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すべての片付けが済んだ頃、玄峰さんが来てくれた。
「明日、朝食のあと村まで馬で送ります」
「助かります」
「それでは今夜はこちらへ」
玄峰さんが廊下を進んでいくので私も続いた。
「あの、先ほどは毒見をしてくださったんですね。ありがとうございます」
彼の背中に語りかければ、足が止まる。
ゆっくり振り向いた彼は、驚愕やら疑義やらが入り混じったような複雑な形相で私を見ている。
「毒見をしたんだぞ。なぜそれに感謝する」
たしかに、疑われたということではある。けれど……。
「玄峰さんは、劉伶さまのお優しい気持ちを踏みにじらないようにしてくださったんですよね。あそこで強引に私が食していれば、劉伶さまとの距離が離れた気がします」
信じると言われているのに、あの場で私が毒見をするということは、逆に私が劉伶さまの『信じる』という気持ちを信じていないことになる。
「珍しい考え方をするんだな。悪かった。だが、劉伶さまを逝かせるつもりはないんだ」
「わかっています。おふたりが劉伶さまを大切に思われていることは十分伝わってきますから。私も、劉伶さまの気持ちを踏みにじらないように努めさせていただきます。あっ、しばらく食事は劉伶さまの毒を抜くためのものが多くなりますが、お元気になられたら玄峰さんのお好きな物も作りますね」
今晩も足りなかったように見えたし、もっと肉や魚を食べたいのではないだろうか。
この筋肉隆々の体を保つにはそれなりの源がいる。
「お、俺はいい。劉伶さまの好きな物を頼む」
やっぱり優しい人たちだ。玄峰さんも博文さんも。そして劉伶さまも。
心なしか頬が紅色に染まった彼は踵を返して歩き始めた。
そして着いたのは、劉伶さまの部屋にほど近いとてもきれいな一室だった。
「ずっと使われていなかったから、風通しだけはしておいた。寝台も寝具も新しい。使ってくれ」
「ありがとうございます」
「この離宮には門はひとつだけ。あとは高い塀に囲まれていて、なおかつ裏は断崖絶壁だ。簡単に人は侵入できない。だから安心して眠れ。博文は劉伶さまの隣の部屋。俺は一番門に近い部屋だ。なにかあれば尋ねて」
私は門から遠くの房にしてもらえたようだ。
心配ないと言いつつも、有事に備えてなのだろう。
「ありがとうございます。おやすみなさい」
「あぁ」
ぶっきらぼうにそう言った玄峰さんは、すぐに出ていった。
朱色の褥にはきらびやかな刺繍が施されていて、ひと目で一流の品だとわかる。
こんな素晴らしいものを纏うのは気が引けて恐る恐るくるまった。
緊張で眠れないかもしれないと思ったのに、今日はいろいろあったからしばらくすると眠りに落ちていった。
「麗華さん」
誰かが呼んでいる気がして目を開くと、月が南の高いところに上っている。
「麗華さん、夜分にすみません」
この声は博文さんだ。
私は急いで扉を開けた。
「起こして申し訳ない。劉伶さまが……」
「どうかされました?」
「来ていただけますか」
「はい」
静寂を緊張の糸が縫う。体調が急変でもしたのだろうか。
彼のあとに続いて足を速める。
「実は以前からなのですが……劉伶さまは夜中にうなされるのです。今も唸っていまして。もしも麗華さんに診ていただいて原因がわかるならと思いまして」
「ですが、私は医者ではないので……」
体調の不調に効きそうな食材で料理ができるだけであって、病の原因なんてわからない。
「承知しています。でも私たちにはお手上げなのです。劉伶さまは弱音を吐くのが嫌いなので、翌朝はなんでもない顔をしています。ですが、見ているこちらがつらい。藁にも縋りたいのです」
「わかりました」
できることがあるならやってみよう。
毒のせいなのかもしれないが、夜だけうなされるというのは違う気もする。
劉伶さまの部屋の前に到着すると、たしかに唸り声がした。
「どうぞ」
博文さんが扉を開けたので早速足を踏み入れ、寝台に近づく。
すると劉伶さまは、額にびっしょり汗をかいて苦悶の表情を浮かべていた。
「汗がすごい。ですが発汗は毒を排出する効果もありますので、必ずしも悪いわけではありません」
衾をはだけた彼は、薄い夜着が乱れて胸元が見え隠れしている。そこから武官の姿を垣間見るような筋肉が露出していた。
「博文さん。水に布を浸して持ってきてください。発熱はないようですが、汗が皮膚に残ったままですと体が冷えます」
「わかりました」
博文さんはすぐに出ていき、代わりに玄峰さんがやってきた。
「劉伶さまはいつもこの調子なのですか?」
「そうだな。あの日からほぼ毎晩。毒が少しずつ抜けてくればよくなると思ったんだが、元気にはなってもうなされることはなくならない」
大きな玄峰さんが肩をがっくりと落とす。
『あの日』というのは毒を盛られた日のことだろう。
「心に傷を負われているのではないでしょうか」
「心?」
昼の様子を見ていると、唸るほど具合が悪いとは思えない。
あと考えられるのは心。私も両親を立て続けに亡くしたあとは、しばらく熟睡というものからは遠ざかっていた。
「はい。眠りにつきやすいものを用意しましょう。ゆり根があったはず」
ゆり根は神経の高ぶりを抑える効果があり、不安感や不眠を和らげる効果がある。
そこへ博文さんが水の入った壺と布を持ってきた。
私は布を水に浸して絞り、劉伶さまの額の汗を拭った。
「劉伶さま、皆ここにいますよ。なにも心配いりません」
そう語りかけると、彼の瞼が微かに動く。
聞こえている?
私はもう一度語りかけることにした。
「安心してお眠りください。あなたのことは皆で守ります」
今度はそう言いながら彼の手を握る。
自分から触れるなんて普通なら羞恥心に駆られてとてもできない。でも今は、彼を楽にしたい一心だった。
人肌の温もりが心を癒すと信じて。昔、母の手を握って眠っていたことを思い出したのだ。
するとそれが奏功したのか、唸り声が消え、昼間の温容を取り戻した。
「落ち着かれたようですね。ゆり根を準備しようかと思いましたが、起こすのは忍びありません。このまま眠っていただきましょう」
もう一度額の汗を拭いながらふたりに伝える。
「そうですね。それでは麗華さんは房へ」
「このままここにいてはいけませんか? また苦しみだしたらなだめて差し上げたい」
私の申し出にふたりは顔を見合わせている。しばらく視線に言葉をのせているようだったが、博文さんが口を開いた。
「承知しました。しかし今晩は花冷えします。麗華さんまでも体調を崩さないようにしてください。玄峰、衾をお持ちして」
「おぉ」
玄峰さんが出ていくと「私もここで見守ります」と博文さんが言う。
「いえ、もし信用していただけるなら私だけで十分です。家族の誰かが病に倒れたときは、交代で看病するのがいいんですよ。そうでないと全員が疲弊して結局病人のためにもなりません。明日、昼間はおふたりがお見守りください」
今までそうした家族を数多見てきた。治癒まで長くかかる病であればあるほど、役割は分担したほうがいい。
「そう、ですか。それならばそういたしましょう。なにかあれば隣の房をお尋ねください」
どうやら信頼は得られているようだ。
それから玄峰さんが私の部屋から衾を持ってきてくれたので、それに包まり椅子に腰かけたまま劉伶さまを見守った。