序
初めて詩を書いたのは一年半前。憧れを見ることに疲れたことを、授業中に詩に起こしたのが始まりだった。
高校二年の秋、僕はとある理由で詩を書くことになった。
ネットで知り合った友人が、僕の書く詩を読んでみたいと、そう言ってきたのだ。
それまで僕は詩など一切書いたことはなく、好んで読むこともしていなかった。
詩に関する知識など、学校の国語の授業でやるような、有名な作品を音読する程度だ。
覚えているのは工藤直子の「おれはかまきり」と萩原朔太郎の「竹」、吉野弘の「I was born」くらいだろうか。パッと思いつくのがそれくらいで、詩というものに興味はあるが、それ以上の行動にはならなかった。
むしろ、俳句や短歌などの方が自分にはなじみがあって、詩と言われても「自分にとって小説より難しい文学ジャンル」という位置づけだった。
友人からおすすめだと言われたボードレールの詩集「悪の華」を買って読んでみる。
正直に言って半分近く理解できなかった。
でも、どこかで肌に滲んでくるような、理解しきれなくても、どこかで感じるような、そんな感覚がしたのを覚えている。
僕はこの時から、詩は理解するものではないのではと感じていた。
詩を書くために、詩について調べていた。なんとなく、俳句などと同じで一定のルールがあるものだと、聞きかじってはいたし、それを覚えていないと書けないのだと思っていた。
僕は詩についての勉強を始めたのだ。これが地獄だった。
知れば知るほど、僕は詩がわからなくなった。
詩とは何なのか、何をもって詩とするのか、どうすればそのジャンルに当てはまるのか、ただの詩のような文章と、詩の違いはなんなのか。わからなくなっていた。二年前の夏の出来事である。
それからしばらく経って、同じ友人と詩の話題になるのだ。
別に強要されているわけじゃない。どちらかと言えば自分が書いてみたいと言ったのだ。
僕は書いた。そのとき、自分の心赴くままをすべて。
憧れはいつも自分の頭上にある。それをこの目で見るには顔を上げなければならず、見れば見るほど首に負担がかかるものだ。
憧れを見ることは、自分にとって救いでありながら、苦痛でもあった。
書き終えて、読み直して、結局これが詩なのかよくわからなかった。
思えば、その友人からちゃんと詩に関する感想をもらっていない。
思えばこの詩だけは、僕の書いた作品の中で、詩だけが誰からの感想ももらっていない。
それでもいい。だって、これは誰かに向けたものじゃない。良くも悪くも自分自身だ。
自分のことをどう思うかなんて、自分から聞くことなどあまりないだろう。それと同じだ。
この詩集には、その瞬間を見た僕のすべてが詰まっている。
本来形にできないはずのものを、僕は言葉というものを土台にして、作品として紡ぎあげた。
友人には感謝している。僕が僕の人生を作品にしようと思えたのは、彼女のおかげなのだから。彼女がどんな形であれ、その後をどうしたかを僕が知らないとて、こうして僕は一つの表現を手にすることができた。
そして、新たな世界を見ることができるようになったのだから。
でも、新しい世界もちゃんと頭上にあるのだからかなわない。
今日も僕のことを、美しい月明かりが照らしている。
こうして今日も僕は、月に恋をしたまま首を痛めている。
2022/5/22 東京某所より、我が作品たちとそれの材料となったすべてのものに愛をこめて
酒月沢杏