マダム・ソフロニーの憂鬱
☆銘尾友朗様主催「冬のドラマティック」企画参加作品
O.Henry『賢者の贈り物(原題:The Gift of the Magi)』から着想を得た短編小説です。
マダム・ソフロニーは、街中の雑居ビルで小売店を営む女主人です。『毛髪に関する製品各種。マダム・ソフロニーの店』は、表向きは鬘やシャンプー、ヘアブラシなどの雑貨を売っていますが、貧しい客から安値で髪を買い叩いては売りさばき、利益を得ていました。
この色白で大柄の、冷酷そうな女性は、大した近所付き合いもなく、いつも漆黒のオーバーコートに身を包み、普段使いには高過ぎるヒールの靴を履き、商店街の石畳を闊歩していました。道ゆく人は、すれ違う時こそ会釈はするものの、少し風変わりな様子を冷ややかに見つめていました。
(今日はクリスマス・イブだっていうのに、こちとら書き入れ時だよ。あたしも、いい商売を始めたもんさ......)
そんな彼女の店に今日もまた、みすぼらしい格好をした、若い女の客が入ってきました。
「あの、私の髪を買って頂けませんか?」
「ああ、買うよ。帽子を脱ぎな、見てやるよ」
ソフロニーは、慣れた手つきで客の髪を持ち上げ、質感を確かめながら値踏みして、冷たく言い放ちました。
「20ドル」
すると、客は迷わず答えました。
「それで結構です。すぐに、お金に換えて下さい」
(こんな娘は久しぶりだよ。こんなに目をギラギラさせてさ......。ああ、面白い、面白い。お目当てが七面鳥じゃあ、こうはならない。あんたのキレイな髪、ばっさり切って、泡銭にしてやるよ。この店に来る女には、裁縫用の鋏で十分さ)
マダム・ソフロニーは、客の美しく豊かな髪を、濡らしもせずに、華奢な小娘がより貧相に見えるように、乱暴に、ざくり、ざくり、と切り始めました。純粋な美しさを、どす黒い絵具で塗り潰す快感と、落胆した女の眼差しを見る楽しみに打ち震えながらーー。
けれど、娘の瞳は、ソフロニーではない誰かを見つめたまま、失った物など何もないかの如く、より一層の輝きを放つのでした。
(ああ、忌々しい。世間知らずの小娘は、これだから癪にさわるんだ)
***
今から20年ほど前、コニーアイランドには、飛ぶ鳥を落とす勢いのミュージカル女優がいました。彼女の名前はソフィー、かつてのマダム・ソフロニーです。
背丈が高く色白なソフィーには、鮮やかなステージ衣装がよく映えました。彼女は来る日も来る日も歌い踊り、客や仲間と朝まで遊びに興じました。噂話、陰口、妬み、嫌がらせ、酒、タバコ、派手なメイクーー。ボロボロになってもなお、スポットライトを浴び、歌い踊り続けることで、輝きを放っていたのです。
衣装に挟みきれないほどのお捻り、鳴り止まない拍手、「ソフィー」の掛け声ーー。
それも今は昔、マダム・ソフロニーのことを名前で呼んでくれるのは、この店の錆びた看板だけです。少なくとも、愛称の「ソフィー」を掲げることができるのは、貧しい客を相手に阿漕な商売をする、毛髪用品店の女主人ではないのです。
(あの結婚さえしなければ......)
一斉を風靡したソフィーは、客の実業家と結婚し、引退しました。ところが、幸せに見えた新婚生活も束の間、夫は事業に失敗、妹同然に可愛がっていた女優を連れて、どこかへ姿をくらましてしまいました。
彼女に残されたものは、夫の莫大な借金と、傷ついたプライドだけ。仕事を探そうにも、ソフィーの名声が邪魔をして、長続きしませんでした。
そして遂に、彼女はその日のパンを買うために、長い髪を売る決心をしたのです。酒やタバコ、不摂生な生活に、夫の失踪後の疲れが重なって、髪はボロボロ、どれだけ食い下がっても、20ドルにしかなりませんでした。
「あたしが一体、ひと晩でいくら稼いだと思ってるんだい!」
その声は、まるで「ソフィー」の最後の叫びのように、彼女の耳の奥に残ったまま、決して消えることがありません。
***
「20ドル」
さっき、若い女の豊かで長い髪を値踏みして、こう言った瞬間の、なんと痛快だったことか。
(あの時のあたしみたいに、「もっと高く買って下さい」と懇願すればいい!)
しかし、その時、深く傷ついたのは、若くて世間知らずの女ではなく、他ならぬマダム・ソフロニー自身だったのです。
***
いつになく悶々とした心持ちで帳簿をつけていたせいか、気付けばとっくに日が暮れて、窓の外の暗闇の中、粉雪がちらちら舞っています。
勝手口から物音がしたので目を遣ると、いつもの灰色の野良猫が、餌を求めて来ていました。この猫は、群れを作らず、いつの頃からか、毎日決まった時間にやって来ては、ソフロニーに餌をねだるようになりました。
「あたしに懐いてくれてるって思いたいけど、お前はそうじゃないね? 餌が欲しくて、ここを覚えただけなんだろ?」
彼女は急に悲しくなって、目の前の餌を蹴飛ばしてやろうと、足を振り上げました。しかし、そのすぐ後、思いとどまりました。一匹の猫が必死で餌を頬張る様子が、いじらしくなったのです。
「ちょっと前のあたしにソックリじゃないか。かわいいねぇ......」
***
マダム・ソフロニーが、いつものように、漆黒のロングコートを羽織り、コニーアイランド時代と変わらない、やけにヒールの高いブーツを履いて、商店街の石畳を闊歩してゆきます。
近所の人達は、すれ違う時こそ会釈をしますが、過去の栄光など見る影もないその後ろ姿を、もう観客などいない女優のモンローウォークを、冷ややかに見送ります。
でも、たったひとつ、いつもと違うことがありました。そんな些細なことには、誰も気付きやしませんがーーそもそも、気付く必要など、ないのかもしれません。
マダム・ソフロニーが、灰色の猫をだいじそうに胸に抱き、穏やかな微笑みを浮かべながら、何やらひとりごとでも言っているようです。
粉雪はいつしか沫雪に変わり、彼女の黒いコートに浸みては、消えてゆきました。
ーー聖なる夜の孤独に、ソフィーの心に、幸あれ。
原作の中でヒロイン自慢の髪を買い取った脇役マダム。彼女の秘められた過去とこれからを一緒に見守っていただき、ありがとうございます。
原作を翻訳した時も、翻訳を朗読した時も、自分の中から一番すんなり出てきたのがマダム・ソフロニーの台詞でした。「なぜだろう?」という素朴な疑問から出発して、彼女のことをあれこれ考えているうちに、気がつけば、彼女がもうひとりのヒロインになっていました。
翻訳はこちら → https://ncode.syosetu.com/n8043fz/
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