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「劉伶さま。ひとつお願いが。青鈴にどうか寛大な処分を」
顔を見上げて懇願する。
「お前は柳眉を逆立てるということがないようだな。俺よりずっと寛容だ」
「そんなことはありません」
だってあなたは自分を殺めようとした子雲さんを許し、そばに置いているのだから。
「いや。そんなところを好いているのだから、問題はないだろう?」
彼は柔和な笑みを浮かべる。
私は吐息がかかる距離が面映ゆくて視線を逸らした。
「青鈴には、尚食の腕を生かしてもらう。博文が足を運んだ北方の町は、気候が悪く野菜が育ちにくい。そのため食糧不足が続いていたのだが、その不満が募っていたようだ。しかし、博文が昇龍城を攻めても状況は変わらないと諭したはずだ」
私の故郷のように飢えて命の危機を感じ、最後のあがきとして軍を起こしたのだろう。万が一にも生きる道があるとも知れないと。
それくらい切迫した状態だったのだ。
「軍を収めるならば食料を配給すると選択肢を与え、今後について話し合わせた。その結果、こちらの言い分を飲むと。どうやら食に関して知識の乏しい地域のようだし、南方の野菜を食したこともないようだから、調理に詳しい者を数人送る」
「それに青鈴を?」
「あぁ。数年後に任を解かれたら、働きに見合った給金は持たせるから自由にすればいい」
それなら故郷に戻るのもいいかもしれない。後宮に戻っても、冷たい目で見られるだろうし。
「ありがとうございます。きっと故郷で幸せになってくれるかと」
「いや、戻ってくるだろうな。皇后の女官を志願して」
まさか……。だってここは針のむしろなのに。
もちろん後宮で女官勤めをしていれば給金はいいが、彼女の場合は故郷で過ごすほうがきっと幸せだ。
「そう、でしょうか?」
「間違いない。子雲と同じだ。あいつも昇龍城を出ればよかったのに、宦官にまでなった。俺に忠誠を誓い守るために」
たしかに、子雲さんはこの先も劉伶さまの片腕として働き、後宮では私のことを守ってくれるだろう。
青鈴を縛り付けるのは心が痛いけれど、もちろん一緒にいられるのはうれしい。
もし彼女が後宮に戻る選択をしたら、そのときは甘えよう。
「青鈴の選択に任せます」
「それがいい」
「それにしても、子雲さんのことは驚きました」
「うん」
彼は私を誘導し、寝台に座らせて自分も隣に座った。
「俺より二つ年下の子雲は優秀な男だ。幼き頃から母の期待に応えるべく勉学に励み、俺より三年あとの科挙試験に合格している」
「子雲さんも文官だったんですか?」
尋ねるとうなずいた。
「腹違いとはいえ兄弟だから、幼少の頃はよく一緒に遊んだ。子雲の母は兄ばかり寵愛し、子雲は蚊帳の外。だからか俺によくなついて、文官になったのも俺と共に仕事をしたかったからだと言っていた」
それなのに、毒を?
「子雲の兄は俺よりひとつ年上だったが、甘やかされたせいか学もできず、母である貴妃の言うがまま。まあ、皇帝の血を引く男児は何人も不審死しているから、母は無事に育ち皇帝の座に収まることだけを望んでいたんだろうな」
そういえば、栄元帝の血を引く男子は劉伶さまだけで、男系では追放された人間の他はすべて亡くなっていると玄峰さんが教えてくれた。
その追放された人間が子雲さんの兄で、あのとき子雲さんに意味深な視線を向けたのは、彼ももともとそうだったということだったんだ。
「それも不憫な気がします」
「そうだな。だから子雲のように気ままに遊ぶという経験もしておらず、あまり笑うこともなかった。権力を前に何人もの運命が狂った。実に浅はかだよ、人間は」
劉伶さまはそう吐き捨てる。
ある意味、子雲さんの兄上も被害者だったのかもしれない。
「皇后の子だった香呂帝が即位したものの、このままでは国が危ういと噂されるようになり、次の皇帝の模索が勝手に始まった。実は俺の兄は赤子のときに不審死しているんだが……」
そういえば、兄上が亡くなっていると玄峰さんに聞いた。でもまさか、赤子のときだったなんて。
それほど過酷な権力争いの中、劉伶さまが今生きていてくださることに感謝する。
