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小五郎 嚇ゞ

作者: いく たいが (衣空 大花)

「人を切ってきたお前は、明日の自分を切ってるんじゃ!」

慶応二年(1866)草木も眠る丑三つ時(深夜二時)、殺気帯びた剣を抜く近藤勇に対し、桂小五郎の発した一喝だった。


「今日在る御国(みくに)は、木戸孝允(小五郎)殿のお陰で御座りまする」

1877年5月、天皇が、歴史上初、庶民の家を直接行幸(訪問)されたのは、臨終間際の小五郎に見舞いの温厚を差し上げる為に申された時である。




遡る(さかのぼる)こと1868年の時代(慶応四年の時)


木立 ゆらゆら  風 吹く吹く

(しず)かなる悠久の流れ――風 (やすら)かなる声 (こいねが)い――包まった空気

其所(そこ)は 閑静な丘陵地 (おもむき)連なる一帯辺り

鳥たちの(さえず)(ただよ)い……包む(こえ)……柔らかな空気 ああ(われ)天の子 羽の如く気持ち 浮く 吹く


()ッ!切り裂く(そら)

風逆立ち、地を、樹木諸共(もろとも)、静寂を破って。

爆音と血飛沫(ちふぶき)、飛び散り。硝煙渦巻き「一斉にイケ!イケ! 銃!大砲!発砲せよ!!」――ドッーン! ドドン!バリバリッッ!!戦争(殺し合い)勃発す。


血潮飛散る惨状の迸発(ほとばしり)――(ハナハナ)だ難し!血が大地を切り裂いた――時は慶応3(1868)年1月27日の事。


イチ事件は、その時だけの一個事で終わることはない、時と同じく繋がって活きていくモノ――いったん発した言葉()言葉(こころ)に刻ませること是然り。


()(芯=Core)なり」

()った小五郎。


「(明治政府を牛耳っていた大久保利通)ワシは、そなたほど口が上手でなく、損をしとるわ」

「(木戸孝允(小五郎))言葉は心の鏡よ。上手下手ではない、心情に通わせる心を以て当たれば真心は映る(通じる)!……というほど私には充分な心を持ち合わせていないが」


また或る時。

江藤新平の唱え――立法・行政・司法がそれぞれ独立する『三権分立』を推進し、わが国近代司法体制の生みの親として『近代日本司法制度の父』と称され、司法制度・学制・警察制度の推進を説き浸透させた人物だが――「四民平等よ!」と力説していた。

(しか)しかし(真逆に)、運命は鬼へと化し、大久保利は*|情実を以て「私刑(法律によらずに加える私的リンチ)」によって斬首の(江藤新平)となり惜しい逸材を失った明治政府の恥部になったが――岩倉に御推挙頂き過分に存ずる」と岩倉に拝謝す。

* 情実すなわち同情社会の裏の(かたち)なり。個人的な利害・感情がからんで公平な取扱いができない関係や状態を拵える、これが事を奏したいときに用いた時の政治の在り方じゃ。今は?さぁー。

対し、「(木戸)得人難し、一旦挙人又俄に退之、於政事甚害あり、故に容易に人を抜擢するを恐る、抜擢するときは必全任せずんは其れ益なし、其人有て抜擢するは元より公論なり、故に能く其人を知て抜擢するは可なり、不然ときは却て国家之大害を残す」。

(冗長だな、難解は読み気がせん。良いことはすべて面倒くさいのよ)。平たくいや。小五郎は「独りでは事を成せません。心を一つにするは、富士の山も一つひとつの積み重ねの()ぜよ」

斯く述べ――人材の登用・育成に熱心だった木戸の日頃からの心がけが肝要であると説く。


「(渋沢栄一)世の民を救うには経済と心得候」vs.「(小五郎)いやいや、カネは食える程度でよかぁ。それよりも、『心の豊かさを稼がなきゃ』豊かな暮らしには成らん」


(また)

土佐勤皇党を弾圧した山内容堂とは維新後に意気投合し、飲み友達になっていた。酒豪である容堂と飲み続けた挙句に酒の失敗も()、明治元年(1868年)9月16日付の複数関係者らの日記によると、明治天皇の御前にて酒肴を賜り、そのまま容堂と飲みながら話し込んで大酔。数十杯を重ねた挙句にそのまま江戸城内の御廊下に倒れ込んで前後不覚になった、が、しかし眼は確りしていたという記述が――「(伊藤博文)木戸孝允は一週間不眠不休で、酒色と執務を続けても目玉はビクともしていなかった」と、小五郎は、一時も心休まることない緊張の連続であったろうと推察していたの旨。


重重。

明治4年(1871年)、保守的な弾正台(風俗の粛正と非違すなわち国に逆らう言動の取締りにあたる(りょう)制の警察機関)が廃止された時、開明派(海外列強の情勢などを積極的に収集し、取り入れようという考え方のグループ)であった木戸を始め、伊藤博文、井上馨、大隈重信、福沢諭吉らの行動や私生活を内偵していた文書が人目に発覚。

大隈らのその文書には「我々(開明派)の大勝利」と大喜びをした大隈であったが、それを聞いた小五郎(木戸)は逆に「そんな書類を見れば、無益な恨みを醸すのみで、何の益するところもない」と叱りつけ、一切目を通さずに焼き捨てさせた。大隈は「私情から言えば木戸公も見たかっただろうに、一に君国の為に断然私情を斥けてこれを焼かせた。我輩は真に木戸公の大精神、大度量に敬服したのである」と、木戸の処置に、感嘆した。大隈は更に「独り我輩が敬服すべき政治家は、政府の猿のお山の大将である大久保利通トンデモナイ、一にも二にも木戸公、いずれも日本における偉大な人物、否な日本のみならず、世界的大偉人として尊敬すべき人物、唯一人木戸公、である」と激賞す。


(また)維新後に。

明治から昭和戦後期にかけての『日本のジャーナリストの先駆け』、『思想家』、『歴史家』、『評論家』そして『國民新聞(後の「東京新聞」)』の主宰を成した徳富蘇峰(とくとみそほう)(自然描写に卓越した筆を以て小説家としてベストセラーとなった『不如帰』の徳冨蘆花(とくとみろか)は実弟)は次のように表現している。

何度か対立と提携を繰り返した木戸と大久保の関係性につき、「木戸と大久保とは互いに畏敬し合っていた。(中略) 大久保と木戸との関係は、維新後以降、両龍(リョウリュウ)相い(したが)うと言うよりは、寧ろ相い対立していた。恐らく大久保の眼中には、岩倉以外には、木戸一人であった。大久保は自らを信じることが非常に篤く(厚く)、自らの居を決して卑しくしていなかったが、木戸に対しては畏敬する所があった。木戸もまた大久保に対しては、幾多の苦情を抱きつつも許す所があった」。

「両人の関係は、性の合わない夫婦のように離れれば淋しさを感じ、会えば窮屈を感じる(人は、論より相性で納得し合う)。要は、一緒にいる事もできず、離れる事もできず、付かず離れずの間であるより、他に方便がなかった」を旨とした生の声を遺している。


キメは。

小五郎の()っていたひとつに――「戦の為の戦で在ってはならない」「有史以来、天皇の為!平和の為と唱えてきたが、しかし、やってる事は、『戦は己の為だけの利己』」然るに「本の戦とは、万民の心を反映させることから民主主義は成る」が在り。

この、小五郎が憂いていた背景には、日本本来の『*武士道』であった。

* 聞こえは良いが、体系化された思想、即ち、押し付けとしか言いようがない。詰まり、結束主義((けっそくしゅぎ)に他ならない。国民を意思統一しようとする思想やイデオロギー・政治運動或いは国民洗脳。是即ち『ファシズム』の危機を含むといふ。

ここで、板垣退助につき一言。

絶対尊皇主義者として知られ、君民一体による自由民権運動の主導者であり「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた。ご立派、一見。しかし。

これは、後の世界大戦参加への礎すなわち国家基本政策へと繋がったいった。

しかし彼は又土佐藩士・福岡孝順は、小五郎の意見をよく聴き。彼の自由民権運動は、天皇の“御言葉”である“億兆安撫国威宣揚の御宸翰”の意を拝し尊皇(天皇1人)を基礎とし、その柱を『五箇条の御誓文』に求めるものへと小五郎の意を存分に汲み、特にその第一条『広く会議を興し万機公論に決すべし』は重視され、国内へは「国会の開設」、国外へは「不平等条約の撤廃」等を求めた。

継。

ここに問題あり。

国民皆兵を断行するため太政官の許可を得て全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し、四民平等に『国防の任に帰する事を宣』、これは強制力である――ここに軍国主義への利己心が芽生え出し――今日に至るまで尚、蓋然性(確実性の度合い)が潜む。

武士道といわず、「暮らし一筋」すなわち『庶民一道』といやー、いい。切腹、国盗り合戦、ショバの奪い合い(縄張り争い)、これが武士や、道とは他者を尊ぶではなく「自己イズムに他ならない」……となるのでわ!?そだ!*フロイト(精神医学者)も言う。


* 「人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにもない!遺伝子である故」と明言する。だからと云って諦めてはいかん。人間の人間足る証は「悪を征してこそ、はじめて文化をつくり得る」。

だ!だ!知力だ!教養だ!……と昨日までそう思っていた。

文化とは、学歴や身分は関係ない、「文徳により教化すること」すなわち「人柄よ」ハイ!

え!?人柄って?

人の性質。人としても品格。である。商品にも高い安い上物安物の違いがあるように人間品にもいろいろあるのよ。


いかなる天才もそこから生まれる『実』も、「勉強する者」と、「その情熱」には勝てんのよ。


遡事(さかのぼること)、年は文政12年(1829)。

次男であった徳川斉昭(ドラマ――フィクションでご存知の、後に、「水戸黄門」と呼称された人物)が家督を継ぐ可能性は低かったが、8代藩主を継いでいた長兄の斉脩が33歳で他界したことで、斉昭が9代藩主に就任していた時代(とき)

藩主となった斉昭は藩政改革にとりかかり、家中の気風を改めることから始めた。まずは藩校・弘道館を設置して文武を奨励し、身分が低くても能力のある人材を次々に抜擢。藤田彪(名は(たけき)、号は東湖(とうこ))、会沢安(正志斎)、安島帯刀、武田彦九郎(耕雲斎)、戸田忠太夫などを用い。

また同時に、水戸藩35万石は財政難から毎年幕府より1万石の援助金を受けていたが、斉昭は「まずは倹約し、35万石で生活が成り立つように目指すべし」として援助金を返上。自分の食事も従来の藩主の献立ではなく、部屋住み時代の質素なものに改めさせた。

一方で、藩を挙げての大規模軍事演習「追鳥狩」を実施して藩内の結束を高めるともに、泰平に慣れた藩士たちの惰気を払い、有事に備え――これは頻繁に近海に現われるようになった外国船を意識したものであった。斉昭の藩政改革は成功し、幕府も「天保の改革」を大いに参考するほどであった。

併し。

攘夷じょうい(外敵、即ち、外国人は尽く撃ち払うべしとする思想)をめぐって井伊直弼と対立。

この対決は、大老、井伊直弼、の政策とガチンコ勝負……まさに真剣勝負……命を懸けたやり取りとなった。外国に対する意識においては、斉昭も井伊も現状では開国はやむを得ないと一旦なるが、いずれ国力をつけて攘夷を実行できる余力を備えることを目指す点で一致を見る。しかしそれを従来の幕閣主導で行なうか、開明派大名を登用する幕政改革を行なって実行するか、という点で真向決裂す。

これはどちらが正しいという問題ではなく、信念のぶつかり合いであった(「信念」と「意地」は表裏一体につき、犬も食わぬ「我れぼめ」と謂う)。いや、相性が合わなかった(これを「同情社会」という、別名エゴ社会。「論よりも、気分が合うか否か」で、人は集まるか排除するかに至り易いとする社会構造)。

結果、斉昭は、形式上は13代将軍・徳川家定が台命たいめい(将軍の命令)を発して全ての処罰を行なったことになっているが、実際には井伊直弼が単独で全ての命令を発した、“安政の大獄”により、国許での永蟄居(えいちっきょ)(終身にわたって出仕・外出禁じ)になり。その結果、斉昭の処分と勅諚返納に激昂した水戸浪士により、井伊は雪降るなか桜田門外で暗殺される。そして5ヵ月後の万延元年8月15日、斉昭もまた蟄居のまま急逝す。享年61歳。

人の意見が対立する場合、(物事の道理)ではなく|エゴ(「自我」に陥る。哲学や精神分析学においては「感情」)が中心となった例が示すように、聖徳太子暗殺・本能寺信長抹殺・源平合戦での多くの戦死者(安徳天皇水没然り)・源頼朝の実子である第三代征夷大将軍の源実朝暗殺後に持ち去られた首・正統な血筋者を亡き者にして就いた朝鮮系血筋の明治天皇・西南戦争に仕向け、戦死させられた西郷隆盛・市町の衆人の前で暗殺された大久保利光や伊藤博文・累々然然(しかじか)此皆確確(しかしか)、今日に於いても何ら変わっていない……。

が、しかし、幕末京都に迫る「天狗党」……一橋慶喜の“その後”に与えた影響、“明治政府建立”に及ぼしたカギは、つまり、“*愛民思想、と黒船来航”であった。


(* この「愛民思想」は、まさに「知行合一」を地でいく実行主義に貫かれています。しかし曲者でもある。

1.家臣(武士)たちは我れのものであるが、百姓は上様(うえさま 将軍)からの預かりものである。粗末にしてはならぬ。もし百姓が安んじなかったら上様に対して不忠者だ(まさに、藤四郎トウシラウ(「暴力団以外の素人衆」の意)には手を出すな、暴力団組織のよう)。

2.かりに藩の財政が苦しくなっても、家臣たちへの給与は減ずるとも、百姓の納める年貢を上げることはしないとの御触れであった(が、しかし、値上げは恒常的に行われた)。

3.災害や飢饉(ききん)のときなどに、百姓がたまたま病気にかかって死ぬことは仕方ないとしても、食べ物がなく、飢え死にするなどのことがあってはならぬ。ぜひ相応の手当てをして飢え人を出すな。もし飢え死にする者が出たら、係りの役人(武士)を処罰する(これも建前だけで実行されたことは稀の稀。今日の語でいう**愛国主義と同趣意)。


(** “愛国主義(patriotism)”と“愛民思想”は表裏一体。素晴らしい聞こえ。しかしマインド(精神作用に御留意)。もともとは郷土愛(patria, 家族:出自集団の隠喩)から生まれた言葉の「愛国心」にほかならない。ナショナリズムは、 ある特定の共同体コミュニティおよびそのメンバー(ネーション, nation)への献身をしばしば意味するからであって。単一ネーションからなる国家形態、あるいは、多数の民族集団からなっている多様な集団をひとつの国民ネーションとしてまとめる、或いは、まとめようとする国家運営形態も共に国民国家(ネーション・ステート, nation state)と呼ぶことになる。

愛国心は今日では、国民と国家への愛着のうち後者への、排外主義的な国家(state)への執着心をこのように呼ぶことができる(ナショナリズム)。愛国主義の特徴は、親族の出自原理を国家のシンボルと結びつける信条で支えられ、国家のシンボルは、憲法であったり、国旗であったり、国歌であるが、それぞれがフェチ(フェティシズム)的対象化されることが多々な由。よって、《愛国心は危険な代物になる為る》点に御警戒を(真の愛国心とは、「個々個人に思いを馳せる」ってこっちゃ。「国家とは人だから」)……なぬ?解かり難いと!明き盲(あきめくら)になると不正に騙されたままになるぞ)


斯くの如くの時代背景があった。

そこで、小五郎は、先ず、正論を成すには、同情社会(喜怒哀楽に同調しつつも、感情論を論に以ていく社会構造を創っていかねば)と逆手に取り、論を最優先に興すが手順であるべきと肝に銘じた策を取るようになっていく――。


――歴史に名を残さたきゃ、称えられるべき善を施せ!……少しぐらい部屋が散らばっていても。

真の愛を克ちとりたきゃ、誠の愛を施せ……少しぐらいイケた顔じゃなくても。

まーぁ、何とかなる。と思う者は負ける(淘汰(生存競争)する論ゆえ……ダーウィンの自然選択説(進化論)もいふ)


時は*フィードバックし。1868年1月27日。


(* フィードバック、(これ)即ち、「改善点や評価を伝え、軌道修正を促す」とするのが主意であって、“唯単に時を振り返る”ではない。誤用されてる御仁が散見される(わざわい)……グーグル検索知の猛信者になるな!……信頼に値する文献を選ぶ由……間違えても「売れてる」「著名人」だからと鵜呑みにしないように!売れて金儲けになるなら何でもありなのが知識人と名乗る者の幾分かとマスコミや出版社の体質(ポピュリズム)(時代は、「大衆迎合」「衆愚政治」「扇動政治亅「反知性主義」)だから。許せ、ホントだから)


勃発を起こした薩摩藩と長州藩との連合軍を中心とした(いくさ)は、"連勝!連勝!" vs. "連敗"に遭うも、“一歩後退”“二歩前進――百歩前進”、薩長は初めて天下を治めるに相応しき師匠(ししょう)現ると褒め称えられる。

これで賊軍と呼ばれるのを脱した、「新政府軍」として庶民の間には雄と認知され始め拍手喝采。国を別ける一大イクサ――一大新世界開幕ショーとなって庶民一同が歓声の声を上げた。

これ後以降も、幕府軍との熾烈(しれつ)な戦い。濁流が押し寄せる勢いで、全国津々浦々、五分・八分・ついに九分かたもの大勝利を収めることになっていく。

革命の代償は何処も同じ、“(まこと)ゝ、錦絵のごとく”と庶民は雄叫びを挙げる。

国幹道。鳥羽街道……都大路である京都市南区から鳥羽を通り京都市伏見区へと至る街道であって、大都会大坂へも通じる重要な幹線道、ここを要に封鎖していた街道の薩摩藩兵ら5000名、対幕府軍先鋒15000名、戦力差3倍、とガチンコ(対戦)

圧倒的に兵員数では幕府軍の方が勝っている。幕府側は口々に「負けるはずがなーい!」と、全国の諸藩は疎か、世間も(たか)(くく)っていた。

「通せ!」 vs. 「いや、通さぬ!」と戦闘は一進一退。

ついに業を煮やした幕府軍は三日目の午後5時、一斉に槍・甲冑を轟かせ隊列を組んで前進を開始!――しかし立所に、3倍もの兵員数にものをいっていた幕府軍だが長州らの新式火類の前に、死傷者数を増やしつづけた。幕府軍はついに下鳥羽方面に敗走して往く。


快進撃はつづき、江戸地に突撃。

が、ハタッと止まる。

江戸人口100万人に混じったゲリラ隊が頻発――将軍徳川慶喜は、天皇の意思に叛逆した賊軍に追い落とされ、恭順の意を()め江戸上野にあった寛永寺に謹慎していたが、納得がいかなかったのが幕臣たち、立ちはだかった隊、手強かった……進撃隊は境地に陥った。

