ、彼女は、妻は、敏姫は、十九歳という若さでこの世を去ることは無かっただろう。
「姫様に、是非種痘を」
かつての自身の守り役であり、常府家老であった山川兵衛が、先代の遺児であり、自身の許嫁であった敏姫に、種痘を施す進言をしたのは、九年前のことであった。
養父である先代の容敬が四十九で亡くなり、尾張徳川家の連枝である美濃の高須松平家から養子に入っていた容保が、会津松平家の家督を継いだのは、十八を数える年であった。それから一年が経とうとする頃、蘭方医から話を聞いた兵衛が、当時十一歳であった敏姫への種痘を進言した。種痘は、疱瘡の予防に有効な免疫法であり、種痘を受ければ、疱瘡に罹患した者に触れても病に罹らぬという。
「何を仰いますやら。姫様のお身体のことは、この土屋一庵が先代様より直々に仰せつかっております故、門外のご進言はお控え下されませ」
しかし、本道医の土屋一庵が反対し、重臣達もそれに倣った。土屋も他の重臣達も、自身の職務に忠実過ぎた。
そこで兵衛は、産まれて間もない孫娘に種痘を施した上、疱瘡に罹った者の家へ何度も連れて行き、種痘に罹らぬことを確かめた。
しかし、その話を聞いてもなお、土屋も他の重臣達も考えを変えず、敏姫は種痘を受けること無く、七年前に疱瘡に罹ってしまった。
一方、兵衛の孫娘は、疱瘡に見舞われることなく、今も健やかに育っていると聞く。
家老と言っても、山川家は代々家老の家ではなく、元は三百石取りの家であった。目付に抜擢された兵衛は、幾つかの奉行職を歴任した後、千石取りの家老職に就いた。
先代容敬は、兵衛に厚い信頼を寄せていたから、その頃もし、容敬が存命であったなら、もしくは兵衛がもっと早くに、容敬が健在であった頃に、種痘を知っていたなら、敏姫への種痘が叶ったかもしれない。
「少将、いえ中将殿……」
「義姉上」
自身を呼ぶ艶やかな声に振り返れば、義姉の熈姫であった。美しく、書も和歌も堪能な熈姫は、敏姫が産まれるより前に、上総の飯野保科家から養子として迎え入れられていた。
養父は元々、自分とこの義姉を娶せるつもりであったのであろう。しかし、当時銈之允と幼名で呼ばれていた自分が、この会津松平家の養子に決まった頃、先代の側室の懐妊がわかった。月満ちて産まれたのは女児で、敏姫と名付けられたその嬰児が許嫁となった。
銈之允が元服して容保と名を変え、従四位下侍従兼若狭守に叙任された頃には、三つ歳上のこの義姉への、仄かな思慕を自覚していたように思う。その思いが明確な形になるより前に、熈姫は豊前の中津奥平家との婚儀が決まり、嫁いだ。
それからしばらく、未だ幼かった敏姫に、親愛以上の情が湧くことはなかったが、美しく淑やかに成長するに従い、一人の女性として、愛しく思う気持ちが芽生えた。
しかし煕姫は、嫁いで五年の後、子ができぬという理由で離縁となり、実家の保科家ではなく、養家のここ会津松平家に戻った。熈姫は当時二十三を数える頃であったから、子ができぬというには少し早い。
「私が、保科の家へ戻るべきであったのかもしれませぬ」
隣に座り、位牌に手を合わせた熈姫が呟いた。その言葉に容保は、目を見開いて義姉を見つめる。
「ですが義姉上は、この家のために離縁なされたのでしょう」
「中将殿には、お見通しであられましたか」
「義姉上が離縁なされた時、未だ二十三であられました。それに子ができぬなら、大膳殿が側室を持てばよいこと。離縁の理由にはなりますまい」
大膳とは、従五位下大膳大夫である煕姫の元夫、奥平昌服である。
「いささか、無理は承知でした。ですが、養父上に次いで養母上様もご逝去された折り、敏姫殿はわずか十であられました。ご生母様はお国ですし、他に手立ても無いと存じ、離縁を願い出たのです」
「確かに、他に奥向きを任せられる者もなく、婚儀が滞り無く執り行われたのも、義姉上のお骨折りがあればこそと、感謝申し上げております。病を得るまでは、敏姫殿も義姉上を慕い、何かと頼りにされておりましたな」
「敏姫殿は、繊細で聡く、情の細やかな方でしたから、病の後に、もう少し気をつけていればと、悔やまれてなりません」
「そのようなことは……」
「いいえ。儚くなられる前の日でした。敏姫殿は、私に仰られたのです」
その日の熈姫は、いつものように義妹である敏姫を見舞った。敏姫は、疱瘡が癒えた後、顔に残ったあばた故に、生来の明るさを失って気鬱がちになり、ついには寝込むようになっていた。自ら起き上がることも難しく、食事も薬さえも喉を通らず、ただ弱っていくばかりであった。
しかし熈姫が顔を見せると、敏姫はお付きの者の手を借りて、ようやく身体を起こした。そうしてか細くなった声を張り上げるように言ったのだ。
「義姉上、産まれてきてごめんなさい」
敏姫の言葉に、煕姫は慌てて首を振った。