「母はそれ以来、俺を後継者争いの陰謀の中には入れたがらなかったし、俺も望まなかった。だから母は栄元帝が崩御したあと、こっそりと妹とともに後宮を去っている」
「今もお元気で?」
問いかけると彼は深くうなずく。
「ところが、子雲の母は俺が文官をしつつ皇帝の座を虎視眈々と狙っていると勘違いしたのだろう。自分の子より認められている俺が邪魔になった」
だから殺すなんて、私には理解できない。
「あとは子雲が話した通り。文官や武官は同じ宮で食事をとることも多かった。その機会を利用して、子雲は兄の即位のために死ねと実の母に命じられたんだ。あいつの無念がわかるからこそ、あのとき羹を口に含んだ」
彼は顔をしかめて続ける。
「子雲も青鈴と同じなんだよ。すぐに自分も毒を飲もうとしたが俺が止めた。生きて償えと」
いろいろな感情があふれてきて、目頭が熱くなる。すると劉伶さまは私をそっと抱き寄せてくれた。
「本当なら、ここに残って子雲のその後を見守ってやるべきだったが、博文と玄峰の力を借りてあいつの母と兄を追放するだけで精いっぱいだった。もうこの国がどうなっても構わない。こんな場所にいたくないと逃げた」
彼は離宮で『役割から逃げてきた』と言っていた。そういう意味だったのだ。
「でも、出会ってしまったんだ。周囲の者たちの幸福のためだけに走り回る女にね」
「……私?」
「あぁ。それなら麗華の幸せは俺が守ろうと思った。だが、香呂帝に任せていては麗華の笑顔は守れない。だから皇帝になって国中の人たちの笑顔を導くと決めた。今の俺があるのは、麗華のおかげ」
まさか。私はただ料理を作っていただけ。劉伶さまとはやっていることの規模が違う。
「そんな……」
「でも、もっと助けてもらわないと困る。麗華がいてくれれば、どんな困難も乗り越えられる」
彼は私を見つめて優しく微笑む。
私も劉伶さまの笑顔を守るためなら、なんだってできる。
「それでは、頑張らなくては」
「俺も。まだまだこれからだ」
劉伶さまは頬を緩めて私の手を握った。
「さて、昨晩は一睡もできなかったんだ。少し眠りたい」
「はい」
ただでさえ眠りが浅くて苦労しているのに、おそらく昨晩だけでなくあの茶会の日からほとんど眠っていないだろう。
それから彼がなぜか私の手も引くので、褥に一緒に倒れ込んだ。
「劉伶さま?」
「お前の手が必要なんだ」
「手?」
たしかにこの手があれば熟睡できるようだけど、握っていろと?
「あぁ。仕方がなかったとはいえ、したくないことをした。心が波立っているんだ。麗華の手で鎮めてほしい」
あのふたりを処刑したことを言っているのだろう。
劉伶さまは私がまさにそのときを見ないように配慮してくれたが、彼は自分で処分を下し見届けたのだから『心が波立つ』というのも理解できる。
長い歴史の中では、ためらいなく何人でも臣下や国民を処刑した皇帝もいる。後宮内の争いごとでもそうだ。けれど、そんな人たちと光龍帝は違うのだ。
「承知、しました」
「麗華も睡眠不足だろう? 早く眠らないと博文が来るぞ。麗華に話があるとは言ったけど、一緒にいたいだけだろ?と目が言っていた。あいつは少々気がつきすぎる」
「えっ!」
「どうせ叱られるんだ。麗華の温もりを感じさせてくれ」
劉伶さまは強引に私を抱き寄せて衾をかけて、目を閉じた。
手を握るだけでなく、抱きしめられたまま眠るの?
緊張で心臓が暴れ、とても眠れやしない。
唖然としていると、彼は目をぱちっと開く。
「言い忘れた。おやすみ、麗華」
彼はそう言ったあと私の額に唇を押し付けて、今度こそ眠りについた。
「え……」
劉伶さまはこんなことをして平気な顔をしていられるの?
私は彼の唇が触れた額にそっと触れ、ひとりで動揺していた。
しかし、安心しきった表情で眠る劉伶さまを見ていると、たまらなく幸せな気分になる。
きっと彼は、この国を平和に導く。私は一生ついていくだけ。
彼や遠征に行き大きな仕事を成し遂げてきた博文さん、そして私を支えてくれた玄峰さんと子雲さんに、うーんとおいしい薬膳料理を振る舞おう。
そんなことを考えながら私も目を閉じた。