火急(即刻)、小五郎の許に早馬が飛んだ。

幕府側が、臨戦態勢を整える、新政府軍の弾薬や食路を各街道で塞ぐ、江戸湾に幾船もの軍艦が待機し、江戸周辺に特に東北地域に兵団が集結しつつある……、との形勢報告であった。

一発触発の窮地に追いやっていたのは、鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は慶喜の一橋家時代の側近が中心となり同盟を結成、その内のひとつが彰義隊、上野山東叡山寛永寺に立て篭もり出した。

小五郎は、飛んできた返信に速かった、電光石火手、手を打つ――大村益次郎、理論派戦略家らの援軍を組織し、既に薩長連合軍の総本部重臣に就いていた姓を木戸孝充と改称し、手の者を含めた強力師団を再編し直し西郷軍の下に送った。

この者たちを派遣した援軍らは只の腕力軍略集団ではない。

小五郎は、オランダ語や英語に通じている村田蔵六、後に改め大村益次郎、を藩士に加えるなどし、既に長州藩では欧米への留学視察、欧米文化の吸収、攘夷の実行という基本方針を成していた1863年5月8日、長州藩から英国への秘密留学生ら多くを横浜から出帆させていた者たちであった。

中には秘密留学生の井上馨(井上聞多)・伊藤博文(伊藤俊輔)・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助。

勝利のセオリーは、武力ではない、先進のテクノロジーであった。これを、情報力戦争という……今日日ニッポンが、中国勢と、韓国に日本やアメリカが負けつつあるのはこの情報力の遅れである……。


立て直した西郷軍。

明治元年5月15日江戸上野に於て、彰義隊と新政府軍の戦いは壮絶になった……世にいう“上野戦争”……200名をも超える彰義隊士の遺骸が上野の至る所に残った。

当日の天候は、瀟々(しとしと)降る雨のなか。午前7時頃。両軍は南西北3方向で戦闘を開始。南方は寛永寺黒門口に薩摩藩を配置し、西方はアームストロング砲を有する肥前佐賀藩が主力となって、北方の背面の搦手門は長州藩が主力となり団子坂に結集した。東側は断崖ですが、北東方面を彰義隊の退却路として敢えて開けておいた……江戸地から追い出す敗走路として……西方へアームストロング砲を始めとする弾薬の節約に備えておきたかった。

係る作戦は大成功に()わる。配置が功を奏したのである。

黒門の上にある山王台砲兵陣地の威力は爆音唸り大地を破壊した。

が、しかし、この配置にも拘らず、その前面の小銃陣地と共に新政府軍を悩まし続く。暫し、戦況は一進一退の状態。ついに、午後1時前、大村益次郎は佐賀藩の伝令を呼び、「“あるむすとろんぐ”の大筒。もはやよろしかろう」と云うが早く、伝令は騎馬を以て走り、加賀藩邸の鍋島監物に伝えた。

すぐさま一斉射撃の命令。アームストロング砲が火を噴き、不忍池を越えて砲弾が着弾し始め、戦況が新政府軍側に一気に好転。黒門口では西郷が最強の薩摩軍主力を指揮し、防備を破り攻め入り、彰義隊は瓦解(がかい)・東北方面へ壊走、夕方に戦闘は終結した。


いばっ(どや!)!」と西郷は居並ぶ部下たちに勝ち誇る!……が、しかし、内心では「小五郎の言っておった作戦の通りだわ」と西郷が此処でも大きく背を(もた)げ、深く、(しず)かに唸った。

「勝利の戦のハウツー」を(しか)()り……既に薩英戦争と下関戦争での完全敗北が(おし)えてくれていたのだが……、自信を深めた戦となった。新政府軍勝利の時代がやって来たという確たる大戦フィナーレの象徴。と後に語られる戦となって(のこ)った。

小五郎は「これからの戦いは新式火類」を持った側の勝ちよーオ!」と既にドイツ・オランダ・イギリス等の西洋の文明事情を留学で得ていた見識を西郷に忠言し「そうや!そうや!勝ちじゃ!」と西郷も得心、薩長とも大量の新式武器をドイツに学びイギリスから購入していた新知識力の戦いの機会(きっかけ)になった。


小五郎。若干十代にして長州藩の超難関試験に二度も合格(今でいう司法試験に二度も合格する腕前)。更に凄いのは、試験内容が大人でも難解な思想問題を三寸(いと)も簡潔に答えることができた。やはり人は生まれながらのgift(天性の才能)というものはあるんだろう。いえいえ、「努力を行う者こそが天才となる凡才(平平凡凡な者)足るゆえん(所以――根拠)である」。

いやいや、試験突破能力ではない、人としての価値観である。ところで価値観って何だ?答えは、「美しい、正しい、心地よい、優先するべき、理想とするべき」とヒトは謂う……それでも実は、よくわからないんだよ、だから勉強してるの!――日々――一生。そ!生涯「何が人生か」を考えるのが人生。


「勝利のハウツー」は優劣による指揮能力。ではなかった。

戦術に長けていた……とよく言われる(はなし)……これは大河ドラマの常套手段(ありふれたやり方)(その噺を信じると、頭が退化する……)。

火類の威力が勝敗の行方(ゆくえ)を左右するとした論であった――論なくば、右往左往に埋没し喧喧囂囂(けんけんごうごう)にオワる。

幕府軍が和蘭陀(オランダ)に学び仏蘭西(フランス)式を用いたのに対し、新政府軍のは英吉利(イギリス)式のエンフィールド銃といって、前者式よりも銃身内によって加速を生じさせる弾丸旋回運動を有していたため、弾軸の安定を図り、直進性を高めた、この落差が優劣を決した。

これには事情があって、南北戦争時に北軍が用いた銃式はエンフィールド銃であったが、戦争後作り過ぎて売れなくなったのをイギリスは買い取り今度は新政府軍に高く売りつけた。これ以降。明治大正昭和に(わた)って従来の兵員数や根性が勝利を決する。ではなく、近代火器が勝敗を決するようになったのだ。

にも拘らず昭和が化石頭を(もた)げる。大和魂だ神風だ!だから破られる事は無い!と信仰する者が少なからずいるが根性(精神)で勝てる筈は無い。結果は、完膚(かんぷ)無きまでに最新火類の前に完敗してしまった。……ああ!新式火類原爆の前に痛いほど|I'We've got it; all right!《知り占めた》…… と米側にきっと思わせたにちがいない。ニッポンは後々昭和に戦後の奇跡といわれる復興を成したが、…… 後の日本国のキーストーンとなったのは、この時の訓えを叩き込まれた心底故(「親・兄弟・親類・恋人の命を奪った敵国の親米派が今では国民の大部分」 vs. 「ベトナム・朝鮮戦争時の北朝鮮(祖国を分断された韓国民も)と中国やロシア・イラン戦争時の中東諸国は、かつての敵国米に対し今だ憎しみを抱いている」)と民族肌によって、二分している。


諸藩の多くは貧しかった。そうさせるのが幕府の政略だった。幕府以上に豊かな財力を蓄えると反乱心を貯め込むことになるからと警戒していた。

諸藩が財力を貯える事を恐れていた幕府は、そうさせまいとした定め事「武家諸法度」を(こしら)えたのだ。……「『万事江戸ノ法度ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行スベキ事』、現代文に訳すと『全て幕府の法令に従い、どこにおいてもこれを遵守すること』、……このお陰で膨大な支出を余儀なくされ全国津々浦々諸藩は『参勤交代』が取り得られた。

一例を挙げれば、加賀前田家の場合、1回の参勤交代のお値段約7億円也の所為(せい)なのだが、他方、「知ったことか!」と、まったくその意を無視して薩長は日々密貿易で大金を稼いでいたのだ。「軍資金の多いほうが戦は勝つんや!」という経験知からであった。現に高額なエンフィールド銃を膨大な数にわたって購入し手内に得ていたのであったのだから。



これまでの話より、ずっとずっと以前の話。

小童(こわっぱ)小五郎は、身長五尺八寸(174cm)、当時としては高身長、の快男児になっていた。()た、動いた、江戸を終わらせ、維新(これあらた)・明治を(つく)った。

(しか)し、今尚、維新は()わってない……。(まっと)うする迄にはいかなくても、本気すら見受けられない今日日の政治態様――いかんぜよ!


『こわっぱ』というのは、幼少の頃、実母と姉を次々に失い、自暴自棄に堕ちた。併せ、悪戯に熱中する時期に当たったのだ。

()ある時、水面から顔を出し船縁に手をかけ沈めてやろうとすることがあって。それが何回もつづいた。ついに業を煮やしていた船頭は(かい)でこわっぱの頭を叩いてしまった。

小五郎は、負けず嫌い、意地っ張りなのか、岸に上がり額から血を流しながらもニコニコ笑って見せた。馬鹿にしたのではない、こころ内では、やり過ぎた、すまんかった、というテレ苦さ隠しであった。

後の者たちが勝手な物語をつくった――このときの額の三日月形の傷跡は、生涯、頑強な形として残っていく――この傷跡の印が、頑強に閉ざされた日本を生まれかわす旗印となったんよ。と、人は物語が好きだからって、このように話がどこに真実があったかは知る由もないが、時は流れていく。


いま、幕末を、明治維新を、そして、風流才子な和郎(やろう)が駆け抜けてゆく。


生まれ持っての(たち)か否か、二度の超難関試験に合格をしたことは確か、才子(gift。才能)と見識を兼ね備えていたが、決して高ぶることはなかった。

剣の腕はめっぽう強い――神道無念流(立居合十二剣術)の練兵館の塾頭に就いた小五郎だが、自分から剣を抜くことはなく。

頭は低く。

誰にも分け隔てなく接し。

皆等しく生きていける泰平な世を夢見。

表は静かな佇まいだが、内に燃え(たぎ)る意志を以て。

幼くして肉親を次から次へと失っていたゆえ、人一倍の反骨心、動力心か、並以上な洞察力を手にしていた。


――困窮した経験者ほど、より繊細心が醸し出される。

胎児(母親体内から外界の物理的・精神的な《喜怒哀楽の影響を受ける》。また法的にも権利能力を有し――《不法行為に基づく損害賠償請求権(民法721条》・《相続(民法886条》・《遺贈(民法965条》他)から生長期までの経験ほど、後の「成人発達」に大きく及ぼしていく(「発達心理学」学際に拠る)。

人間の知識やスキルを司る「知性」や「意識」が、成人以降も生涯をかけて成長・発達していくことを前提とし、人間に成ろうとする成長・発達のプロセスとメカニズムを()ることにより、幼少のころに肉親を失った者ほど人一倍「洞察力」が鋭くなりがちという通説(当初は内容的な「説得力は強いが少数説つまり有力説」であったが、「多くの学者が支持するようになり今日では通説」になっている)。バートランド・ラッセル、夏目漱石、チャールズ・ダーウィン、そして、桂小五郎、ら皆然り。

(しか)し、両親に恵まれ裕福な家庭に育った人、ゲーテも、人一倍洞察力に(ひい)でた者もいるにはいたが、前者に比べれば、その|LatentPowers《潜在力》には及ばなかった。――


「命あっての物種(死んで花実が咲くものか)」とは、古来より謂われてきたこと――有史以来、ヒトは食べて生きている。食べるために生きる者もいる、そうあってはならない、贅肉がブヨブヨ付き寿命を縮めるだけよ。

有史以来そして古来より、ずっとズット、そして江戸以降も変わらず、多く人々の99%の者たちは、食べる為、本百姓(農民)として生きていた。

江戸庶民の中流階層の飯は、朝は炊き立てのご飯と味噌汁、昼は冷や飯と野菜もしくは魚のおかず、夕食はお茶漬けに漬物程度。

ところが中流以下の農民数の方が数ははるかに多かったが、魚などのおかずは数カ月に一度もしくは皆無の者たちもいて、少ししか口にすることはできなかった。

そこへもってきて、農業は天候に左右仕勝(しが)ちから、凶作になると、時には飢え死にする者たちも増加の一途をたどっていくようになっていた。

食べられなくて死んだ農民の数も増えて来、ついに江戸時代後期に起きた最大規模化した天保の大飢饉を招いた。その死者数は1833年から1837年にかけて125万2000人という甚大な数に及ぶ。

米価が上がったこともあって各地で一斉に一揆や打ちこわしも頻発する不安定な世情となってきた。

ついに江戸末期には貧農達が、質地……借金を担保として質入れした土地……取り戻しや借金の帳消しを豪農に求め、均等な社会を求める世直し一揆が勃発しはじめた。

そこへ大坂町奉行所の元与力大塩平八郎とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱が起きた。この大塩が、幕府の腐敗横行が多く又庶民を助けるため、起こした反乱は庶民には心強かった。

ところが多勢に無勢の幕府方の役人に囲まれ、彼は短刀と火薬を用いて45歳で自決してしまった。庶民は皆一様に落胆した。

食は楽しむものだ。食うのが目的では哀しい。ましてや食えないほど悲惨なものはない。


……これらが明治維新を拓こうという原動力の第一弾目となった。

食に飢えていた庶民から「食い物を出せ」と悲痛な声が日本中津津浦浦(つつうらうら)に挙がった。

恐れた幕府は応戦した……蛮社の獄が、*言論弾圧事件であるが、勃発し、高野長英・渡辺崋山らが捕らえられ獄に繋がれるなど罰を受け、処刑された……。庶民が貧しいのは、江戸幕府の鎖国政策であると批判したためであった。


(* 政府は意を強引に通そうとするときは、必ず、言論統制(弾圧)(牢獄から暗殺まで)を敷く。これが全世界の歴史である。

つまりこの場合は。

天保年間、ついに日本社会は徳川幕府成立から200年以上が経過して幕藩体制の歪みが顕在化した。

欧米では産業革命が推進されて有力な市場兼補給地として極東がマーケットとして重要視され、18世紀末以来日本近海には異国船の来航が活発化し始めた。

寛政5年(1793年)のラクスマンの根室来航を契機として、幕府老中松平定信は鎖国祖法観を打ち出した。幕府の恣意的規制の及ばない西洋諸国との接触は、徳川氏による支配体制を不安定化させる恐怖感に(さい)まれた。その結果、鎖国が徳川覇権体制の維持には不可欠と考えたためである。一方でこの頃から、新たな文化文明を目にする者たちが現れた。蘭学である。これはヨーロッパの学問・文化・技術であるが、この蘭学の隆盛とともに蘭学者の間で西洋への関心が高まり開国への期待を刺激し始めた。

文政7年(1824年)には水戸藩の漁民たちが沖合で欧米の捕鯨船人と物々交換を行い300人余りが取り調べを受けるという大津浜事件が起こっている。また、異国船の出没に伴って海防問題も論じられるようになるが、鎖国体制を前提とする海防とナショナルな国防の混同が見られ、これも徳川支配体制を不安定化させる遠因となっていた。

人びとの好奇心を抑え込む奴らこそが、低能の証ってことよ。)


そのような中で出されたのが文政8年(1825年)の異国船打払令である。これについては、西洋人と日本の民衆を遮断する意図を濃厚に持っていたと指摘されている。また、文政11年(1828年)には幕府天文方・書物奉行の高橋景保が資料と引き換えに禁制の地図をシーボルトに贈ったシーボルト事件が起こり、幕府に衝撃を与えており、天保3年から8年(1832年 - 1837年)にかけては天保の大飢饉が発生して十万人余が死亡し、一揆と打ち壊しが頻発した。特に天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱・生田万の乱は全国に衝撃を与えた


外には、対岸の火事となっていたアヘン戦争の報を耳にするようになってくると。

国情は一層騒がしくなり。

見たこともない何十階以上にも達する高さの真っ黒な軍艦七隻が突然現れて世は上を下への大騒ぎになった。

これが爆薬庫になり、倒幕を起こそお!となる。庶民の暮らしを豊かにするとした人らしい人権を回復しよお! 新政府を興そお!となったのが第二弾目である。

成功した、ついに新政府はできた。

が、竹馬の友として大望を共にして戦い生き抜いてきた無二の友と信じていた同士西郷を殺すなんて、非良識も反民主主義もへっちゃらな明治政府太政官(首相)大久保利通が現れたのだ。――この者の血縁末裔が吉田茂であって発達心理学上では病人と呼ぶが、これに継いだ麻生太郎、そして更に、親戚間柄にある安倍晋三ら一族は同じ轍を踏んでいるのだが――遺伝子(先天性・後天性・発達心理学、上の皆質)ほど解かり易いものはない……。

(悪口を云ってるのではない。係るふたりの周知となっている行状を謂ってる――事実は事実である由。

森友学園に関する財務省の決裁文書の改ざんに関与させられたことを苦に自殺した近畿財務局の男性職員の妻が、第三者委員会による再調査を求めて、35万人を超える署名を提出したことについて、麻生副総理兼財務大臣は、すでに徹底した調査を行っているとして、再調査を行わない考えを改めて示した。

安倍晋三前首相は、「桜を見る会」前日の夕食会を巡る首相在任中の国会答弁について衆参両院の議院運営委員会で「事実に反するものがあった。国民の信頼を傷つけた」と陳謝し、夕食会参加者の費用を補填(ほてん)していたことを認めた。自らが不起訴になったことを理由に公職選挙法が禁じる地元有権者への利益供与は否定。衆院調査局の調査で「虚偽答弁」は118回に上るが、疑惑解明のための明細書提出も拒むなど十分に説明責任を果たしたとは言えない内容に終始す。

よって、悪口には当たらないので……)


そんな時代が小五郎を動かした。

慌てず、実直に、世を渡って行った小五郎が遺した一つ()に「人民が主権を持ち、自らの手で、自らのために、政治を行って、偽りの政治に泣くことなく、人民が自らの自由と平等を保障する社会体制こそ民主主義!一人ひとりが何ができるか行動せよ」と、()った後の現在にも、小五郎は私たちに()っている。



先の鳥羽・伏見の戦い。これより、14年前。時代(とき)が、215年間の|沈黙を破った。

風雲急を告げていた1854年2月13日のこと。

寒風吹き荒れる中。小五郎は、2度目のぺリー来航があったとき、直接見てみたくなり、すっ飛んで行った、見た、佇んだ、また観た、そして、返し返し視入る――圧倒的な黒船の佇まい、突き刺す寒風のなか(かじか)んでいた手を忘れた。息を呑む――言葉を失った。

7隻の船体は真っ黒なタールを塗りたぐって……天空を黒く覆う未知の世界を予感する巨体のよう……日本の大型船の25倍の大きさの黒船。この2度目の巨艦影に今回は幕府は押し切られ、アメリカとの開国を渋々認めた。

と、世の後々の人々は云うが実際は違って二つの目的のために、幕府は積極的に動いたのが事実であった。

ひとつは、当時、先進外国勢は、東南アジア諸島の国々を次から次へと占領、大国中国――眠れる獅子――と久しく云われてきた中国をもアヘン戦争を以て領土全土を制覇!それではと継いでこの機に乗れ!諸外国に植民地化されていた外国勢を見倣って我が日本も参戦しよー!アタボーよ、既に日本は再三再四に及んだ中国軍によって来襲されていた史実を見過ごすな!今こそ中国を乗っ取れ!