「そのようなこと、仰るものではございませぬ。忠恭公が聞かれたら、悲しまれます。敏姫殿のご誕生を殊の外喜んでおいででした」
忠恭公とは、先代容敬の神号である。
会津松平家は、初代の保科正之が深く神道に傾倒し、吉田神道の奥義を奥義を伝授されたことから、大名の中で唯一、神道の家となった。
「だからこそです。私が産まれなければ、中将様と婚儀を挙げたのは、義姉上だったのでしょう」
「そうとも限りませぬ。それでも私は、奥平家へ嫁いだかもしれませぬ。何より中将殿は、敏姫殿を慈しんでおられます。敏姫殿でなければいけませぬ」
幼い頃の淡い気持ちはともかく、今、容保の心にいるのは敏姫一人である。それは、煕姫の目から見ても明らかであった。
しかし敏姫は、悲しげに目を伏せて首を振り、床に横たわった。そのまま目を閉じて眠り、次の日の朝、目を覚ますことなく逝ってしまった。
「敏姫殿に、あのようなことを言わせてしまい、悔やまれてなりません」
熈姫の頬を、涙が一筋、伝う。
「申し訳ありませぬ、お見苦しいところを」
「いえ。私も、敏姫殿のことでは、後悔ばかりです。特に、兵衛が進言した種痘のことは……ちょうど、それを考えおりました」
「私がそれを知ったのは、敏姫殿が疱瘡に罹られた時でした。もっと早く知っていれば、手立てがあったかもしれません」
確かに、熈姫が奥向きを取り仕切っていれば、表に知られず、密かに敏姫に種痘を施すことができたかもしれない。
だが、全ては後の祭りである。
容保も熈姫も、いつまでも過ぎたことをただ悔やみ、嘆いていられる立場ではない。これから先を考えなければいけない。
二度と同じ不幸が起こらぬよう、家中に種痘を広めることは、今後の重要な務めの一つになるであろう。
「殿、失礼致します。越前様がお見えです」
自分を呼ぶ家臣の声が聞こえ、越前松平家の当主、春嶽の来訪が告げられた。
春嶽の正室も疱瘡の病歴があり、あばたのために一度は春嶽との婚儀を辞退しようとした。しかし春嶽は、当初の約束通り妻に迎え、夫婦仲が良いと評判である。
また春嶽は、領内の医師笠原良策の進言を受け、種痘に必要な痘苗を清国から取り寄せることを幕府に請願している。
春嶽だけではない。佐賀の鍋島家や富山の前田家など、種痘の普及に尽力する家は多く、蝦夷地で疱瘡が流行し、先住民であるアイヌの半数近くが命を失った折には、箱館奉行の要請で、幕府が医師を派遣し、種痘を受けさせている。
そういった話が耳に入る度、容保には、春嶽が眩しく感じられる。
しかし、この日の春嶽の用件は、疱瘡や種痘に関わるものではない。
「どうあっても、お受け頂けませぬか」
春嶽の真摯な言葉に、容保はただ、頭を下げて詫びる。
「申し訳ございませぬ。我が身には過ぎる大役ゆえ、どうかご容赦頂きたく存じます」
自分には、眼前の人物のような英邁さも先見性も無い。
才が無ければ、せめて、ただただ愚直に、自身の務めを果たすべきである。誉れを得ようと、身に余る大役を受けるべきではない。
しかし何度断っても、こうして春嶽や他の幕臣達が、こうして説得に訪れ、家老を呼び出し、文を寄こす。
「では会津殿は、ご自身さえ安泰でよければ構わぬと仰せですかな」
侮辱とも取れる春嶽の言葉に、容保は目を見開いて反論する。
「な、なんと……そのようなことはございませぬ。ただ、私などには過ぎたお役目ゆえ、受けぬことこそ、宗家の御為と……」
珍しく取り乱した容保を、春嶽が宥める。
「いや、何もこの春嶽がそう思っているわけではござらぬ。ただ、そのように言う声も聞こえてきましてな。それに、先の文にも書きましたが、土津公であれば、何をおいてもお受けなされたとは、思われませぬか」
土津公とは、会津松平家の初代であり、三代将軍家光の異母弟であった保科正之の神号である。その名を出されてしまうと、容保には返す言葉が無い。
しばらく後、容保はゆっくりと口を開いた。
「そこまで仰せられては、受ける他はございません」
この大役は、重大かつ危険なもので、会津松平家の存亡に関わりかねない、そのため、家中からの反対も強い。その家中を説得するにはまず、自らが覚悟を決めなければいけない。覚悟無き主に従う者はいない。
それが当時の、兵衛が敏姫への種痘を進言した頃の自分には、欠けていたように思う。
この大任こそは、君臣が心を一つにしなければ、到底成し得ないものである。何としても家中を説得しなければと、心を決める。
この日容保は、かねてより幕府から要請のあった、京都守護職の拝命を決意した。
※照姫が登場しますが、あえて本字の「煕姫」としました。
※山川兵衛の孫娘(操)の年齢ですが、『男爵山川先生遺稿』では、種痘を受けたのは十二歳という記述がありますが、他の情報と合わせると年齢が合わなさそうなので、元は「一二歳」で、「1、2歳」では?と解釈しました。