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朝まで数回、彼は唸り声を上げた。
しかしその度に手を握るとまたすとんと眠りに落ちる。
毎晩この調子だったのなら、随分睡眠が不足しているに違いない。不眠というのは万病のもとでもあるので、体調がなかなか戻らないのはこのせいもしれないと感じた。
「麗華」
ん? 呼んだ?
誰かが私を呼んでいる気がするが、眠り足りなくて目を開けたくない。
しかし、ガクッと椅子から落ちそうになり、誰かに支えられた。
「危ないよ」
「あっ、劉伶さま! おはようございます」
ふと窓の外を見上げると、太陽がすでに上がっている。
朝食を頼まれていたのに寝すぎてしまった。
「まさか麗華のほうが闖入するとは。俺のこと、襲いに来たの?」
「襲いになど……。私には劉伶さまを殺める理由などありません!」
必死に訴えると、彼は呆然としている。
「あぁ、そっちの襲うね。それはまったく心配してない」
それじゃあ襲うって?
「夜伽に来たのかと」
それを聞き目が真ん丸になる。
「ち、ちち違います」
「そうみたいだね、残念」
『残念』ってどういうことだろう。予測もしていなかったことを言いだされたせいで頭が真っ白になり思考がまとまらない。
「食事を作らなくちゃ」
立ち上がると彼に腕を引きとめられた。
「ひと晩ついていてくれたんだね。久々に快眠できた気がするよ」
あんなに唸っていたのに?
「ずっと眠れなかったんですか?」
「うん。漆黒の得体のしれないものが俺を殺しにくるんだ。逃げようと必死に走っているのに決まって蹌踉めいてしまって。馬乗りになられて剣を振り下ろされそうになるところで目が覚める」
これはやはり心の問題だろう。毒を盛られるという凄惨な出来事の傷が癒えていないのだ。
「ここには博文さんと玄峰さん、そして私しかいません。誰も襲ったりしないし、皆で劉伶さまを守ります」
「麗華、ありがとう」
劉伶さまは極上の笑みを浮かべた。
「それでは」
妙に面映ゆくて視線を逸らしたまま退室したあと、深呼吸をする。
劉伶さまと話していると胸が苦しくなるのはどうしてかしら? あれほどまでに美形の男性と話した経験がないから?
そんなことを考えながら、厨房に急いだ。
劉伶さまが不眠とわかったので、昨日作った陳皮酒に不眠や不安に効果のあるゆり根も放り込む。
これが飲めるのはまだまだ先だけど、就寝前に一杯飲んでもらうのもいいかもしれない。
それから朝食の準備だ。
昨日湯に浸けておいた高麗人参が戻っている。
高麗人参は高価なのでいつも使えるわけではないが、疲労の回復にはこれが一番いい。
残しておいた鶏肉と生姜、不老不死の薬とも言われる松の実、水毒にも効果的な椎茸を米と酒、そして塩と一緒に煮込む。
これだけで立派な朝食になる。
しかし昨晩の食べっぷりを見ているので、もう少しお腹にたまるものをと、腎を養う豚肉を手にした。
どうしようか考えあぐね、肉を味噌に漬けることにした。
しばらく置いておいたあと解毒効果がある菜の花と一緒に炒める。
私は朝から肉なんて贅沢で食べたことがなくいつもは粥くらいで済ませるが、これで大男たちの胃袋も満足するのではないだろうか。
もう少しで出来上がるというところで玄峰さんがやってきた。
「いい匂いだ」
「おはようございます」
「おはよう。昨晩は助かった。今、博文が劉伶さまのところに顔を出したら、起きていたから驚いたと」
あぁ、そうだった。彼は寝起きが悪くなっているんだった。
「私より先に起きられていましたよ」
「それは珍しい。どれほど突っついても起きないのに」
深く眠れたので目覚めがよかったのかもしれない。
「今、お茶を淹れますので、先に料理を運んでいただけますか?」
「わかった」
彼は器に盛った料理の匂いを嗅いだあと、料理を持って出ていった。
毒を早く排出したいので、代謝をよくする烏龍茶を淹れる。
毒を盛られた人の体調を整えるなんてことは初めてなので、これでうまくいくのかどうかはわからないけれど、今はやるしかない。
磁器でできた茶壺にお茶を作り、茶杯を四つ用意して劉伶さまの部屋に向かった。
途中、玄峰さんとすれ違い、残りの料理を運んでくれると言う。彼は働き者だ。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、麗華」
昨日よりずっと顔の艶がいい劉伶さまを見て、私がしていることは間違ってはいないのかもしれないと胸を撫で下ろす。
「玄峰の食べっぷりを見たから、肉もたっぷりつけてくれたの?」
「それもありますが、肉は精をつけるものです。劉伶さまの体力回復にも必要かと思いまして」
私はお茶を茶杯に注ぎながら話す。
「麗華、薬膳は完璧だね」
「いえ、まったくです。なんとなくしか知りませんので、体が冷えているだろうときは温めるもの。そしてその逆。あとは胃腸を整えるものとか、水分を排出するものなどを知っているだけです。だから間違っていたらすみません」
薬膳料理はもっと奥が深い。
“弁証施膳”が重要だ。漢方の理念に基づき、体調や症状、そして季節なども考慮し、それを踏まえて献立を立てる。そして人間の生命活動に必要な気血水を整える。
他にも“陰陽五行説”がありそれらの調和を取ることがよしとされているが、すべてを覚えて実践するのは本当に大変で、調理をするのに顔が険しくなる。
なので、程よくその知識を使って、よさそうな食べ物を作っているだけ。
「でも、昨日より体が軽いよ」
「それはしっかり食事をされ、眠ることができたからでは? 食べることと寝ることは、人間にとってとても重要な活動ですから」
薬膳料理は薬ではない。そんなにすぐに効き目が現れるわけではないと思ったが、劉伶さまのむくみは多少引いているように感じる。
「そっか。大切なものがふたつとも欠けていたのか」
しみじみといった様子で劉伶さまがこぼすと、残りの料理を持った玄峰さんが現れた。
「それじゃあいただこう」
それを受け取った博文さんが私に一瞬視線を送ってからいち早く粥を口運んでいる。毒見だろう。
玄峰さんは豚肉に手をつけた。なので私は烏龍茶から。
これですべての毒見が終わる。
「なあ、もうやめよう。麗華が俺を殺めたいなら、昨晩とっくに手をかけている」
劉伶さまは毒見をしていることに気づいていたらしい。
残りのふたりは顔をこわばらせた。
「麗華が付き添うことを博文が許可したのではないのか? 大変なときだけ信頼して、あとは疑うなんて失礼だ」
「そう、ですね。麗華さん申し訳ない」
博文さんに頭を下げられて慌てる。
「いえっ。毒見をしていただいたほうが私も安心すると言いますか……」
清廉潔白だと自ら証明するのは難しい。ふたりが毒見をしてくれるならそれでいい。
「な? こんな人間が毒を盛るか?」
劉伶さまが念押しするようにふたりに言うと、珍しく玄峰さんがにんまり笑った。