一方では薩長の長老を始め一部に「幕府だけが長崎から膨大な貿易収益に潤ってのは不公平だ。これを機に我がニッポン薩長こそが世界の経済利権を握り、国庫を豊かにすべし」という金勘定が下心の背景にあった。

これには小五郎の勘が大きく寄与していた。

当時イギリスが主に係る領土を植民地化していたのは経済の覇権を握ることにあったが、これに遅れまいと参戦したのが米国であるのを知っていたのが米国黒船の真の目的であると察する。これは小五郎の脳勘だけではなかった。識が大いに貢献していた。また小五郎だけでなかった、識者の内には少なからず知っていたというのが事実である。

二つ目は、この黒船文明を取り入れ先進文明の利器を以て富国強兵を図るには大チャンスと幕府は着眼していた。よーし!我がニッポン!世界に冠たる一流国にしたるわ!!という眼力にフォーカスした訳で。

歴史物語を信じてはいかんぜよ――大河ドラマや、小説を非難してるのではない――書かれている文字の裏を読め!と云ってるのだ。歴史家を始め文筆者は、売れればイイという大衆受けを狙ったポピュリスト(「大衆迎合」「衆愚政治」「扇動政治亅「反知性主義」に追随する者たち)だからね。


今でいう若干中学生の身であった小五郎。当時、長州藩の試験で容易に答えられただけの頭脳の持ち主だけはあった……「子曰わく、千乗の國を(みちび)くに、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てす」学而第一、論語3頁2行目。……口語すると「先師が言われた。『兵車千台を有するような諸侯の国を治めるには、政治を慎重にして民の信頼を得、国費を節約して民を愛し、民を使うのは、農閑期を利用するように心掛けよ』」。ここより小五郎はひらめいた『民の力は農民の多勢力。国の力は財力に有り』と若干コワッパが心得た。


人間は頭脳ではない、生まれ持ったギフト(素質)である。かといって自分にはないと落胆することはない。人は皆平等に生まれてきたのよ。

体力に恵まれた者はオリンピックへ、人気ファンが大好きなら芸能人に、口八丁がご飯より好きなら政治家へ、喋ってないと気が済まない者はTwitterスペースを……という具合に人には生まれながらのギフトは備わってるもんだ。


――民主主義は未だ完ってない。ダイバシティ(多様な社会)というが、その為にはインクロージョン(人等しく包含)となる必要があったが程遠かった。

と桂小五郎の口は、堰を切ったように言い放った「今日日の政治は大衆迎合主義(ポピュリズム)であって、大衆に迎合することに躍起、利益や権利を守ることに終始、大衆の支持のもとに既存のエリート主義である体制側や知識人などに批判的な政治思想に捉われ、施策が偏っている」と(しか)と肝にしたためた。――


更に9年後。頃は1861年の時代(とき)

彗星か!?……いや若竹か! 彼の如く青々輝く命を全うした久坂玄瑞没24歳(50・70歳まで生きていたら明治は大きく替わっていただろう)――14歳の夏に母を()っなり、翌年には兄・久坂玄機が病没、そのわずか数日後に父も亡くして15歳にして家族全てを失った。その後名を玄瑞と改め17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を活用し、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は180cmほどで恰幅(かっぷく)がよく、声が大きく響き澄むような美声であった。惚れたのが吉田松陰の妹文15歳。玄瑞18歳。両想いとなり夫婦になった人物――は、長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向け尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動等の初めての人物となる大がかりな運動の切っ掛けを起こした。

これは小五郎を大いに刺激した。啓発された。特に久坂の次の二点に感銘。

一点目は「(中略)貿易を盛んにする前に、国産の開発が大いになされなければならない」。

そして二点目「我が国は海外へ出ていかなければならない」。

小五郎は久坂のその二点に大いに魁傑(かいけつ)する。小五郎自身が「ずばぬけて大きい人」と感服を向けた者は、吉田松陰に継ぎ二人目であった。

と同時に、小五郎は次のように考えさせられた「変えられないのは他人と今。変えられるのは自分と未来」とその後以降、西郷隆盛・久坂玄瑞・伊藤博文・高杉晋三・他の有志らと会うといつも声高に、従来以上に、声を挙げはじめた。

小五郎は国の行く末について日に日に憂慮を深めるに至る。外国勢に押し切られたままで日本はどうなる? 圧倒的な文明力に勝ったままのアメリカ(ペリー艦隊)の圧力は避けられない、今までの自分の考え方を変えなくてわ……期せずして既に国内始め長州藩内では、国家は危いという世論に沸き立っていた。小五郎自らもこのままでは危ないと(さいな)まれた。どうしよう? それには外敵を斥ける攘夷論を以て日本国を救うしかないという一念に至って、ついに1863年5月8日、横浜から密留学に成功した。

この1863年に係る時世に小五郎が囲まれていた背景は、こうであった。……1853年黒船来航、1855年安政江戸地震、1858年安政の大獄、1860年桜田門外の変、1862年生麦事件、1863年薩英戦争、斯く斯く天変地異の如く史上最大の激変期を余儀なくされていた。

ちな、小五郎は惜しんだ、久坂は心半ばにして二十四歳で亡くなったことを後々まで惜しんでいた。しかし、その後の明治維新以降の基本政策は久坂の望んだ通りの国家政策となっていく。この実行推進力の元となったのが小五郎であった――他有志者のように「権力の為の権力者」にはならなかった。


同時に(また)この時期、吉田松陰も黒船を見て熱くなって「こりゃー、だめだーあ! 今の日本の力を以てしても勝てるわけがない。このままじゃアメリカ等欧米挙国に日本は清国のよう飲み込まれ属国になってしまのは目に見えている……」と心を掻き乱されていた 。

さっそく吉田は長州藩校に明倫館(めいりんかん)という藩校(思想私塾)を興し「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と国の行き先を説き始めた(「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず 人間は生まれながらに平等であって、貴賤・上下の差別はない」と説いた福沢諭吉はこれを*二次作品して(パク)ったのです)。


(* 後学のため云い添えると。

二次作品者は司馬廉太郎もであった。坂崎紫瀾の伝記小説と瓜二つ。1883(明治16)年に当初は新聞小説として連載され、完結後に単行本として複数の出版社から刊行された。連載当時のタイトルは『天下無双人傑海南第一伝奇 汗血千里の駒』で、筆名は「鳴々道人」である。この歴史伝記『汗血千里駒』(かんけつせんりのこま)において筆者は坂本龍馬について『英雄』の一言も述べてはいません。紫瀾が執筆に際し利用した情報源は、木戸孝允つまり小五郎から龍馬に宛てた書簡等からであった。これを面白おかしくして本が売れるように司馬の単なるノンフィクションに見えるよう拵えた作り話内容であることを知っておいた方がいい――流石、新聞記者だけはあって、事件化するのがうまい。紫瀾の小説では数多くの人物が登場するが、坂本が登場するのはそのわずか数回にしかすぎない。その他登場人物は大勢であり坂本はそのうちの1人であった。坂崎による小説は実際を見て知ってきた木戸孝允(小五郎)の話を引用していることから、これが史実である、としか言いようがない)


その場で教示を聴いていた小五郎、久坂玄瑞、高杉晋三らも、異口同音、教示に共感し、授業後、これら三人の塾生は途次(みちすがら)徒党(ととう)を組みながら、肩に風を切って、闊歩していった。

「吉田先生が云う『天下は一人の天下なり』の『一人』っていうのは天皇のことらしいぜ」と久坂が口火を切った。

が、小五郎は「そうかな?……先ず手順からして国を治めるのは天皇としておいても、いずれ天下は国民ひとり一人のモノと解釈すればいいじゃんか」とRT(retweet)した。

「いや、強国になるには一国をリードするリーダがいなければ到底、列強強国のようにはなれない。だから天皇の下に平等に集って国のために尽くすようになるんじゃ」と高杉の口がほえた。

これに対し、小五郎は各人に反論して「国家は国民の共有であって、天皇や幕府の君主がその国民に支えられて存在するという考え方をすれば、天皇は幕府であって何ら変わらないのであって『国民が無い』。ということにならないか」と説いた。

小五郎はさらに「ところで」と言いかけた口を挟んできた久坂は「小五郎さん、留学をして見聞を広めたそうですが、してみてどうだった? わしは『この際、日本国のために、日本を訪れてくる外国の使者は切るべし』と思っている」と口火を切り、小五郎が久坂グループを一層強化するためにシンパに加わるようにと熱弁を(そそ)った。

すると高杉と久坂の意見は「オ―! 賛成じゃ! わしもでっかい顔して日本をほっつき歩く外国人は片っ端(かたっぱし)から切り捨ててしまえばいい」と同調した。

さらに高杉は、久坂が吉田松陰から聞いた話……吉田からの三度目の返信に書かれていたことであるが「あなたが外国の使いを斬ろうと空論と思っていたのは間違いだった。今から米使を斬るようにつとめてほしい」。と一同は「先生だって言ってるくらいだから日本人なら誰でもそう思うはずだよ」と更にカッカッ唸る。

しかしゝ、小五郎は付け加えたくなる、「政治・宗教・野球の話はするな」「するなら女の話がいいぞ」「いやいや、今は、慎重に!日本国の力をたくわえるとき! 来る時が来たら『やる!』から」と持論を説いてみたくなったが……その場の空気でその気が失せた――活火山のようなっていた久坂と高杉に対し、これ以上の論を吹っ掛けても猛火中の蒸気を巻き上げるだけで聞く耳を持たないと察したからであった。


何故、気に食わない事があると人は、思いつきで、いや、衝動的に、相手の人間を殺してしまうのだろうか。 

答えは単純明快。短絡。――加熱過ぎて通じる筈の電気がショートして通電しなくなる。――だからです。

歴史がそう()えるている、織田信長・秀吉・家康・大東亜帝国ニッポン・ナチス、そして、自分の胃に添わない者を敵視する(ヤカラ)、皆此然り。ああやーだ。


どの者もチャンバラ活劇が好きだからだよ(大河ドラマのように。偉人伝より血沸くチャンバラよ。これがヤポンの国民性なんや。あーあやーだぁ!やーだーぁ!!)。

ゲーム感覚に侵されているから。という者もいる。

短絡とは、出来事を見て直ぐ結論を急ぐことです。

出来事と結論との間に『知恵』という余裕は無いのだろうか? 『急ぐ結論に至る前にもっと有益な効果がある』を考えるほうがどれだけ、後々、得をすることになるか。

短絡とは、知恵の無い者のことである。短気なことです。……切れる奴に碌な奴はいない……切れ易い奴に立派な者が今まで一人でもいただろうか(信長・秀吉・東条・麻生・安倍・山口組・イジメ親や家族はどうなった……)。

電線なら、いったん焼け切れたら二本の線が二度と繋がることはない。

電気のショートは火花を発して断線する、すると以後に直したとしても復複(またまた)断線し易くなる(* 「ヘッブ則」理論曰く)。


(* 事象を経験した記憶すなわちニューロン間の接合部であるシナプスにおいて、シナプス前ニューロンの繰り返し発火によってシナプス後は、ニューロンに発火が起こると、そのシナプスの伝達効率が以前よりも増強され易くなる。また逆に、発火が長期間起こらないと、そのシナプスの伝達効率は減退即ち忘却或いは認知症になるという心理学&医学知見理論である。何故って?脳も筋肉だから。――筋肉は健全なことに役立たねば――鍛えないといずれ転び骨折して……)


他方、こんな話を耳にすることもある。言語不一致な行動をする奴のことだ。

行動癖は、すぐ目の前の事象に同調し易くなり。理性は後回し。この不合理な心理の典型は……。

丸川男女共同参画担当(…………云々)大臣である以上、ジェンダー推進の旗振りのはずが、自民党内でいまだ固執し「『結婚上姓別不一致の反対グループ』に積極的に参画(結婚上、女性は男性の付属品か?)したという頭は人格を疑うと云わざる得ない」……これが東大出か?嘘だろ、ホントの偏差値はゼロにちがいない。ま、これは云い過ぎだとしても……広義には短絡族って言わざるを得ない。

そかそか!偏差値は教養でのはない。単なる暗記(機械的な丸覚え)――暗記したことを喋るだけで実を伴わない。教養は人柄(人としての品格)じゃ。国の施策を担う者ほど教養を擁すべきなのだが……“喋り上手な者がもてはやせる時代” vs. “いえいえ、人柄を擁する社会”……どちらが民は幸せになれるか?


当時の日本人の多くの気質がいかに短絡的であったか(米国・ロシア・中国・北朝鮮のどの民族よりも短気)、それは言い過ぎだろ、いえいえ実際に起きた事件を今改めて列記してみよう。

1857年、血眼になって、ハリスの襲撃を計画。が、目的を果たせなかった「ハリス襲撃未遂事件」

1859年、横浜の波止場近くで突然数人の武装した日本人に襲われた「ロシア海軍軍人殺害事件」

1859年、「フランス領事館従僕殺害事件」

1860年、イギリス公使オールコック付きの通訳小林伝吉が、江戸のイギリス公使館の門前に立っているところを2人の侍に背後から刺されて殺害された「日本人通訳殺害事件」

1860年、オランダ商船の船長、ヴェッセル・デ=フォスとナニング・デッケルの2名が横浜の街路上で何者かに襲われ斬殺された「オランダ人船長殺害事件」。この殺害事件に関し、イギリス・オランダ・フランスの三国が共同して、被害者1名につき2万5千ドルの賠償金を日本に要求している。結局幕府はオランダに1,700両を支払い、これが日本の外国に対する賠償金支払いの初例となった。

1862年、横浜近くの生麦村付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列一向の前を横切った騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した「生麦事件」

1863年、品川御殿山は景勝の地で江戸市民の行楽地に、各国公使はここに公使館を建設することを要求した。国内からは猛反対が起きたが、結局幕府は列国の要求を呑んだ。新英国公使館は 1862年8月から品川御殿山に建設が開始され、12月にはほぼ完成していた。長州藩士高杉晋作は、優柔不断な幕府に攘夷を決行せざるをえないようにするため、イギリス公使館の焼打ちを計画したが深夜、厳重な警戒を突破して建築中のイギリス公使館に潜入、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)らが焼玉を使ってこれに放火した。幕府は犯人が長州藩関係者と目星をつけたにもかかわらず、何ら処罰的な行動を起こそうとはしなかった英国公使館焼打ちをした「英国公使館焼き討ち事件」。


……以上は一部であって挙げれば切りがない。まさにテロ横行社会そのものであった。なんと短絡的であった事か。平たく言えば、《切れ易かった》。

気質(性質)は生まれ持ってのモノ。その後の性格で容易には変えられない。と、相反し、小五郎(後の木戸孝允)のいう性格つまり人柄を物語る話が際立って残る。

それを、大隈重信(内閣総理大臣をつとめた政治家。早稲田大学の創設者である教育者)に代表する話をそのまま記すと。

「木戸(桂小五郎)は正直真面目な人であって、雄弁滔々、奇才縦横であるが、併しなかなか誠実な人であった。(中略)木戸は洒々落々とした所があって、思ったことは何でも喋舌ると云う風であるから、大久保の沈黙とは正反対である。木戸は詩も作れば歌も詠む、風流韻事(自然を友とし、詩歌をつくって優雅に遊ぶこと。風流な遊びのこと)は(すこぶ)る長じて居って、遊ぶとも騒ぐとも好きで陽気であった」「木戸について最も感心なことは、(中略)実に条理整然として、大義名分の立った感服すべき議論である」「我輩が敬服すべき政治家は一に木戸公、(中略)」「木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。木戸は自動的の人なり。大久保は他動的の人なり。木戸は慧敏(けいびん)(知恵があって気が利くこと)闊達の人なり。大久保は沈黙重厚の人なり。もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、大久保は保守主義を奉ずる者なり。(中略)」

この話のように、他者の証言ほど客観的な事実はない。


では、そのように天と地ほどに分け隔てるものとは、いったい何なんだろう。

気質(遺伝子)です。遺伝子は変えられない。変えられる。――私たちの人生を根本から変えるエピジェネティクスに拠って。――後成説(こうせいせつ)では、生物の発生に関する仮説ではあるが、卵には幼生や胚の元になる構造が初めからあるのではなく、その人の経験則によって次第に作り上げられるもの。じゃーあ!良き行動をしなくちゃ!ハイ。

佳き経験則(好きシナプス(脳神経回路)を育む事)とは高学歴でも教養でもない。じゃ、教養とは?専門的な知識や特定の職業に限定されやすい精神を、広く学問、芸術、宗教などを全面的に発達させ、調和的人間になるこった。しかしこれは理想(机上の空論)であって、「一般教養」に過ぎない。

やはりシナプスを育む気質は、生まれ持ってのモノだけあって、その後の人生の大半を占めてしまう……気質を改めたければ、不断の努力を以て、性格を正していくようにするしかない。好かれる性格はモテるぜよ。

ここに、木戸と大久保が交え、ひとつの話が1890年代帝国議会で行われた。

大久保は「この際、台湾を、そして朝鮮も日本国の植民地として組み入れた方がよいが……」と重々しく木戸に問う。

木戸は「それが日本と台湾や朝鮮との双方ためになることですか? 双方にとって有益ならば……」と木で鼻をくくったように、されど明るい顔つきを装って、応える(ってやんでぇ、万事が暗いわ。暗い性格だけあって考え方まで暗いぞ! この覇権主義者(め!))。

大久保は「…………」(木戸さんは相変わらず、さすが。明快にして明解である。が、政治はきれいごとでは進まん。日本を豊かにするだけで精一杯なんじゃ。これにしかニッポンコクを豊かにする道はないのだ)。実際、大久保ら一派はその二国を植民地化したのである(大久保は当初、西郷の前では「植民地化反対」と唱えておきながら西郷の最期を待って豹変し「植民地政策賛成」。西郷抹殺は彼を悪者に陥れるための政治策(方便)であった)。

互いに白と黒の性格。議会内外の周囲の者たちも、明るい(好感を与える)木戸に対して暗い(重々しい)大久保との評価で一致していた。しかし、木戸は病気が悪化し、43歳で亡くなる。寿命において木戸が大久保より先に亡くなっていなければ、日本の政治は大きく様変わりした。ちなみに、亡くなった翌年に大久保もこの世を47歳で亡くなった。木戸は畳の上で明治天皇をはじめ、天皇自らの訪問は初であったが、多くの見舞客に見守られながら息を引き取った。が、しかし、大久保は、政府のやり方に不満を抱いていた族たちによって、独り路上において憂国の士らによって暗殺されてしまった。


ときに思う、人心懐疑を。平和不穏な事柄(時期)ほど的中してしまう。


ここでも、世情は天と地がひっくり返る騒動真っ只中なフェーズに陥り候。と申す者あり。

1862年高杉晋作は、幕府貿易視察団に加わり清国上海に渡り、ヨーロッパの半殖民地と化した街を見て衝撃を受けた。そこで1863年6月下関を外国艦から防備するため奇兵隊を結成決意。

そして併せるようについに、久坂玄瑞らは1863年と1864年に下関で関門海峡を通過中の外国艦船に対し下関戦争をおっ(ぱじ)めた。

結果は予想した通り。惨敗。英米仏蘭4カ国の新式銃・大砲……110ポンドアームストロング砲、40ポンドアームストロング砲、カロネード砲等はどれも長州のより性能が雲泥の差……「サムライ」はなんの役にも立たなかった。コテンパンに打ち負かされた。

悔しーい!小五郎の手はブルブル震え――「今は、学び、力を蓄え、欧米強国の文明を盗んでやる! いつか必ず追い付き、それ以上の国になってみせるぞ!」

これは同時に、小五郎の心意気・冷静さ・見識の高さを知らしめることになって、藩の皆が一目置くようになったのである。

高杉晋作はじめ伊藤博文や西郷隆盛らにも好影響を及ぼすことになっていく。その兆候は既に芽生えていた。十代の時、藩校から親試(言葉じゃなく、実際に藩主の前で“難解な思想問題”をやって見せる試験)を施され、2度も褒賞を得たのである。流石、毛利元就 (もうりもとなり)の直系子孫だけはある。いやいやそれ以上、天才としか言いようがない。

小五郎、17歳の時、萩の藩校・明倫館で吉田松陰20才と出会う。『立志尚特異りっしはとくいをとうとぶ(志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない』等々と説く吉田松陰に学んでいく。

「今は力を貯えるとき!」と小五郎に気付かされた見識は、他者と共に、その後の日本を大きく変えることに繋がっていく。「敵を知り己を知れば百戦あやうからず」これを地で施した小五郎。

1854年の二度目の黒船来訪から9年後の1863年3月、欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行!という基本方針が長州藩“開明派”(より優れていると判断した欧米文化の情勢収集を優先的に行うべしと主張するグループ)と、東洋的な道義国家像を理想とする「国粋派」の2大勢力で争われていた。しかし、開明派の中核をなしていた小五郎らの上層部の働きが勝って「欧米文化の情報収集」が決定。

この数カ月後の5月8日、「善は急げ」とばかりに、小五郎はさっそく長州藩から英国への秘密留学生が横浜から出帆する。この秘密留学生5名は他に、井上馨、伊藤博文、山尾庸三、井上勝、遠藤謹助らであるが、藩の裕福な公費の元に一緒に送り出されていった。


しかし後に小五郎は「人と異なることを恐れてはならない」とした吉田松陰に違和感を感じ始める。何が何でも「人と異なることなら何でも『恐れずにやる』」は些か見勝手である――そうか、そうか、そん程度かよ! 佳き思想家と言われてる看板が泣くぜ」……『覇権主義』的傾向の強い松陰の思想と気づく。

この思想はその後の日本を幾度か『窮地に陥れる』ことになった。

覇権とは、外交や政策で他国を説き伏せて、経済・領地・思想等を奪うことである。

どのような思考であるか? 松陰が直接云った言葉は――文語体なので意訳しなおすと「北海道の開拓、沖縄の日本領化、朝鮮の日本への属国化、清領だった満洲や台湾・フィリピン・ロシア帝国領のカムチャツカ半島やオホーツク海沿岸といった太平洋北東部沿岸からユーラシア大陸内陸部にかけての国々全てを領有せよ」という主旨であった。なんと無謀な思想主か、右翼以上である。

このような松陰をいまだに信仰してる現政治家たちが怖い。防ぐのには良識派に我々は加わるべき、どう加わる?簡単!良識を以て声を挙げ続けばいいのだよ。


吉田松陰が主宰した松下村塾であるが、ここの出身者の何人かが――高杉晋作、伊藤博文(初代総理)、品川弥二郎(内務大臣)、山県有朋(第3代/第9代総理。元帥陸軍大将)、そして大久保利通(初代内務卿……実質上の首相)までがその主意に染まって――明治維新後に政府の中心で活躍したため、この松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を及ぼすことになった。

これに留まらずこの考え方は昭和の太平洋戦争にまで引き継がれる誘因となり、多大な悪影響を、国民や政治家らに及ぼすことになった、今現在令和においても引き継ぐ者――政治家らが居るではないか……「強引は『強盗』と同じぜよ!


――だが今現在でも、それは覇権ではなかったという中枢(ちゅうすう)(国家繁栄のための中心となる大切なところ)論者がなんと多い事か。韓国だって同意のうえで大東亜共栄圏を作ろうと賛成していたのだから決して植民地化したのではない!と国会でも、著名大学教授まで、更には読売新聞始めマスコミを代表する編集主幹者に至る程までに、言い出している。

何故韓国民や中国民全員に対し「韓国語・中国語禁止!日本語を話せ!全ての社会営業上の契約は日本語で記せ!」と法律(条例)を決め押し付けたのか?この押し付けこそが、植民そのものという。

ナチスそっくり、フランスに進軍したドイツは学校でもフランス人児童はフランス語禁止、ドイツ語で話せと強要したではないか。これは間違いだったと戦後すぐにドイツは悔い改めたが、日本は今以って妙な言い訳に終始している、何やら恐ろしい国民性(遺伝子)である。

またいつかどこかで世界大戦を起こさなければよいのだが……。

いつの日か、北方四島を力を以てしてでも奪い返す!と大義名分を挙げたらどうなる?元々の先住民たちに返すのが筋ではないか。徳川幕府も当時その列島はアイヌ人たちの領地だと認めていたのを武力を以て植民地化したのは誰だ?明治政府を牛耳っていた岩倉具視ら大久保一派ではないか!*沖縄然りである。

もう少し広い視野で日本の行く先を考えられないのだろうか。今尚、国会議員の多くが日本国固有の領土だ!と主張して(はばか)らない。一抹の不安が過ぎってしまう……。

覇権とは「権力を以て他者を制する」という意味です。覇権のあるとこ、民主主義が育つことはない、と小五郎は見てとった(しかし国営放送NHK(大河ドラマ)は、偉人h張本人は、例え半数ないし一部であったとしても、国民全体となって動く(影響を制す))。――


(* 領土問題は、人類誕生以来、|血で血を洗う《悪事に悪事をもって対処す》(“血で血を争う”は、直木賞・芥川賞作家らすら、誤用の由)歴史の繰り返しであった――今もなお――進歩してない、疎か、それ以上に人類の血を吐き捨てている。

ところで。

沖縄・北海道・北方四島・竹島は、日本の国土だろうか?……是は是/非は非。と、非は認めた上で「誰でもが納得しうる幸せに繋がる新領土案」を出せばイイが……。


歴史が見た真実は。

倭国と日本が呼ばれていた以前、いやそれ以前、未だ倭国には人々が住む以前より、気候温暖・豊かな海洋・育んで来た穏やかな気質などが相まって中国地方と友好的な行き来の許に皆が、日本とは違って、平和を尊ぶ暮らしをしていた――対し、倭国は、コミティができると、途端に、戦の連続が始まっていた。


605年 「琉球」名が初めて中国史に表れる。

このとき、日本は「貝塚時代」。


12世紀 琉球は、中国の皇帝へ弟の泰期を派遣し、貢物を治めたことにより、中国との交易が認められた。このときより、中国を足がかりに琉球の大交易時代が幕を開け、東南アジア一帯で一番の栄えた国家となった。


1842年 今まで干渉されたことのなかったが、この時期になり初めて、倭国(日本)の干渉が頻発するようになる。

すると、琉球の民は一斉に「琉球王国建立」を宣言。


1872年 薩摩藩に略奪され、日本の「琉球藩」にされる。

旧支配層が以前から友好国であった清に亡命し、琉球王国の再建運動を起こす。


1879年 廃藩置県により範を廃し、「沖縄県」を設置される。

しかし2022年の今でさえ、沖縄庶民はいまだに、日本を「本土とは言わず『内地』即ち『外の地』と呼んでいる。

この根拠となった事情が公文書(手紙)に遺って――後の総理大臣である伊藤博文内務卿が、1979年10月8日付で初代沖縄県令の鍋島直彬(なべしまなおよし)に送った文書で、内務省用箋が使用され――「沖縄県当局は新県政に抵抗する琉球の旧士族ら100人余を一斉に逮捕・拷問し、承服させた」。

「政治と領土」は、諸刃の刃である)


小五郎29才の時、この若さで京都留守役に就く。……重職である、年長者をさて置き任じられる。いや、彼の並外れた有能さを見込まれ、藩から頼まれるように推挙されたのだった。

留守居とは、藩主が京都藩邸にいない場合に藩邸の守護にあたって、朝廷と幕閣の動静把握、幕府から示される様々な法令の入手や解釈の――幕府に提出する上書の作成等々を行う、一流商社に例えれば29歳にして常務か総支社長を任されたような――看板職である。


仕事はキッチリやる。

遊びもシッカリする。

ウイットは長け、唄も嗜んでいた。こうなると女性みながガチ放っておかない。イチバンは、やはり、見た眼であった。……今日日の恋愛模様と真実(まったく)同じ……「中身に惚れたのよ」は後付けの話であって、「美系には誰しも勝てないよ」。

女性から甘い顔を見せられると、もうーぉ!ダメ、口説いてる、「これは男のマナーだーい!」と。これが小五郎の日頃の真の姿、モットーとなっていた。……「仕事をちゃんとしてれば、いいんだよ」と言って(はばか)らなかった。さすが、こわっぱ! いや、流石、熱気盛んなモテ期。

今日も1日の仕事を終え、三本木という花街をフラフラ闊歩する。

ハッ!と目に付いた美人。舞妓をしていた幾松19歳であった。

「きれいーィイ!」

「あらぁ!?」

「あったりめえよ」

「お世辞でしょ。小五郎さんの方こそ男前! モテるしょ」

「いやいや、それほどじゃありません。彼氏は?」

「或る豪商の殿方が身請けをお約束して下さいまして……かんにんなぁ」

「そりゃーあ! いかん!」

「あら? なんでどすか?」

「私の方が、想いが深いからーァ!」

「…………」一息吸うと、「うちでかまへん?」とついにそう云わせた、ほほ笑む頬が(あか)い。天然チークであった。

小五郎も(あか)い顔になる。二人とも、お酒のせいだ!? が、恋は理屈じゃない、感性だ! やがて赤い糸で結ばれていくのであった。


人は、集団生活をするようになって有史以来、繰り返されてきたものが二つある。

イクサ(命を張る奪い合う)と、(気に入ったという情)である。

時代ごとの考え方によって戦争の違法性が認定されてきた。

と、頭では不可(いけない)とわかっていても、ヒトの気持ちはキレてしまう(感情に流されてしまう)

愛はというと、理屈はナッシング、好きなものは好き、嫌なものはイヤ、素のままに生きる本能が楽。

「ねーぇ、うちのこと好き?」

「そんなこと訊くなよ……好きだから口説いたんだろ」

「じゃあ、うちのことが好きなら聞いて!イクサしないって!?」

「国家のために戦うことが、特に武士ならあるやろ」

「うん、わかるけど……小五郎じゃない戦争はしないよ、いや、絶対しないから」

「う? 違法じゃなく正しい戦争ってあるの?」

「なんだぁ、ムズいことを(イクサ)ほど愚かなものはないとの心境に近付いたの――「誰もが生まれつきの敵であったり、友であったわけではない。戦も友も自分が人々とどう接するかで生まれるだ」。この考え方は彼のモットーとなって実社会で活かされていくのだった、民主主義に勝る価値はないという心の軌跡となって(《愛が、人を、生き方を、動かす》。これに勝る愛は無い――本物の美人だ。vs. メイクに誤魔化されるな)

幾松と出逢ってからイチャイチャな日々、小五郎31才であった。が、大事件を被る。

「禁門の変」の首謀者として幕府から指名手配された。『犯人を我らに突き出せ!』 vs.「(小五郎)も高杉晋作も、その折の戦いで、死んでおります」と長州藩は必死な言い訳に追いやられた。云った以上、身を隠し逃げ回るしかなかった。「やってられねー!」と小五郎はため息をつく――「三十六計逃げるに如かず」――後の征服のための屈服よ。逃ぐるが豪の者の奥の手や。走着瞧(ピンイン)(今に見てろ)!……そして、中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力が、攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企て…クーデターが起きるだろうと予測し、先にこちらの方が行うクーデター……に因って既に京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵していたのであった。

バチッバチッ!

京都市中に火の手が挙がる。

市街戦を繰り広げた事件となった。

京都市中至る所、戦火により約3万戸が焼失する程の太平の世を揺るがす大事件勃発。

大砲も投入された激しい戦闘の末、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させられることになった。

一方、長州掃討の主力を削いだ一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は幕府側によって牛耳られていった。変革とは、こうも目紛(めぐ)るしいものよ。――


小五郎31才になっていた。いまさら放浪かよ、仕方ない、主家毛利家出の直目付役職に就いていた長井雅楽、他家老三名は腹を切ったのだから……それに比べ、私は生かされ「…………」。

誰しも窮地に陥らない者はいない。が、同時に行う事は、どうチャンスに活かすべきか!と自らに問い直し、逃げないぞ! 隠れて目一杯走り周ってやる、幕府の動静を(しっか)り探ってやるぞ!

夜風は今日も吹く都――京都。――自棄(やけ)に今宵の風は冷える。

()、「待たれよ! お主、桂小五郎殿では!?」

振り返ると、近藤勇であった、相変わらず四角形な顔して。

二人は既知の間柄。

小五郎が江戸に留学していたときだった。

近藤は、天然理心流、これは木刀型稽古が中心で、竹刀剣道には強くなかったが、いざ真剣になると殺気を伴って、正面から素早く大刀する刀剣術である。

一方、小五郎は、神道無念流といって、狙いを定めると深く息を吐く間に剣を振る一刀必殺(対し、四大人斬りで有名を博した中村半次郎の示現流から派生した薬丸兼陳やくまるけんちんは息を溜めた瞬間に切り込む、これでは威圧(殺気息)が相手に伝わらない。この間隙に一瞬スキが出てしまう、相手に気合負けとなる……)の居合抜刀術の下に一刀で、鞘から抜き放つ動作で目にも止まらない一撃必殺を加える剣術(これを真似たのが、当時流行っていた千葉周作の「北辰一刀流」であった)。

その頃、小五郎は練兵館で修業をして免許皆伝となっていたことから塾頭になっていた。このことから、様々な道場から呼ばれ、現に一度、小五郎は近藤勇と木刀を交えたことがあって……偶々出会った二人、殺気漂い、切る寒風……、そうか、小五郎が覚えているということは、近藤勇もだろう。

()! スーッ! と、空気を裂く音!近藤勇の大刀! 次の瞬間、近藤勇の裾が前身頃・後ろ身頃共に奥深くまで切れていた。

「待て!逃げるな! 男らしく相対さず逃げる臆病者()!」

「逃げではない! 後の倍返しのための鋭気やし! 近藤殿、たやすく命を使うなーよー。藩のためじゃなく、国のために使いやー!」と、去りゆく小五郎を近藤勇は、他隊員も同様に恐ろしくなって追う事に二の足、「彼と真正面から交えると負ける。恐ろし!」……「あの瞬間、小五郎が本気だったら、裾どころではなかった、今頃は片腕一本切り落とされていた」……「今度こそ、必ず、捕まえてやる!(ガタッガタッ;;;;)」

その後、近藤勇は小五郎に極端に慎重にならざるを得なくなっていた。

長州らの勢力は、会津藩と薩摩藩による連合作戦「八月十八日の政変」で失脚し、朝廷の公武合体派が主流となっていた京都。しかし、長州・土佐らの尊王攘夷派は勢力挽回を図るため、活動を活発化させていた。

頃は()の刻。

午後10時を中心とした2時間であるが、既に内偵で「長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士が勢力奪回のための会合を、夜間京都で以前よりも頻繁に繰り返している」との報を受けていた新撰組。毎夜、京都市内の警備・捜索を強化していた。

その中、御所に火をつける、という垂れ込み情報が新選組に届く。

この怪情報の二日後、「確かに今!池田屋旅館に集合している!」との京都見廻組(京都専従の治安維持組織)配下の者から知らせを得た新選組側は、その場に近藤と永倉ら計5名しかいなった。

それでも腕に自信があった近藤らは踏み込んだ――入り込むや否や、旅館帳場に預けて置いた長州勢全員7名の刀を隠し、二階と一階の真っ暗な部屋の中に居たのは7名対五名、壮絶な切り合いとなった。聞きつけた土方隊がやがてそこへ到着した。これにより戦局は一挙に新選組有利に傾く。

しかしその後、近藤勇らは夜が明けるまでその場の建物に隠れ留まった。もし長州らが聞きつけやって来ると夜陰に紛れて、小五郎がその中に居たら、返り討ちに遭って殺られてしまう!?と恐れたからであった。


――何ゆえに「返り討ちの恐れ」に至ったか。……些か似たり寄ったりな話にフィードバック。

「理(政治家素養タイプ)」の桂、「狂(猪突猛進型」の高杉、対照的だった二人の生い立ち。

高杉晋作は戦術家としては天才的な才能を発揮しており、桂は政治家として各々の力を注いでいた。

対照的な二人の彼らの生い立ちに触れる。

高杉晋作の実家は毛利元就の時代から続く毛利家家臣の家柄。

でも病弱でガリガリ君でかなりコンプレックスを抱えていた。

そこで晋作は病弱なガリガリのコンプレックスを無くすため、剣術を習って体を鍛える。

こうしてコンプレックスから脱出した晋作は吉田松陰と出会った事で、学問に打ち込んでいくことになるが、ここで晋作に更に大きな力を吹き込んだのが桂小五郎であった。小五郎の明察力と政治力に漏れたのである。

桂小五郎と高杉晋作の共通点は共に「毛利元就一族出身者」同士であったことは、云わずとも、親近感を増していく。

近藤勇は、政治力・剣術ともに備えた小五郎情報を既に聞き及んでおり、この場になり恐れていたわけである。――


これよりずっと後の慶応4(1868)年4月に近藤昌宜()は、捕らえられ、同月25日処刑される。そのとき、本名は断固黙秘、変名を用い大久保剛と告げた。(男らしく堂々と名を直おらない臆病者は、どっちがでしょうね?)

その時「首は()ねられたか?」と小五郎は側近に捕えていたときの近藤について訊いた。「そぅう かぁあ……」と応えると後は黙りこくってしまう。

「なんのための剣だったのか? 剣道を解かってない、剣術を剣道と勘違いしてる。憂国の士と言うなら、使う道を間違えた、活かす道に気づいてほしかった、あぁ、無駄死にしたなぁ……」と独り言い捨てた。近藤勇はチャンスを見逃した。共に国を憂いていた点で同じだったからだ。が、手段は天と地ほどの隔たりであった。男の生きる道は天に登る生き方をせにゃいかんのだよ。男とは、田+力なり。田は、実りとなるように耕す地。力は、実(實)(みのる)ように力を注ぐ Being Aable。この田+力のどちらが欠けても男という文字にはならない、天どころか地に埋もれ朽ちてしまう、只の生き物であってはいかんぜよ。……そのような種が蒔かれてこそ実を育む畑となり実を付ける……“男は種、女は畑”也。


政情を探るため潜伏していた小五郎。逃げなかった、きつかった、狼狽(うるたえ)えなかった、が心折れてはいかん、やり返さねば! 京都に潜りつづけ、同藩の同士に様々な情報を伝えていた。


辛さ一辺倒ではなかった。癒されることもあって。橋の下でおにぎりを受けとる小五郎。幾松から……。

だけではなかった。

場合場合で、長州藩御用達の商人の下女、桂小五郎と深い関係にもあった女性。時には、更に同士の妹が食べ物や着替えを届けてくれて、その子とも恋をした。

恋は、純情なもの、夢中になる、その人だけが全ての世界になる、万事は欲のせい。イーですね、素のままに生けれて。とんでもない! これは願望である。

リアは、もっと現時的で、生々しいモノ。いったい浮気をしない御仁が何処に居られるだろうか?

バレると怖いから、しない。

する相手が、いない。

モテないから、チャンスが無い。

ハマると狂うからー。

そんなんじゃ、死ぬぜよ――「ゆとり」を以て! ガツガツ、ド真剣、に恋をすると、冗談の一つも言えない顔つきになる――相手からは「つまんないの!」と関心を削がれる。

幾松と正式に結婚した後も、小五郎の女癖の悪さは治らなかった。

「外で浮気は仕様(しょう)がないとしても、今度は子を生ませただろ、馬鹿!――それと、うちの妹にだけは手を出すな!」

「わかってる! ちゃんとその子の行く末はしてあるから! 松子と結婚した以上(幾松から松子に改名)、妹さんには手を出さんよ!」。

「いいもーん。うちだって浮気してやるから」

実際、小五郎が岩倉使節団と一緒に欧米を訪問している間に、松子は若い歌舞伎役者と浮気をしていた(史実記より)。

「不思議、それでも夫婦って心が離れないなんて……」

「うん、うちもそう思う……」

ふたりは、妻になって、夫になり、一個の人と成る、一人の男となり、一人の女となって、生涯を添い遂げた。『愛は一生。恋はその時だけ……クレージーに一途になるが!、時限』は十代まで。大人になったら、一生恋だけじゃやってけんのよ! 「生きがい」を互いのうちに見っけられた者だけが生涯やってけるのさ!――この「生きがい」ってのを「愛!」とゆんじゃ!

さすが終始一徹、これこそ日本魂お二人さん武士――松子の出生は、父は若狭小浜藩士・木崎市兵衛、母は三方郡神子浦の医師・細川益庵とした銘家の娘であった――道理で一本、筋が通ってるわけだ。……いや、商人の娘、八百屋お七、だって一本筋は通っていた。江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい!会いた~い~い!そっだ!火を付けたら出てくる、逢えるわ~!恋心一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたが小説得意のフィクション(架空)じゃ。Nevertheless!《それにかかわらず》当時、庶民からは絶大な人気を博した。って事は、皆んなには、事恋に関して、一本も十本も一途心を貫いていたって事ら。そだ!そだ!だから江戸人口は、当時の世界都市でも稀、100万人を超えたんだ(エロ小説浮世草子、井原西鶴のせいだ)。


当時の隣国清の状況――清朝が、あの「眠れる獅子」と世界に威風堂々とした姿いま何処(いずこ)、清朝帝が黒船軍団に乗らられる。このニュースは日本にも入って来ていた。

鎖国中でも例外的に交易をしていたオランダ・清・朝鮮半島の商船員が長崎に入港した折に、日本の幕府に伝えられ、西洋諸国の軍事力が東洋に比して、圧倒的に優勢であると。

1840年から2年間にわたり行われた英国の清に対するアヘン戦争によって、清国内は、荒廃、人々もアヘン中毒一辺倒・死傷者は増える一方、奴隷化した国民たち――乱用は徐々に、精神的、身体的依存性、慢性中毒症状、脱力感、倦怠感を感じるようになって、やがて精神錯乱を伴いながら国民の多くが衰弱状態に陥る、……庶民も国家も死に至っていった。成功裏に至ったのは、唯々金儲けに成功した西欧諸国だけだった。ゲッ。

ショック!「対岸の火事」と遠目現物では済まなかった。そのうち日本もやられる、と危機感を募らせていた。速やかな国体の変革が急務!と声高に躍起になる者が日本国内に増え始めてくる。


国家荒廃の兆しは既に侵掠(しんりゃく)していた――「どの革命の元凶も『貧富落差』どえ!」。

清朝は18世紀末には貧富の差の拡大から*“農民の不満”が一気に強まっていた。


(* 彼の文化文明の開祖であったローマ帝国崩壊も貧富の差が招いた。徳川幕府崩壊も貧富の差が遠因となり。また一般庶民の間の隔絶感(見捨てられ感)(**paternalism=パターナリズム)助長も……現米国・ロシア・中国、そして日本もいずれ然り、学ぶことになる……)


(** 強い立場を利用して、弱い立場にある者の利益を探し、このためだとして本人の意志はお構いなく干渉・支援を以て善人ぶることをいう。なお、paterとは、家族主義・家父長制をいい、patronizeというのがあって、「子供扱いをする」「馬鹿にする」の意である。この複合語が「パターナリズム」です)


白蓮教徒、農民の貧しさは宗教団体である弥勒菩薩(みろくぼさつ)が救済してくれると貧民一同が起こした農民反乱、の闘争などの農民反乱が頻発し、社会に矛盾が渦巻いていた。

一方、ヨーロッパでは産業革命によって物の生産が急激に過剰となり、売る必要があった、ヨーロッパ中に売ってもまだ在庫は増える一方であった。所構わず売れる国々なら何処へでも乗り込んで金銭を得ることに躍起となっていく。いつの時代も産業革命は、人々に対し、また社会に対し技術革新をもたした資本主義経済体制下に「膨大な財」すなわち「資本」を貯える。ここまでは素晴らしい。しかし、副作用伴を伴い、過剰となった農村人口を都市が吸収して「労働力」を安価に酷使するという諸刃の刃(一方では非常に役に立つが、他方では大きな害を与える危険もあるもの)を有する運命を(はら)んでいる。

更にヤバイことには、イギリス東インド会社は1773年に、麻薬であるベンガルアヘンの専売権を獲得しており、顧客数多大な中国へ組織的にアヘン売り込みを開始。北京政府はアヘン貿易を禁止していたが、地方の中国人アヘン商人が官憲を買収して取り締まりを免れつつ密貿易に応じたため、アヘン貿易は急激に拡大していく一方だった。1823年にはアヘンがインド綿花に代わって中国向け輸出の最大の商品となっていく。

18世紀代の清の人口数は既に約2億7千万人を超えていた。イギリスはせいぜい600万人そこそこであった。

そこまで小国であったイギリスは脅してアジアに大量に売りつけることに成功する、戦力と狡賢さのお陰であった。白人ほど狡賢い民族はいない、いや、どの民族もだ、いやいや、人に因るのだよ。

イギリスやフランスはイチャモンをつけ、イギリス船籍のアロー号の中国人船員を清朝官兵が逮捕した理由を(こしら)え清に戦争の口実を与えたのであった(アヘン戦争突破への託言(かごと)(誰にも解かる《見え透いた言い訳》であった)。覇権とは、こゆもん!力が正義を押しつぶす……真の現民主主義の(かお)らー!


――徳川家康ソックリ。

慶長19年(1614)4月16日、京都の方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」という(ふた)文言が鋳造された。この文言に徳川家康がいちゃもんをつけ「家康の名を切り離し、豊臣は君とした、俺を馬鹿にしてる」、大坂冬の陣へと発展させた鐘です。が、しかしもう少し深読みすると「言いがかり」と片づけられるのだが。

というのも、この文章を書いたのは南禅寺の長老で豊臣氏と繋がりが深かった文英清韓という僧で、そこの弁明によると、「家康」「豊臣」というのは「隠し題」であるという。清韓は敢えて「家康」「豊臣」という名を入れて、その威光が現われることを願った。

しかし、この弁明に立ち会った京都五山の僧たちは、別の点で清韓を非難していた。それは、「家康」という諱を使っていることです。当時は、貴人を実名では呼ばず、例えば家康であれば「内府」など、官職で呼ぶのが常識であった。にもかかわらず、清韓は鐘銘文にこの「隠し題」に加えて「右僕射源朝臣家康公」とも刻んでおり、そこを追及されていたのであった(意味としては単に「右大臣源朝臣家康公」というものである)。――


戦によって困窮するのは、武士ではない、庶民である。

清朝の民衆は、例えば、太平天国の乱……1851年に清を倒すために中国のキリスト教徒が中心となって起こした大反乱で、最大時には南京を含む中国の南半分を占領するほどの勢いを持った大反乱であった……累々を引き起こしていくようになるが……『清朝は自国民を守るどころか真逆に外国軍隊も動員して自国民を鎮圧』してしまう――清政府のこの振る舞いは結果、国民の見方のはずが、『自ら国民の首を絞めしまう、自らの政府を弱体化へと()り立ててゆくのであった』。

国を預かる者よ、よーく聴け!どの政府も瓦解(がかい)するのは、革命の種を蒔き散らしたときぜよ!

誰が言ってる?異口同音!歴史が語ってる。


だから、日本に黒船がやって来たとき、人々は、驚き、威圧感に狼狽え、不安になり、戦々恐々となった(一部の者は!大半は“興味津々”に湧いた。これが真実だ)。この一部が、厄介、いや、国を動かす機会(切っ掛け)になり、短絡的なテロに奔る者までが頻発しはじめた。

ところが、深刻極まり危機感まで抱き始めた者たちが現れ、幕府であり、有力諸藩であって、識者であり、就中(なかんずく)(特に)憂国の志士達の心中を動揺させた。

中には、長州の桂小五郎であったり、土佐の中岡慎太郎も含まれ。次第に、類は類を呼ぶ事態に至ってゆく。

中岡慎太郎は1863年、小五郎が京都留守役をしていた頃、自らが所属して土佐藩を、尊王攘夷活動(君主を尊び、外敵を斥けようとする思想)に対する大弾圧が及ぶのを避けるため、急遽(きゅうきよ)脱藩する。土佐藩から命を奪われる一歩手前であった。

中岡はそのような身の危険を回避するため、すでに1862年、類を呼んだ長州藩の久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高めていた経緯から、長州藩に亡命することにしたのであった。

ところが間もなくすると土佐藩は豹変。

小五郎らが被った八月十八日の政変「倒幕をし、天皇を中心した新たな政治体制を作るために京都に集まった長州藩を幕府が武力を以て追い出す」とした声明――土佐藩内でも尊王攘夷活動「徳川幕府を排し、天皇を君主とした新しい国家体制を作る活動」は強く影響を及ぼし、活発化するにつけ、土佐藩の尊王攘夷活動に対しシンパ(共鳴者)する思想が始まる――「(土佐藩主 山内容堂)うう……『勝ち馬に乗るにはどちらがえぇかのぉ??』……小五郎とは馬は合うしのー。しかも長州藩は金持ち!だな!とりま、勢いのある薩長に付くか」。


「風雲急を告げる」時ほど、勝ち馬レース者は現る――これが世情――世の習い(an ordinary person.いや、common sense.いえいえ、これが人情か)である。

佐久間象山もレースに参戦していた――この頃、その者の評価について小五郎はこんな話を耳にしていた。

「(勝海舟)佐久間象山は物識りだったよ。見識・学問を博し雄弁であった。しかし、どうも法螺(ほら)吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当らしめたらどうだろうか……。何とも保障がつかない。顔つきからして既に一種奇妙なのに、平生緞子(どんす)(テカテカ光って高級感のある)の羽織に古代模様の袴をはいて、如何にも俺は天下の師だというように、厳然と構えこんで、元来覇気の強いおとこだから、漢学者が来ると洋学を以て威しつけ、洋学者が来ると漢学を以て威しつけ、一寸書生が尋ねてきても、直きに叱り飛ばすという風でどうも始末にいけなかったよ」

高杉晋作も「あれは一個の法螺吹(ほらふ)きだ」。

ね!だから、エバルと、たとえ実力があったとしても、(ろく)なことはないのだよ(TV雑誌で似たような振る舞いを吐露する政治家・弁護士・識者をみるにつけ同類同種は――勿体ないと唯々呆れてしまう――同人が気付いていないだけに残念。エバルった御つりは斯くの如しになるもんよ……「人の振り見て我が振り直せ」と(おし)らえる思い)。


当時、長州には全国から尊王攘夷派諸士が集結、行き交う衆でごった返していた。中岡慎太郎は同じ境遇の脱藩志士らのための(まと)め役を任され。

そこに小五郎も居て、中岡慎太郎は小五郎の建設的な見識は()ろか知遇(人格・識見を見抜いた上での厚い待遇)に触れることになった。 

そこで、中岡慎太郎は、この小五郎なら成せる!と、逢って話して、即行判断。

既に、倒幕を成功させるためには一藩では弱い、長州と薩摩の二藩が同盟を結んでこそ実現度は高まる!と画策する。

中岡は小五郎宛に決意の程の手紙を出す。

内容は1865年8月6日付け(ことば)に、「僕の心に決めた事は、先生(桂小五郎、を指す)が疑おうが、諸隊が疑おうが、長州みんなが疑おうが、天下万民が疑おうが、死を覚悟して決めた事、(中略)少しも揺るぎはしない決意です」と(したた)めた。文面主意は『薩長同盟以外に倒幕は不可能、すなわち、薩長同盟こそが新しい時代を興す力』旨となっている。

ちなみに、坂本竜馬は中岡慎太郎の物真似芝居であった。『薩長同盟こそが新しい時代を興す礎』と最初に唱えたのは中岡慎太郎であって、史実足る所以(ゆえん)(いわれ)になる(時代考証者!TVコメンテイター歴史学者!どうした?)。

小五郎は言葉を以て「もし、この所見が実現していなかったら、新しい時代は来なかった、ずっと遅れていた、幕藩体制はつづいた。何よりは、清朝のように植民地化されるのは時間の問題だった。中岡の考察力と予見力が明治時代の礎を拓いたのである」と(いた)く感心した。

ところが、中岡慎太郎は近江屋事件に遭い、江戸時代末期の1867年12月10日に江戸幕府の組織である京都見廻組によって殺害されてしまう。これに触れ、板垣退助は「世間で名高くなっている坂本龍馬よりは、優れていたかと私は思っている。中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸と肩を並べて参議(日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つ)になるだけの人格を備えていた」と中岡を絶賛している。

史実をごっちゃ混ぜにするのが物語なんだよ。その張本人が文化勲章s作家の「竜馬がゆく」なんだよね……面白おかしいaniのは結構、『物語本』なら。しかし!(しか)し!一般大衆に向け、《史実を曲げ、恰もこれが事実ですという捏造を信じ込ませる》ような『小説』はどうかと思うけどねぇ……(銭の為なら、k何でもかんでも、嘘であっても(こしら)えるってことか!ゲッ)。


中岡は小五郎と熱く語って。

「先生!諸藩は一粒一粒の雪であって、形ある雪だるまになることはない、それどころか溶けて無くなる。しかし、集まれば山をも崩す大きな(かたまり)になります」

「先生はやめてください。中岡さん、うまい喩えを言いますね、まったく同感です。しかし、……」 

「桂さん、『しかし』何ですか? 新式銃で勝てる!」

「だね!中岡さんの仰る通り。幕府の火器とは雲泥の差。エンフィールド銃は飛距離が2倍行くから確かに強大な武器となる」

「幕府もその銃を購入すればどうなりますか? 少しでも早く、できるだけ多くを、その武器を手にした方の勝ちです。桂さんの藩は財力も多いので!」

「禁門の際の戦で、どれだけ多くの同士が薩摩軍に殺されたか……この亡き者たちへ義理があるんでその意味からしてもその銃を少しでもたくさん購入しておきたい」

「わかります。もし、あの時、薩摩が後から出てこなかったら勝っていた。よーく分かります。しかし、このまま幕府に牛耳られたまま死んだ者たちは()かぶでしょうか? この者たちのためにも新式銃で来るべき(かたき)をとってくださいよ」

だが、小五郎は「志士には、男には、誇りが、意地っていう厄介なものが……ある!」との持論に固守した。

すると慎太郎は「実は、西郷さーは、長州が本機(ほんき)(真の機根を有する人や事物。仏語)なら『組んでいきたい。が、問題は桂さーです、桂さんは気が強いじゃけん』と、そして『薩摩が長州の兵たちを殺してしまったという今までの経緯(いきさつ)より、新しき世じゃ!』と腹をくくっていますので!……」という西郷の心情を小五郎に中岡は丁寧に説いてみた。

折れた小五郎。

唸った、「広い視野で見ることぞ」と言いのけ、「木を見て森を見ず」かぁと合点す。

これが薩長同盟へ至った経緯である。真相を知ると、意外や、簡潔な事、シンプルな理由であった。


片や苦悶する西郷どん、「ぅうーん、はて?はて? どうしたものか?」と先程来から、右に行ったり左に行ったりノソノソ部屋を、熊さんのように、歩きまわる。藩内には「そうだ!」 「いや!」と皆の意見は区々(マチマチ)に別れていった。

薩摩藩からしてみると、はたして長州は薩摩を信用してくれるだろうか? かりに長州藩と一戦を交えたとしても、膨大なお金がかかって藩一国の国力が衰えるのは目に見えてくる。

薩摩藩の中には「日本のため!外国の脅威から守るため!と夫々(おのおの)喧々諤々(けんけんがくがく)、しかし幕府を倒して新しい仕組みをつくるしかない」と倒幕を進める動きもあったが、いくら国力があったとはいえ、薩摩藩だけでは……。――負けるかもしれない。倒幕を進めれば、相手(幕府)の術中(薩摩藩か長州藩だけの1か国なら勝算は幕府側にありと算段していた)にハマるだけ。

これが、薩摩藩の事情であった。


他方、長州藩にも事情があった、いや、藩存続の危機に瀕していた。

すでに全国の諸藩は、両藩の成り行きをじっと見守っていた――強い方に付こうと。

長州藩は当初から、攘夷(天皇を中心に据えて、外敵を斥けようとする思想)を掲げ倒幕運動を展開していた。そのような長州藩を潰せば世間に力を誇示できる、と考えた徳川幕府側。

そこで、各藩に長州討伐を命じ、長州藩を追い込んでいった。その役回りの先方を薩摩藩に押し付けたのが史実である。――「俗伝」は史料が伝えるものであるが「言い伝えを記しただけの都合(史料)」であって、真実つまり史実と思い込んでしまうのが大衆心理。


明治維新を戦で勝ち取ったのは、薩長の資金力(カネ。次に、出会いのタイミング)だ。大義名分は後から付いてきたことよ。――この喩えは。有志以来、今日も、戦争だろうが、仕事でも、栄達は無論の事、征服に成功した者たちの本音となっている(ようだ。真偽は、本音を漏らそうとする者がいないので)。


長州藩は朝敵(天皇の敵)とされているため、武器の購入は厳しく監視されていた。

そこで、長州は利用――薩摩藩を介して火類武器の大量購入に成功。当然薩摩もその新式武器で国防力を増していった。だから、金なのです。戦の勝利は財力なのだ。これ即ちタイミングに適った人との出会い。敵に劣る財力が無ければ兵を集めて動かすことも、武器の購入も、できなかったのだから。

これには薩摩の思惑があって、ビッグなビジネスができ、国が潤う。同時に、幕府に対する軍事力において二藩が一体となれば軍事力は飛躍的に増すことになる、しかも、新式火類のため、たとえ兵員数が劣っていたとしても、勝算は十分にある。と小五郎がかつて力説していたことだったが、西郷はじめ薩摩の各志士たちも賛同する方向へと空気は徐々に傾いていった。

後になって、西郷は桂を「君子不器(くんしふき)(優れた人物は、一つのことだけでなく、様々なことに通用する才能を持ち合わせている)」なる志士、と評している。このことから、西郷は桂から多大な影響を受けていたことが十分に伺える。

只只漫然と幕府のやりたいように座視して濛々(もうもう)と従っているだけは馬鹿者がやるこっちゃ! 勝算も考えずに悶々(もんもん)と自らの意志を決めないでいる奴の頭は何処にあるか? 頭は使うためにあるんじゃ、使わない奴は阿呆のやるこっちゃ! 意志がなければ行動が発生することは無い、『意志あるとこ道は開く』。


「ぅう……、んん……、まったくーう!――どうしたもんか?」 

「あなたらしくていいわ」 

「えっ!?幾松。俺らしくって?」 

「いつも慎重に事を進める(あた)りのあなたのことよ」  

「そーかーぁー、でもいつまで経っても答が出んのじゃ」と小五郎が再び茶を啜ると幾松はその器に茶を注ぎながら「女みたい!」  

「なぬ!?」  

「だってそうでしょ、男って女より感情的に為り易い動物だし」  

「どゆー意味?」  

「小五郎さんは違うけど(幾松は愛想笑いをしながら)、殿方の感情って腕力を伴うから始末に負えないってこと」  

「なるほー! (わか)った!決めた!当たって砕けろだわー」

この頃、「是非長州に戻ってほしい! 長州は今こそ、桂(小五郎)さんの力を必要としてる」と同士の勧めと、藩からの要請に応じていた小五郎は長州の別藩邸に居たときだった。或る小部屋、VIP扱い!での小五郎と幾松の男女の睦言であった、いや、きわめて筋の通った会話である。

女を下に見てはイカンのじゃ! 男はどれだけ女から助けてもらってるか! 知恵を、勇気を、授かっているではないか! 授かってない? それは愛を授けてもらってないからだよハッハハハハ! 欲望と愛はちゃうぞケラケラケラ!


薩摩藩は理屈では分かっているが、時偶(ときたま)どうしても感情論が頭をもたげてきていた。薩摩は公武合体(朝廷と幕府及び諸藩らを結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策論)を主張してる以上、幕府の開国路線を支持しつつも幕政改革を求めていた。

これに対し、長州藩は、一切幕府と話し合うこと無しに、破約攘夷論(不平等条約を一方的に押し付けられたのであるから破棄しようとする論法「その元である幕府を退治!」という姿勢)を奉じていた。

さらに厄介なことには、この二藩が感情的になっていたことである。

薩摩は禁門の変の折に会津藩と協力し長州藩勢力を京都政界から追い出した(八月十八日の政変)、後から上京し出兵してきた薩摩は長州藩兵と戦火を交え、多くの者を殺害し、敗走させる(禁門の変)に至ったことから、両者の多情多恨は決定的に敵対関係に陥っていた。

何でしょうね? 頭では理性的なことを口にしておきながら、国家栄華を成すか否かの瀬戸際になると――一世一代の大望の前に、女々(めめ)しい感情論となっていたのでしょうか。(「やはり男性の方が感情的動物」という人の謂うことはホントだったのだろう)「…………」。

「こりゃーあ! いかんぜよ!」と陸援隊(武力討幕のための武力集団)を率いていた土佐藩の脱藩浪人である中岡新太郎が立つ。この陸援隊は長く懐に温めていた構想であって、当時よく交流を求めてきた坂本竜馬はこの構想を聞き知るにつけ、サッと素早く真似て海援隊(政治・武力集団ではなく「商社」)を組織したのだが、中岡慎太郎と小五郎らの斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において薩長の会談が進められた。

しかし、薩長同盟の話し合いは、今度も(また)失敗した。

だが、何とかしなくては!と双方共考え、そして、考えまくり。

西郷も「なんとかせんな!」「じゃっどん、どげんしたやよかど?」……身近で見ていた小松帯刀は「まるで『どこに食い物があるか彷徨(うろつ)く熊さんのケツ』のようだ」。

破たんは一瞬、50年信頼関係にあったとしても一日の一分一秒の裏切りで信頼はカンペキに壊れる。だからね、「信頼」は人の関係の証。キーワード(キーストーン)――土台が軟弱であって何の建物が建つっかてんだい。

人対人で一番大切なんだよねぇ。これができてない者は「人」に非ず、唯の「人間動物さ」……いえいえ、動物間にも信頼関係はあるのだから、動物以下ってこっちゃ!――


西郷も、悩み、考え抜いていた。金銭的に潤っている裕福な長州藩は幕府にとって危険。だから、幕府は潰そうと躍起になっている。ということはそのうち、やはり金銭的に潤っていた薩摩藩もいずれ狙われる。「どげんしたでか?」 「どうしたもんか?……」と。

ついに西郷は意を決した。とりま会ってみようとなる、が、しかし、中岡慎太郎は土佐藩の土方楠左右衛門(第一次長州征討の際には三条らと共に九州に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力。馬関・山口県の下関)における桂小五郎と西郷隆盛の会談を周旋し、馬関における小五郎と西郷隆盛の会談が実現するが、今回も復復(またまた)頓挫、西郷は直前にドタキャンする羽目に陥った。

その後も周囲の説得は並大抵ではなかった。再び小五郎と中岡慎太郎による強い説得もあって(この二人の熱意が無かったなら――もし彼ら多くの不断の仲介努力がなかったなら、明治維新が実現することはなかった)、今度は薩摩藩の小松帯刀邸で桂小五郎と西郷隆盛は会うことになる。ところが今回は意外や、すでに妙な(わだかま)りは薄れていて、話がトントン拍子に進むことになった。

会談の仲介者は坂本竜馬である、という話が何処の本を読んでも(まか)り通っている。ドッコイ!これは真っ赤な嘘である。

小説「竜馬がゆく」という昭和生まれの小説家sによって作られたフィクションです――新聞記者時代の杵柄(きねづか)(調査活動)があったのなら、もう少し丁寧に取材(史実)を推敲してほしかった……いやいや小説家は、売れるための娯楽作品としたかったのよ。

ちな(後学のため)、既にこれより前、1863年は明治4年、徳富蘇峰(とくとみそほう)は、明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリストであったが、思想家、歴史家、評論家であったことから、『國民新聞』を主宰し、大著『近世日本国民史』を昭和4年に著した。その著で「中岡慎太郎の時勢論」として小五郎を「土佐の勤王」で「長州桂小五郎は『有識有略あり』と述べ、さらに『兵に臨んで不迷』 『機を見て動き』」と評している。

どこにも坂本竜馬が同種同様な活躍を為したとは一言も出ていない(史実である「国立国会図書館デジタルコレクション識別子info:ndljp/pid/1176204」をご参照下さい)。

直木賞、菊池寛賞他等々をs氏が受賞したからといって、真実を書いていたと思い込んではいかん(出版会社も「儲かればいい」主義だからね)――それはそれで娯楽と考えればいいのだが、人の多くはついホントの話とみてしまうところが厄介なのである。デマの始まりだ。作者らは一義的には、売れればイイんだよと思ってるのが本当のところ。文学的価値まではいかなくても儲かる第一主義な商売屋さんになりつつあるのがナウな文壇世界――いずれ淘汰して忘れ去られてゆく、人は真実を求める(たち)だからね。

「歴史は実際に起きた事実を教える。歴史は実際に起きた記録事である」というのは小学4年生までの脳テストであった――歴史は記録ではない、推測ないし推定の場合を事実と報じてしまう場合が多々ある。今少し正確に云うなら、過去の事実から、今を、未来を、示唆する(教える)のが「歴史」の意義の本懐なのである。

時代を、革命を、動かした人物は、この事実は、実は、ほんの一握りから始まった事を成した人が歴史を動かしたのです。その一握りの事象を大きく膨らませた話が事実とは掛け離れた偽の事象へと変貌されがちになって、いつの間にか「これが歴史!」と解してしまうところに潜みがある。これが歴史書の危うさだ。

歴史の一つだけを見る近視眼にとらわれずに、「歴史の大きな流れを捉える」ことに意を注いで考察していくと違った発見があるのだよ。――


明治維新国家を新しく興す直接行動した人物は、桂小五郎と中岡慎太郎じゃ。このひと握り者から幾千幾十万人もの実践行動隊が現れたのだ。と、今一歩深読みし、推定するしか他に譬え様がない。

「幕藩体制を廃止し、広く会議を興し万人の元で国体を栄えるべし」と二人が多くの者たちに唱えていたことからこそ、ふたりが三人・五人が百人――五万人へと同調者は増えつづけていった。が、(しか)し、口で唱えた者は殆どで、行動までは伴わない人物が数知れずであった……後は、行動したとしても、二人に影響され動いた人たちに過ぎない……西郷隆盛、高杉晋作、大久保利通、徳川慶喜、島津久光、徳川斉昭、朝廷、等々らの面々も次第にその二人からの感化を強く受けるようになって往った。

事の始まりは、最初に黒船を見たとき「これからは外国に学ばなきゃだめじゃ!」が第一声であった(直接黒船を見てない者たちには感慨はそれ程ではなかったはず)。自らが留学したかったが当時藩内はごちゃごちゃしていて取り合えずは直ぐに!と高杉晋作や伊藤博文らのイギリス留学生を送り出した。彼らからの情報は小五郎に計り知れない貴重な事柄をもたらすことになった(参照:国利国会図書館オンラインへのリンク、書誌ID000000710630)。

小五郎は久しく温めていた持論を発し、慶応4年(1868年)3月14日に布告された五箇条の御誓文において、木戸孝允(小五郎)として福岡孝弟の当初案から、第一条の「日本人は世界人となって、大いに国民的基盤を整備しなければならない(知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ)」を第五条の最後の行に持って来て、明治維新の最重要課題を国民全員に印象付けることに成功す。

また、明治4年、保守的な弾正台(律令制――中央集権的な統治制度で行われた政治体制)の下の太政官制に基づき設置された、監察・治安維持など主要な業務が廃止された時、開明派(より優れていると判断した情勢を積極的に収集)であった木戸孝允(小五郎)を始め、伊藤博文、井上馨、大隈重信らの行動や私生活を内偵した文書が発見され、大隈らはその文書を押収することが出来た「独り我輩が敬服すべき政治家は、一に木戸公(小五郎)、いずれも日本における偉大な人物、否な日本のみならず、世界的大偉人として尊敬すべき人物である」と明記・激賛している。

これと同じ評価を為したのが福沢諭吉であった。

大隈も福沢も当初は有能な政治家として活躍をしていたが、余りにも不条理な政治にうんざりして、これからは先ず人を創らなけらば国家は栄えないと後の早稲田大学・慶應義塾大学を創設したのである。このひと握りの者がその後出る出る私学が。やはり最初に興した人物はほんの数名から起きるのです。この者こそが真に歴史を動かした立役者なのであった。


その辺を以下に羅列し、直直ただただ時系列を以て追ってみると、事実は何処にあったのか!(まこと)が見え隠れします。

薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允つまり通称名桂小五郎が6か条の同盟を締結した。

世に云う「薩長同盟」である。軍事機密条約ともいう。他の薩摩側出席者は大久保利通、島津藩家老の伊勢貞昌らという両雄キーマンとなる人物の同席であった。

明治維新を導いた人物は、西郷だ!高杉晋作だ!坂本竜馬だ!岩倉具視だ!大久保利通だ!(多くの書物によればこれが史実の定番になっているが、はて?そうだろうか)。

それとも幕府の役人でありながら倒幕に対して理解と協力を惜しまなかった勝海舟か。 

勝海舟は長州藩による外国船砲撃への幕府や諸藩の報復を抑えるため説得に動いた。しかし、上層部は採用せず長州藩への制裁は実行され、下関戦争が発生してしまう。

また海舟が公議政体論の具体化として期待していた参預会議、これは朝廷の任命による数人の有力大名から構成された合議制会議だが、一橋慶喜の策動で解体される。だが一応幕府から評価されいた海舟は軍艦奉行に昇格、神戸海軍操練所も設置された、しかしその裏で海舟の政治構想はことごとく潰されていった。

勝海舟は、幕府の政策に対し、そして日本の未来に関し、不満と不安を抱くようになる。この捌け口が、薩長の軍事行動を容認するように繋がっていった一旦となる。ぶっちゃけ、薩長軍事同盟を応援した強力者の一員の形となった。

海舟が軍艦奉行の役職にいることから、もし海舟が本気で薩長を潰そうと行動していたなら、そう容易く薩長は倒幕を実現できなかったはず(歴史学者の通説。

海舟の人となりを表す言葉が残っている「行いは俺のもの、批判は他人のもの。私の知れた事ではない」「島国の人間は、どこも同じことで、とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。それもひっきょう、度量が狭くって、思慮に余裕がないからのことだよ」と謂う(本文より)。 

いや、この人物だ! いやいや、人物ではない、吉田松陰の思想だ! 財力に勝った方の力のお陰だ! フィクションを活用したんだ! 等等と多くの人々は其々に信じているようである。

ここでいうフィクションとは、偽の天皇の文書、つまり、天皇の命令である「勅書(ちょくしょ)」を勝手に偽造した薩長である。フィクションの中身は、悪く言えばフェイクニュースと五十歩百歩なのだ。

行動部隊であり、先見の明に秀でた眼力の主であり、頭脳明晰であったり、の桂小五郎を評する者は少ない。

このように行動せず云うだけの受け売り者は、「導いた人物だった」とは容易に言い難い。

凡人は得てして、自分のできることを行動せず、できもしないことをペラペラ吹聴(ふいちょう)》する。

行動が必ずしも果実を(もたら)すとは限らないが、行動して地に栄えた所に*果実は成るものよ。


(* 果実とは。「ゲルマン法で採用。ローマ法・ドイツ民法で採用。そして民法88条1項」の意)


フィクションとは作り話です、勝手に縦横無尽に話を面白おかしく*拵えるのがフィクションです。これに大好きな筆頭は「作家あげくは小説家」です。なので、いくらベストセラーだからって中身を鵜呑みしてはいかんのだよ。


(* 仕組んだように作り上げる)


むろん自由自在に物語を創った作品は楽しめるのだが、「嘘」ほど楽しいものもないということを頭の隅っこに入れておこう。

書物が売れるためなら、少しでも博識者に見えるように、或いは、(あたか)真実(まこと)であるかの如く、「嘘」や「盗作」はへっちゃらになるのである(シェックスピアの二次作品である「ハムレット」や「ロミオとジュリエット」のように……原作は別人つまり他作家の真似である)。作家yさんは『花のれん』で直木賞を受賞したことを皮切りに『白い巨塔』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』『沈まぬ太陽』など著作はすべてベストセラーとなった。ところが、そっくりな文章が所々に多く散見され、松本清張氏は「もはや引用ではなく『盗作』と言わざるをえない」とかつて評した。y氏の反論は「秘書に任せていたので」であった……では、任せた本人には「*使用者責任はないのか」。


(* 使用者責任は、ある事業のために他人を使用する(使用者)が、被用者がその事業の執行について第三者に損害を加えた場合にそれを賠償しなければならないとする使用者の不法行為責任のことをいう――民法第715条第1項。なお、使用者に代わって事業を監督する者も使用者としての責任を負うとされている――民法第715条第2項――文学賞審査員および出版社。一番の被害者は?そ!本人の独創と信じた読者である)


尚(上述掲記*につき。本当の博学者(実力者)とは、《能ある鷹は爪を隠す》ように、出しゃばらないことよ)


どこにもシェイクスピアもどきな者は居るもんだ。

えっ!? あの文豪が! うそつけ! と思うでしょ。

真実はこうです。と多くの有識者並びに教授たちは、次のように、云っています。

実例を挙げると、シェイクスピアの40本近い作品のうちのほとんどが戯曲でその元となる種本があった、創作ではなかった、二次作品なのよ。

「ロミオとジュリエット」もイタリアの作家の作品と瓜二つである(イタリアの作家パンデッロ)。

ダメっしょ! 他人の作品をパクッておいて「創作」だと主張するのは――「盗作」の云い間違えっしょ。

何故「二次作品」と正直に云えなのでしょう? 

「自分は偉い!」と言ってもらいたいからよ。

他にも、いくらでもフィクションが「本当のことだ!」とまかり通っている例は他にもあります。

世界一の信者衆20億人のイエス・キリストの話もそうである。

「キリストは本当に神だったのか? そのような人物が本当にかつて存在したのか?」とバートランド・ラッセル(Bertrand Russell。1872年生まれ、1970年97歳で死去。語録のひとつに『不幸な人間は、いつも自分が不幸であるということを自慢しているものです』)という彼は、世界的に著名な知識人であり、哲学者、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家、挙句はイギリス首相にもなったが、神の存在に関しては痛烈な疑問を呈した。

当然、世界中の宗教界はじめ様々なところから一斉に反論が湧き上がったが、どれも、誰も、確たるその根拠を以て反論を示すことはできませんでした。

そもそもイエス・キリストはオシリスやミトラ(神話に登場する神)といった神々の寄せ集めであって、それらはみな神話としてのイエス・キリストと同じような起源をもち、同じような死に方をしていたと論じる学者が圧倒的。

デューラント(1885年11月5日 - 1981年11月7日は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州出身の著作家、歴史家、哲学者)や他の学者達にとって鍵となったのは、時間的要因です。神話や伝説が定着するまでには、数百年という時間がかかります。例えば、ジョージ・ワシントンは決して嘘をつかなかったという話がありますが、嘘です。それが彼の伝説として広まるまでに2世紀かかりました。

今云った「勅書(天皇の命令文書)」もそうであり、坂本竜馬説もしかり。

偽の公文書を作るあたりは、もはや詐欺である。

また、坂本竜馬がつくった海援隊は中岡新太郎が長年構想していた陸援隊をパクッて先に作ったもので(二人は仲良かったというより、金周りの良い竜馬が中岡におごってあげて、薩長他諸藩の商いの具合を探っていたようである)、陸援隊は政治・軍事結社です。海援隊は商社です。歴史上何処にも坂本竜馬が「政治結社」なるものを作った形跡は、形も文書も、まったく見当たらない。

万が一、竜馬が「新しき世、つまり、明治維新」を目指していたとするなら、西郷隆盛が坂本竜馬に対し「新しい世をつくるために参加しては?」と尋ねときに竜馬は「わしは商売をしながら世界を股に生きてみたい」と応えている。

つまり、西郷は坂本を、薩摩藩名義で長州へ武器や軍艦などの兵器などを流す斡旋業として海援隊を利用したのであって、他方、坂本竜馬はその貿易によって、更に高額な宅配代も上乗せプラスして、莫大なマネーを稼ぐことを至上目的として興した貿易会社が海援隊なのである。

この商売一徹の考え方が実行され、後に竜馬の悲惨な運命を決することになったのだが、竜馬所有のいろは丸が紀州和歌山藩所有の明光丸と衝突した事件。竜馬は膨大な数の武器類等、ミニエー銃400丁と銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいた、現在の貨幣価値に換算すれば「164億円(現代の銀行が換算)」にも匹敵する、が沈没したので「賠償せよ!」と交渉巧みに和歌山藩にねじこんだ。(勇気ある!……とんでもない! 大胆不敵な「振り込め詐欺」完了形である)

銃や金塊を積んでいたのは、史上最大の真っ赤な嘘。

後に現在の財団法人京都市埋蔵文化財研究所と京都の水中考古学研究所が、昭和63年から沈没した「いろは丸」の水中調査。平成17年の第4次調査で海中の遺物をほぼ全て収集した。しかし、ミニエー銃はおろか銃のイチ部品さえ見つからなかった。坂本竜馬という人物像は真摯な志士であったのだろうか? それとも商売となるなら非情一徹になれた人物だろうか? 人として、甚大な詐欺を働いて良心が痛むことはなかったのだろうか?……懐疑が消えることは無い。

竜馬の詐欺商売は、彼の友人である小谷耕蔵(幕松の志士、海援隊の仲間)や岩崎弥太郎らによる入り知恵であった。弥太郎も商売大好き人で、後の三菱財閥の創業者である。

なお、竜馬暗殺の犯人は和歌山藩――京都見廻組の治安維持組織の者たちが竜馬を暗殺――と推定される。そりゃーそーだ! 「振り込め詐欺」(まが)いに徳川御三家の和歌山藩全体をおちょくったのだから。

大ウソほど、気づき難い、信じやすい、見栄えがいい、のである。

歴史、政治、小説、そして、おいしい話、に大ウソが付いて回ることを肝に念じておきたいものである。


ウソも通れば(まこと)になる――これが薩長が徳川幕府を倒した勝因のイチ(戊辰戦争での錦の御旗)である。

薩長は徳川政権を賊軍に陥れる為、慶応4(1868))年正月、鳥羽・伏見の戦いにおいて、薩摩藩の本営であった東寺に錦旗が掲げられた、が……。

この錦旗は、「作ったのを誰も見てないんだから、分かりっこねぇ!俺らで作っちゃえ」と大久保利通の画策により、慶応3年10月6日に薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎が、片田舎の愛宕郡岩倉村で貧乏暮らしをしていた中御門経之の別邸で「これお口に合うか、饅頭と現金ですがお納めください」と機嫌を取りながら岩倉具視に委嘱された物であって、さっそく岩倉の腹心玉松操のデザインを元に創り、大久保が京都市中で妾のおゆうを通じて西陣で織らせて大和錦と紅白の緞子を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造し、もう半分は品川が材料を長州に持ち帰って錦旗に仕立てあげた物である。


いずれにしても薩長同盟(策略)の威力は功を奏した。が、一気に倒幕へまでは進まなかった。

薩摩藩内の事情として、薩摩(鹿児島)藩主の島津久光が「一旦国内が戦乱になれば、諸外国のつけ入る(すき)を与え、介入してきて乗っ取られる危険がある」という考えでいた。西郷は島津久光によって、過去に二度も『島流し』遭っていたことから、渋々と従っていた。

これを知った小五郎は焦った。「倒幕できん!……このままじっと座していればいつなんどき幕府の巻き返しが起き、負けるかも!」と質した。

さっそく同じシンパの土佐藩脱藩者の中岡新太郎と共に、島津久光の側近である大久保利通に会うことになる。

大久保利通は182cm以上(その当時の平均身長が157cmのなか)の巨体のせいか? 或いは寡黙(口数少ない)なせいか? 理論家であったことは間違いなさそうであるが――これゆえに、島津久光の側近に取りたてられた者は多いが、しかし、周りの者からしてみれば近寄りがたかった。寡黙とは、「あまり喋らない人の事を指す」の意である。「暗い人!」との印象を拭いされない。

そのような大久保利通自身の人物像を知る彼自身の言葉がある――「彼は彼、我は我でいこうよ」「目的を達成する為には人間対人間のうじうじした関係に沈みこんでいたら物事は進まない。そういうものを振り切って、前に進む」という大久保利通の生の声である。事を成すにつき、冷静に且つ大胆に行う、を身上としていた。「冷静に且つ大胆」とは、「冷淡」の意と五十歩百歩である。「冷淡」とは、「同情や熱意を持たない態度」と国語上の語彙である。いやだねーえー! そんな人が友だちならぁ。

しかし、周囲の目からすれば「冷静」は「冷酷」と映り「大胆」は「独善的(独裁的)」とも受け取れかねない。「何々とんでもない!『独善』はいかんぜよ! 他人のことを考慮せず自分ひとりの考えをよしとし貫くからじゃ!」実際、後になってこれが仇となって落命してしまう。

「小五郎殿のおっしゃることは、よう分かっ! 西郷さーが動かんで!」

「そうですか、一旦は倒幕への方法も止む無しとしていた山内容堂公が、昨今、徳川家擁護の姿勢へ傾斜を深めちゅー!」と中岡新太郎の言葉が終るや否や小五郎は「大久保殿はこのままで新しい世が来るとお思いか? 既に慶喜の反撃が始まっとるんじゃ」

「おっ? ないんこっか?」

「新しい体制下を興したとしても慶喜自身が国を牛耳る策ぜよ。どんな形の体制になろうと慶喜が諮詢機関(天皇を介し自らの意見や政策を行う)になる魂胆やし」

「分かったで! 小五郎殿、あいがと! で、何か策がおありか?」

「ある!ある! 朝廷側、幕府側、薩長側、の三者が一堂に会し、その会議で「政治の主導権を幕府から雄藩連合側(薩長側等)へ奪取するために、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ協力するという約束を取りつければいい。そうすれば会議の上での合意上、島津久光も山内容堂も西郷も皆(おさ)めざるを得ない」

動いた!――皆が動かした! 小五郎の意向に沿って薩長が中心となって1867年5月、京都に四侯会議と銘打った会議を設置す。

四侯会議は八日間続いた、各自が議論した、白熱した、「荒れるときほど脱線す」、そして、合意には至らなかった(失敗の原因を各自各員に相手側のせいにした)>>(「(まと)まる時は速い」。長引く時程まとまらない――「議論の引き戻し」は、話が(主意が)脱線している時。議論の鉄則也)……(短期決戦な恋は実り易い。長引く恋愛が実ることは稀。<<余計(冗長)でしたね)。(《物事を知らない者》ほど、必要以上に話が長く多くなって無駄な話に陥る――此《冗長(じょうちょう)》といふ)

会議の途中から山内容堂が中座した、薩摩と距離を置き始める作戦を執った。

船中八策(せんちゅうはっさく)(新国家体制の基本方針)を聞いた土佐藩の後藤象二郎は、容堂にこの船中八策を進言していた。聞いた容堂は不満タラタラとなった。徳川家存続つまり徳川の権力温存を考えていたからである。そこで容堂は、「薩長両藩が倒幕のための同盟を結んだことに対し、土佐藩と幕府をも加えた雄藩連合の新政権樹立を実現せよ! さもなくば大政奉還はないが、敢えて慶喜が大政奉還(徳川慶喜が天皇に政権を返上した以上、薩長の目指す「敵」はいなくなるという企て)を建白した以上は大政奉還が実行されるべし!」。

「これでは目指す新国家体制は(元手即ち元金)(利子)もなくなる――これじゃ、徳川政権温存のままじゃん!」と一斉に小五郎、西郷、大久保、らは腹が立った、落胆した、なんとかせねば!となる。

戦略の変更を余儀なくされた1867年、小五郎の意を受けた中岡慎太郎の仲介によって、小五郎、西郷、小松帯刀らは土佐藩の討幕派の重鎮・*(板垣)退助、谷干城らと薩土討幕の密約を締結する。この数日後、薩摩藩邸で重臣会議が開かれ、武力討幕に舵を切ることを確認し合った。

もう列侯会議で幕府(慶喜)を牽制するのは不可能だ!と腹をくくり、軍役奉行伊地知正治はこの倒幕の方針を久光に伝え、これに久光も半ば同意せざるを得なかった。

このお墨付きを以て、薩摩藩と小五郎は秘かに大久保利通や岩倉具視と結び、倒幕の密勅降命(偽物)に向け、工作活動をするようになる。特に、小五郎のシンパであった中岡は、大久保と組んで既に討幕を仕組んでいた公卿岩倉具視の手足となって動きまくっていた。


(* 歴史の事象は、人との間に生じた出来事である。ゆえ、人知らずして歴史を語る事憚る也……語る小五郎と中岡慎太郎。

「(中岡慎太郎)退助は短気でのーぉ……若いときから喧嘩の明け暮れる日々で、藩から譴責処分を受ける事が度々あるほどだったが、面倒見が良く、身近な者たちからは“総長”と呼ばれることもあったそうな」

「(小五郎)短気と頭の速さは諸刃の剣じゃけんの」

「(中岡)オ!言えてる。退助の話で頭の良さが伺える話があって、『フランスという国は一言でいうならば非常に野蛮な国家である。表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている。かれらが「天は人の上に人を作らず」と唱える自由と平等は、白色人種にだけ都合の良い自由と平等であると言えまいか。私はこのようなことであっては決してならないと考えるのである。私が維新改革を憤然決起して行った理由は、かの国(フランス)に於ける革命主義の如き思想に出でたるものに非ずして、尊皇主義に徹した結果である。しかるに昨今は、西洋の主義に幻惑してこれを崇拝するが如くあるは、最もその間違いの甚しきものと言わざるを得ず。皆これを見誤ること勿れ』」

「(小五郎)フランスに限らず先進国を自称する国は皆『表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている』と云う点では同感である。諸刃の剣の例として、退助は『朝鮮征伐すべし!』としたことから、是国民は皆挙って『賛成!賛成!我が日本こそ世界に誇る富国なり」と叫ぶ――このような国粋主義者の精神が、日本人の精神的支柱となり、やがて後の太平洋戦争へと導く土台となっていった。片やの剣は、日本人が日本国を衰退(山河荒廃)させる結果になったことを()ってほしい)


倒幕の流れは、富士の山に火の手が上がるが如く、どの各街道も全国津々浦々(つつうらうら)、駆逐の勢いになり、連戦全勝してゆく。

江戸を火の海にして焼き払ってやる! 逆らう藩はことごとくつぶしてやる! その血祭りは徳川慶喜じゃ!と鼻息荒くなっていたのは薩長軍司令官の西郷だった。

それを見、小五郎は、唯々呆気にとられ思ふ、「西郷は、君主にでもなったつもりなのか? 主は西郷殿様にでもなったつもりか、逆らうやつは問答無用と平民までも攻め滅ばすってか? 覇権王者丸出しではないか!(「馬鹿まる出し」と云い掛け)」

この小五郎の心配は勝海舟にも届けられていた。「筆まめ」と世間ではよく云うが、文字通り、面倒がらずによく手紙などを書く人のことをいうが。小五郎はまさにその典型的な人である。

海舟は異口同音!さっそく交渉に当たった。

幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用する。英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせ、さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉県に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにイギリスの最新鋭の火器類でゲリラ掃討戦を仕掛け、江戸の町もろとも、薩長敵軍を殲滅させ、焦土作戦の準備をし、という具合に、西郷勢に決戦を挑むという作戦を描いた。

先の島津斉彬から九州へ幕府に輿入(こしい)ていた篤姫(あつひめ)らの西郷宛ての嘆願は、(ことごと)く馬耳東風にされていた。

しかし、西郷は勝海舟のその話を小耳にはさんだときはさすがに、大久保利通らと共に、ビビった。

その結果、西郷は江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には海舟と会談、江戸城開城の手筈と徳川慶喜らの今後などについての交渉を行う。

結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。

片や、幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が苛烈になるなか、会津藩の中でも戦争を回避しようとする真剣な話し合いが幾度も持たれていた。

追討を命じられていた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟(反維新政府的攻守同盟)を結成して結束を強める。

奥羽十四藩では会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝(飛鳥時代の藤原鎌足を祖とする神別氏族の最後の子孫。昭和天皇の外祖父)に嘆願書を提出し、朝廷へ直接建白を行う(これを「太政官建白書」といふ)が、既に貴族より武士の方が政治を動かす力が強かったので、認められることはなかった。

西郷らにも届けていた、しかし、西郷はどれも握りつぶしていたからでもあった。「なんと非情な仕打ちか!」このとき既に西郷は覇権の権化となっていた。覇権の権化とは、「鬼の形相じゃ!」。

この西郷隆盛の気質に危機を抱き始めていた小五郎は、「明治時代最中の1877年(明治10年)、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱首謀者とした西南戦争が勃発したとき、『このように今まで変わらず行ってきた覇権主義は、今後の新しい時代を築いていく上で混乱と支障と、ついには血と血を流すことは必定ゆえ由々(ゆゆ)しき事態になりかねないという危機感を抱き始めていたということである。彼のような覇権主義思想者は征伐すべし』」と明治政府に進言したのである

「面白可笑しい」、「痛快である」という話には人はひきつけられる、英雄視したがる。が、事実は?真実は一体何処にあったのか?史実は本当であったのか?と、これに限らず何事も一度は立ち止まって考える余裕ってものを持ちたいものである。

もし、西郷が本当に新しい時代を共につくっていきたかったなら、血を流す反乱ではなく、多くの国民たちに賛同(旧士族たちの不満に対する同情心に流されず)を得るような民主主義勢力を盛りたて自らの力を尽くしてほしかったが……。と小五郎は心底で願っていた。現に数回に及んだ小五郎の西郷に対する斯くあるべきとした忠言はことごとく無視されていたのであった。

そもそも民主主義とは何ぞえ? 西郷は考えてみたことがあったのか? まさか勝てば、それが民主主義になると勘違いしていなかっただろうか?

小五郎が描いていた民主主義には二つがあって、「人間の自由を守る一連の原則」であり、且つ、大勢の価値観が区区(まちまち)なことでもあるから「寛容と協力と譲歩といった一人ひとりの価値を先ず何よりも重視する制度であるべき」としたこの二本柱であるべきとしていた。

そもそも、明治政府内において西郷自身の意が省かれた政変時、それこそこれをチャンスに同調者を募る時ぞ!とする努力をしていればよかった。この勢力を元に最大公約数の価値観を生むことができていれば政権内の自らのリードを更に優位に保てていたはずだった。

ところが、意に沿わないとプイっと政権を放り投げ去ってしまった。これは政治家以前のモットー違反でもある。一旦、信託を受けたものは容易く諦めてはいかんき!……「信じて付いて来た恋人はどうなるんだ?」……関係ないっすね(いや、そんなもんだ――ヒトの繋がりとわ)。

「国を良くしたい」或いは「民が一人の人間として自由に権利を行使できる」という政治信念が彼には本当にあったのだろうか。西郷を信じて戦い亡くなった者たちに対し、西郷はどう言い訳をするつもりなのか。一度大望を約束した以上は信念を貫き通してこそ「モットー」というものじゃ。――「座右の銘」の無い者は迎合主義者(ポピュリスト)っち。 

「政争に飽き飽きして、くだらない俗界を去って故郷の畑で人間らしく暮らしていたかった」と擁護する者たちが今も居るが、矛盾が残る。

だとするならば、何故幕府側に敗れた不平不満の元士族らを大勢故郷に受け入れたのか(政府に反旗を繰り出したと誤解されたくなければ、いつでも断って追い返すことができたはず)? 何故故郷に私塾をつくって生徒たちを集めはじめたのか(当然多くの旧士族らが学ぶために当該塾に続々と全国から参集してきた)。それでも話し合おうとしていた明治政府からの再三の使者を、何故都度追い返したのか? その前に先ず、何故政府に直接自らの要望を、不満を、今後の政策等を、実直に伝えようとしなかった、どれも民主主義ルールの基本に反しているではないか。

よって、小五郎は、西郷は「覇権(強い権力願望)」に囚われている政治思想者と気付いたのである。(郷里の英雄であると信じる鹿児島県民は、怒らないでほしい。『国を変えたいという初志』は誰にも負けない誇りを持っていた西郷ドンの精神は生きているのだから。しかし彼は不器用であった。という事にしようではないか)


――「覇権は、民主主義の、何よりも、平和の敵ぞ。喜ぶのは戦争をしたがる族(右翼)だけじゃ」

「誰かが誰かを脅せば、これは覇権になる」……身近なことでいえば「本人からの意思を無視して一方的に、これをしなければ会社はあなたの給料を下げる、左遷する、首にする、これも立派な覇権の形を為している」若しくは「俺の国の物品を買わなければ関税率を一気に上げて輸出で儲ける金稼ぎを抑えてやる、これは個々国家の、個々貿易の、国際ルール上の権利阻害の、平和の、敵ぞ。つまり、民主主義の理念に逸脱した只の覇権主義そのものに他ならない」。

(昔、いち政治家に係わった者の話があります。民主主義とは「全体的な合意に達するには譲歩が必要である」とマハトマ・ガンジーは述べていた。更に「不寛容は、それ自体が暴力の一形態であり、真の民主主義精神の成長にとって障害となる」と力説していた。だから、彼は大英帝国イギリスを向こうに回して、根気よくその主意を繰り返し、ついにその大国は折れてガンジーの言い分を承諾し、インド国の独立に成功したのである。……短絡つまり短気な人には、ムリだーァ)――

 

明治維新が始まった。

薩長土肥――薩摩藩は鹿児島県、長州藩は山口県、土佐藩は高知県、肥前藩は佐賀県と長崎県の一部――の四藩中心に行われた。明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を行い、その範囲は15種に及ぶ。 

中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策の改革・近代化など多岐に亘り。

小五郎はそこへ提案をした。敵側となった多くの幕臣・江戸幕府出身の学者・外交官・軍人など有能な人員を免罪して体制側に大量登用することで、現先進国に向かい近代の体制転換を増強しようと。

西郷隆盛は「倶(中岡慎太郎は)に語るべき一種の人物なり」「節義の士なり」といった。

板垣退助も「世間で名高くなっている*坂本龍馬よりは、ある面で優れていたかと私は思っている。中岡慎太郎という男は立派に西郷、木戸(小五郎)と肩を並べて参議になるだけの人格を備えていた」と(したた)めた。

これは、小五郎だけに留まらず、今は亡き中岡慎太郎の教示が広く人々に痛く染み込んでいたからである。


当時、巷でショッキングな暗殺事件だったけに名高く世間に知られていた坂本龍馬の(はなし)。そして、既に幕末、龍馬を|フィクション小説“汗血千里駒かんけつせんりのこま”の主人公に伸し上げれば売れるだろうと小説家の頼山陽が著した歴史書が売れた。これらを念頭に板垣退助は述べたにすぎない。フィクションは空想の世界。これに飛びついたのが例のs作家が“竜馬がゆく”を執筆したのである。これを事実と信じたのが庶民であった、ついには地元に始まり全国二十か所まで銅像が建つようになっている――恐喝詐欺(いろは丸事件)で164億円もの強盗を働いた者が何故全国に銅像が建つのか解からない。フェイクニュースの空恐(そらおそ)ろしさを()る。


明治維新の諸改革は、新たな制度がうまれるなか、矛盾をいくらか(はら)みながらも、(おおむ)ね成功を収め、短期間のうちに立憲制度を達成し、富国強兵が推進されていった。

その評価は日清戦争・日露戦争における勝利によって飛躍的に高まり、世界中の諸外国からもアメージング・感嘆!驚異!の目で見られるようになる。

特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになって。孫文も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を犬養毅へ送っていた。

一定の成功を収めた例に、政府内も皆も歓喜に酔っていた。が、しかし、ある種の恐れを予感していたのは小五郎であった。

日本は、明治維新によって列強と化したことにより、欧米諸国からはアジア諸国は数少ない植民地にならなかった国となったが、やがて日本自身が列強側の国家として、近隣のアジア諸国に対し帝国主義的な領土・権益獲得を行う立場となって、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国国土の一部に及ぶことになり。……ついに太平洋戦争で二度も人類初の原子爆弾を落とされた。放射線による急性障害が一応おさまったであろうとはいえ、1945年12月末までに、《約50万人が死亡》したと推計されている(重い事実である)。爆心地から1.2キロメートルでは、その日のうちにほぼ50%が死亡してしまっていた。身体中の皮膚を垂れ下げながら……(ヒト(イキモノ)の為す(わざ)ではない)。


これは、かつての吉田松陰が嘱望した覇権主義思想が鎌首(かまくび)(もた)げた、て事だ。

欧米諸国が植民地争奪合戦に躍起になっていた、朝鮮進出然り。自分が先に盗ってやる!と西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮に対し、開国を迫り征韓論を唱えた、庶民も諸手を挙げ拍手喝采した。ところが大久保利通は当初は反対した、しかし後に、自らの政権内勢力を拡大した後は朝鮮征服を積極的な政策に採り上げ実行したのだった。

この経緯は、明治6年当初、欧米視察から帰国した小五郎・岩倉具視・大久保利通らは国内改革が優先事項と主張してこれに反対していた。これでは!と、西郷・副島・後藤・板垣・江藤ら5参議が下野したのち暫くのち派閥同士の力を蓄え、江華島事件が勃発し、大久保の心中(くす)ぶっていた火種は発火し、目論見はこのようにして成功す。

また彼は、清国に対しては明治4年、日清修好条規を結んで琉球藩(元々は中国が実効支配ていた中国領土。現在の“沖縄県”)を置き、明治7年、台湾に出兵した(征台の役)。

次いで明治12年、琉球王国を乗っ取り沖縄県と名称を変更し日本国の領土と設置。ロシアに対しては明治8年に樺太・千島交換条約を結び、樺太をロシア領、千島列島を日本領と定めた。また小笠原諸島・尖閣諸島・竹島も日本の領土とし、日本の膨大な領域を確定する(今尚、今次に於いても燻ぶり続けている――果たして、本当にそれらの地は日本の領土なのだろうか)。


大久保だけではない。西郷が明治政府の名目上の首班である太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書がある。そこには次のような内容が明記されていた。

かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もし、かの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」(なんと立派な脅迫文ではありませんか)

一方では、大久保は「日本を強国にするには、まずは国力の充実が最優先である」と、小五郎の意見に傾いていた。

また、大久保は小五郎の見込みを取り入れて「相手が朝鮮だけならどうにかなるかもしれないが、朝鮮王朝の背後には清国やロシアもいる。それらの大国が朝鮮側について参戦すれば、日本は間違いなく国家存亡の危機に見舞われる」と、この場を収め、その後の侵略に備えるという魂胆でいた。

西郷と大久保の考えは、戦いは避けられないであろうという意見では一致していた。しかし、大久保は、政権内で、西郷よりも自分が采配を取りたかった下心に燃えていた。

また、明治4年に岩倉使節団が出発するとき、使節団(岩倉、大久保など)と留守政府(西郷、板垣など)は「留守政府は、やむをえざる事件以外は改革を一切差し控えるべし」という約束を交わしたが、西郷は学制改革や徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革など、約束を無視して新たな制度を次々と実行に移していった。……政治とは、下心のイクサや。

明治政府が発足して間もない時期だったのでやむをえないとはいえ、この件がきっかけで、大久保は西郷に対して複雑な思いを抱くようになっていた。

しかし当時の大久保は参議ではなかったので、国策を決定する資格がなかった。これを覆すのは容易ではない。そこで、大久保は岩倉具視の助けを借り、大久保を参議の地位に就かせるようにと頼んだ。

こうして西郷と並び立つ立場となった大久保は、明治6年10月14日に開かれた閣議の席でどうにか互角まで持ち込んだが、その後の二人はぎくしゃくとした関係を助長していく結果となる。

しかし、大久保は簡単には引き下がらなかった。「西郷は勝手に戦争をおっぱじめる」と岩倉具視に具申する(頼み込む)

このルール無視の強引な手法で、最終的に西郷は職を辞し、ほかの征韓・遣韓派の参議もこれに続いたのである。これが西郷が下野した真相です。

一方で、明治政府は明治7年に台湾出兵を挙行、翌年には朝鮮半島に軍艦を派遣して武力衝突を起こした(江華島事件)。

朝鮮の領海内を勝手に測量を行い、朝鮮側が砲撃したのを機に衝突を始めた、最終的には日朝修好条規の締結に至ったわけだが、このような大久保の対外政策には、舌の根が乾かぬうちにというどう見ても矛盾としか言いようのない有様であった。

これにはさすがの木戸孝允(小五郎)は、「征韓論を否定しておきながら、台湾に出兵するのは矛盾している」と大久保らに抗議し、政府を一時下野している――しかし直ぐに明治天皇は驚いて、木戸孝允さんは明治政府の要ではないか!居なければ明治は創れない!と、さっそく天皇の計らいで復帰する。


今日。

韓国は「日本は歴史を直視し、新たな視野を以て我が国と向き合ってほしい」vs,「(日本)いまだに過去のことを持ち出し、狭い了見で我が国に接するのは単なる民族主義に生きる古い国である。ルールを守る国になれ!」。

さて、ルール違反はどちらでしょうね……近代文明の始まりである鉄製具を拓いた弥生人の多くは、南方や中国出身ではなく*朝鮮系の方が多数、であったことを()ってほしい。

この二つの国は……「認めるは認める。非は非。是は是。と広い視野を以て、『理解し合う』ことが肝要である。と(したた)めたい。


(* 根拠一 水稲栽培は、朝鮮半島、山東半島から日本にもたらした技術。

根拠二 上述一につき、紀元前6世紀頃には中国で鉄器の使用が始まり、春秋・戦国時代を通じて、鉄製農具の使用は農業生産を著しく高め、やがて紀元前3世紀には秦・漢という強力な統一国家が形成された礎となる。やがて、その影響力は朝鮮半島を経て、日本に波及した折、精錬方法が中国製ではなく朝鮮製精錬技術であったという通説(学者多)――中国人や朝鮮人に対し、殊更日本人は悪口(あっこう)を吐く者が多々居るが恥ずかしい。改めるべし、『()に向いて吐いたツバは己にかかる』) 


明治六年の政変で下野した西郷は明治7年、鹿児島県全域に私学校とその分校を次から次へと増設していった。これを見た西郷と共に下野した不平士族たちは、堕落した明治政府を直すのは本気だな!と思い、多く集まってきていた。若者たちには私学校で待望を興し、来るべき教育者を養成することであった。外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化や戦力の在り方等を取り入れており、なかでも外征を行うための強固な軍隊を創造することを主眼とし来るべき戦力を目指していた。やがてこの力は大勢力へと成長していくだろうと西郷の期待した通り全国から憂国士たちが集合し始めた。


(おのの)いたのは政権中枢に就いていた大久保はじめ岩倉具視らである。

何度か大久保は西郷暗殺の刺客を送ってきたがその都度見破られ駄目と知ると、政府側は征討の(みことのり)(天皇の仰せを書いた宣命文書)を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出す。この大久保ら政府の意向を動かしたのは、先に進言をしていた小五郎であった。あまりにも西郷が覇権主義者と知ったからである。西郷にすれば日本国を強くするためには他国を占領し、その国の人民と資源産物を利用してこそ強国となるとした強固な信念を抱いていた。しかし、小五郎は西郷を殺すことは全く想定していなかった。西郷を捕らえて改心させるのが目的だったのだ。

ところがついに、大久保一派による薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから大久保ら政府の対応の素早い背景には、西郷を殺してしまおうという明確な意思があったことが伺える。

大久保の心情を語った文書が残っています「公は、『……実に遺憾なことだ。しかし、こんなことのありようがない。私が今こうして瞑目して西郷のことを考えてみるに、どうしてもこんなことの起こりようがない。……今でも逢えばすぐ分かるので、逢えばなんでもないのだが、逢えぬので困る』と言われた……」(佐々木克『大久保利通』第三部第三十六項より)。

「なんじゃ!これは! 無二の親友と思っていた西郷を殺してしまうなんて!」

それから数日後「天誅(てんちゅう)じゃ! 西郷どんの恨みじゃ! 死ね!」と暴漢数人に大久保はめった切りに遭う。明治11年1878年5月14日、馬車で皇居へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷にて落命した。大久保が西郷を政敵にしたと大衆が思ったからである。47歳没であった。

しかし、小五郎には、西郷は覇権主であるかぎり国が徒に混乱されると支持する者が多かったため、暴漢によるテロは起きなかった。

余談だが、子孫は、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(第92代内閣総理大臣)、武見敬三(参議院議員)、麻生と安倍は親戚の間柄ら、である。


木戸孝允(小五郎)は明治新政府の、最初にして最高の、ただ一人の*総裁局顧問専任に就任した。天皇や右大臣の岩倉具視からもその人柄や政治的識見の高さを買われ、庶政全般の実質的な最終決定責任者に就いた。


(* 慶応3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古の大号令が発表され、明治維新の政体改革が始められ。摂政・関白を中心とする摂関政治と、征夷大将軍を中心とする旧幕府政治を廃し、新たに「総裁」・「議定」・「参与」の「三職」を設置し、諸事神武創業の昔への復帰なども宣言し、天皇中心の新政府樹立を目指した。『総裁』職は、三職の最高官職であって、「萬機ヲ統ヘ、一切ノ事務ヲ裁決ス」と法定され政務全般を統括する役職を指す)


やはり木戸孝允が居なければ明治政府が目指す国家を作りえないと、天皇をはじめ多くの政府関係者の知悉(ちしつ)することとなる。そりゃーそーだ!明治時代という創成期創を最初から子細面の隅々まで、作り上げたのは小五郎だったからだ。

木戸孝允は、明治元年(1868年)以来、先見の明により数々の建言と政策実行を次から次へと率先して断行し続けた。五箇条の御誓文に始まり、「マスコミの発達推進、封建的風習の廃止、版籍奉還・廃藩置県、人材優先主義、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実、法治主義の確立」等々を提言し、明治政府後以降、これほどまで嶄新(ざんしん)かつ民主的な政策を具現化した政治家はいなかっただろう。

また、「軍人の閣僚への登用禁止、民主的地方警察、公正な裁判制度」など極めて民主主義的な建言を当時行っていた。

「覇権は、そのような政治は、国内を、外国を、両国の人民を、必ず壊すんじゃ!」 「民主主義は、時間はかかるが、一人ひとりが豊かに生きることなんやー!」

再度比して。

大久保利道の子孫に吉田茂がいた、この祖父が武器商人で吉田茂も武器商人のように大掛かりな汚れた(血を以て)大金の裏流通等々の法律違反な造船疑惑を検察に発見されて逮捕直前にいた親戚の佐藤栄作らに対し指揮権発動つまり検察は捜査禁止の発令を以て捜査を封鎖させた。その直系家族に麻生太郎がいるわけで、これら皆と岸信介・弟の佐藤栄作・安倍晋三とは全員が縁戚関係で血筋の一滴を同じくし、共に現在政権を牛耳ってきたし現に執っている。安倍晋三による森友問題、関連していた秘書を遠くに追いやった所為、麻生太郎による部下を自殺に追い込んだ国民の財産であった公文書文書改竄問題等々怪しい事案が山詰めであって、博無くして社会を覇権を以て政治を動かしている人物像の(かた)ちが先々代祖父の大久保利通に重なりし然り、平気で「君は私の心友」と西郷隆盛に直接語った裏で「殺してしまえ」と人の信義に背反、これで一体豊かに活きる政治・政治家であったといえるのか?と表する政治学者やマスコミのなかには少なからず……。


人柄のなせる業であるか、長州人のもつ特性と云えるのか、小五郎はとにかく、書き魔であった、手紙魔である。

吉田松陰も高杉晋作も、ずっと以前の徳川家康もそうであったが、たくさんの手紙を残しているが、小五郎の数にはとても及ばなかった。

『木戸孝允文書』『木戸孝允遺文集』計9冊に収められ、木戸が書いた手紙はなんと2千2百余通にも上る。(国立国会図書館の「永続的識別子info:ndljp/pid/1038118」並びに「タイトル木戸孝允遺文集、をご高覧あれ)


小五郎の手紙の宛て先は、松陰・晋作・周布政之助・来島又兵衛・久坂義助・勝海舟・広沢兵助・前原一誠・伊藤博文・井上馨・大村益次郎・山田顕義・岩倉具視・大久保利通・三条実美・黒田清隆・西郷隆盛・坂本龍馬などなど、幕末維新に登場した人物たちであった。

その全員が畏敬の念を抱いていた。誰も真似できない尊敬の気持ちを具現という形で小五郎を見た。


しかし、いまだに発掘が行われており、新たな真実を、是非!見たいものだ!(思い付きの話に、識に、小説に、騙されるな! 事実を語る資料しか、ホントのホントを語るものは無い)

小五郎の置き文は、民主主義は育てる努力を!――覇権を許すな、政治家の恣意を見逃すな、個人の人権を(ないがし)ろにするな!と遺言は今尚語っている。

…桂小五郎1877年5月26日43歳没。あと数十年生きていてくれたら太平洋戦争は起きなかった。ニッポンは大きく様変わりした社会へと育っていたはず。

こわっぱ赫!赫!燃えた。

ここに小五郎の意志が以心伝心――心あるもには。


小五郎若干十代前半において、今でいう中学生であった、長州藩からの孟子の思想試験の一度目に合格した問題の一つが、『学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ』の設問に対し、『正しい道を歩まずに諦めてしまうのは勿体ない。その本心をどこかへ失くしたときがあって学問の道を外れたと思うなかれ、その見失った本心を探し求めるだけのことなのだ。これ即ち世を正す道然り』と当時、小五郎は明快に、居並ぶ長老たちを唸らせたときの解答であった。人は(ことごと)く天才といったが、博学を修めるゆえの努力に他ならかったこの精進こそが成された意志に学ぶものあり。と今尚博学者たちは感嘆する所以となっている。


「真の知識とは、経験し得るもの」である。

知っていたとしても、行動に移さなければ、それは『知っている』ことにはなりません。


また

小五郎は謂ふ。

人柄を創ってこそ豊かな社会だ。


黒船来航。

嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻は見たことも聞いたこともない図体は唯々恐れをなし、日本に来航。断りもなく艦隊は江戸湾入り口の浦賀沖に停泊し、測量と称して村々を通り江戸湾奥深くまで侵入した。

江戸庶民はおろか全国民は呆気にとられ……。


「戦をすれば、戦は戦を呼び、()ればヤれる、果てしない()となる」と小五郎は唱え、継ぎ「(勝つ)には教育じゃ!『人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行かねば」とした小五郎のうちに希求するようになった時代(とき)は、此の翌年1854年であった。


小五郎と気を通じていた福沢(ふくさわ)諭吉・若干24歳はこの考え方に痛く感銘し、即刻1858年、江戸に学習塾・蘭学塾を興す(後の『慶應義塾』である)。

これを聞き学び、同調した1新島譲は1875年、英学校(後の『同志社校』)を興す。

|連鎖反応を起こし《流れは流れ流れ大河に注ぎ》、大隈重信は1882年、東京専門学校(改め1902年『早稲田校』)を設立。


《善は善を呼ぶ》を実践したのが時代の寵児(じだいのちょうじ)であった小五郎――真の民主主義を――豊かな暮らしを――造るにわ!この礎を創るにわ!《教育(人創り)ぜよ!》。


佳きパートナーを選ぼお!――では、とは、誰か?


排他的な者が、文化文明破綻・平和侵蝕・戦争勃発を起こす。

「排他的」な人の性格の特徴としては、他の人の意見や考えを家庭や社会そして組織の中にいても退けたり、聞かなかったりすることがあります。

人は社会的な存在であるため、他の人との協力がないと生きるのが難しくなる――日本人、いや、全世界人種がである――ロシアによる戦争、アメリカなど西欧が起こす経済戦争や政治体制崩壊の目論見、中国による台湾進攻、それら一族による朝鮮戦争、或は、日本本土への侵攻ないし日本自身のよる近隣諸国への侵略等、予期せざるを得ない。

歴史は繰り返す。この言葉は死語にしたい。しかし事実は事実。と思えてならない。


小五郎が功を奏して事実は、博識・イケメン・政治手腕でもなかった、“寛容と・協調による”の二文節により成しえたのであって、運によるものではなかった。運は人との繋がりから生まれるからである。


平和を実現し、戦争の渦中に陥らない為には、係わる人が排他的人物か?否か?を見極める生き方が肝要なのであって……。あいつは、名を挙げた人物、だが、居なくなって良かった、と思われてはいかんのだよ。


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