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後宮に戻ると、あれこれと思いを馳せる。
「私にできること……」
劉伶さまたち三人が、自分を犠牲にして彗明国を導こうとしている。
私にもなにかできることはないだろうか。
そんなことを考えていると子雲さんが尋ねてきた。
「麗華さま。李貴妃がお呼びです」
「貴妃が?」
青鈴の言っていた薬膳のことかしら。
私は慌てて身なりを整え、紅玉宮に向かった。
「朱麗華さまをお連れしました」
宮の入り口で子雲さんが声をかけると、女官が扉を開ける。
上級の妃賓にはこうして女官や宦官が何人もついていて世話をしている。
子雲さんと別れ、女官とともに扉を開けたさらにその先に進むと、髪を元宝髻に結い見事な金の歩揺を挿した李貴妃が私を笑顔で出迎えた。
「朱麗華でございます」
私はすぐに跪き、頭を下げる。
「突然ごめんなさい。薬膳料理の噂を聞いて興味を持ったの」
「恐縮です」
やはりそうだったか。
「私の食事も作っていただけないかしら」
「承知しました。どのようなお悩みがございますか?」
青鈴がお腹の調子が悪いと言っていたような気がするんだけど。
「月のものの前はなんとなく気分が悪くて。その間はこの辺りに鈍痛が」
李貴妃は下腹を手で押さえる。
「それは気滞という状態かと思われます。月のものの前に怒りっぽくなったり、気分がふさいだり、お腹が張るというような症状が出ます。このようなときは茉莉花茶がよろしいかと」
「お茶でも改善できるのね」
「はい。ですが医者が出す薬とは違いますので、すぐに効果があるわけではありません。少しずつ体質を改善していくものと思っていただければ」
治らないと咎められても困ると、慌てて付け足した。
「体質……」
「はい。それと、体の冷えがあると、痛みが増すことがあります。そんなときは体を温め血の循環を促す蓬が効果的です。蓬は艾葉という薬でもありまして、止血や止痛の薬としても用いられます」
李貴妃は身を乗り出すようにして聞いている。余程興味があるのだろう。
「実は今痛いの」
「そうでしたか。それでは蓬餅をお作りします。茉莉花茶もお添えしますね」
私はいったん退出して、厨房に向かった。
乾燥した状態で保存してある蓬を取り出し、早速調理を開始する。
以前香妃に作った豆腐団子に蓬を入れるつもりだ。
それに小豆を黒砂糖で煮て乗せる。小豆はむくみの解消に効果があり、月経のときに速やかに血を排出するのに一役買うと言われている。
蓬餅ができると、すぐさま紅玉宮に戻った。
控えていた女官が、おそらく毒見のために最初に口にしたあと、貴妃も食べ始める。
「おいしいわ。これで体質が改善するの?」
「あくまでひとつの例です。他に黒きくらげなども効果があります」
気に入ってもらえたようで、李貴妃の声が弾んでいる。
「あなた、素晴らしい知識を持っているのね。それで、その知識を使って陛下に近づこうとしているのね」
「えっ……」
今まで莞爾として笑っていた貴妃の瞳が、突然憤怒の色を纏うので唖然とする。
「姑息な女。一介の尚食が、陛下に気に入られるとでも思ってるの!?」
李貴妃は今まで何口も食べ進んでいた蓬餅の乗った皿を私に投げつけた。
「い、いえっ。私はただ……陛下の体調がお悪いので薬膳料理を希望されているとお聞きしまして」
博文さんが言っていたのはこういうことなのだ。
「それでも辞退すべきよ。陛下に一番近いのは、この私よ!」
そして茉莉花茶を私の顔めがけてかける。
熱い……。
私はかけられた頬をとっさに拭った。
隣にいる宦官も女官も、にやりと笑っているだけで私を助けてくれそうにはない。
「申し訳ありません。ですが私は尚食です。陛下の体調を考えてお食事を準備するのが仕事です」
「あっははは。後宮に女官が何人いると思っているの? あなたの代わりなどいくらでもいるわ」
高らかに笑い声を上げる貴妃は跪いていた私のところに勢いよく歩み寄り、いきなり頬をぶつので、床に倒れ込んでしまった。
「私に口ごたえするなんて。話せなくしてあげましょうか?」
「貴妃さま、なにか大きな音がしましたが、大丈夫ですか?」
その時、扉の向こうから子雲さんの声がしたので、李貴妃は乱れた上襦を直している。
「なんでもないわ」
「麗華さま、お仕事がございます。そろそろよろしいですか?」
「は、はい」
助かった。いや、助けてくれた?
私は怒りの形相の李貴妃に頭を下げてから紅玉宮を飛び出した。
後宮の怖さを本当の意味でわかっていなかった。
「お待たせ、しました」
「麗華さま、これは……」
おそらく、熱い茶をかけられた上に叩かれた頬が赤くなっているのだろう。私の様子を見た子雲さんは言葉を失くし、私の背を押して促す。
焦りの表情を浮かべる子雲さんは責任を感じているのかもしれない。彼が李貴妃からの伝言を私にしたからだ。
しかし、こんな事態になると予想できたはずがない。
「心配いりませんよ」
だから私は小声で伝えた。
それでも彼は眉根を寄せて首を振り、足を速める。そして私を房に入れたあと、厨房から冷たい水と布を持ってきた。
「申し訳ございません。少し失礼いたします」
房に入ってきた彼は、冷たい布を私の頬にあてる。
「ありがとうございます」
「なにがあったんですか? まさか、このようなことに」
「本当に大丈夫です。私が生意気なことを言ってしまっただけです。あっ、陛下には知らせないでください」
病んでいるというのに、余計な心配はかけられない。
「そういうわけにはまいりません」
「お願いです。陛下は『善く戦う者は怒らず』と教えてくださいました。ここで冷静さを失っても、李貴妃には勝てません」
私はこのとき初めて、皇后になることを強く意識した。李貴妃より光龍帝――劉伶さまの近くに行かなければならないと。
それは、気に入らない者を排除して皇后の座を手に入れようとしている李貴妃のそばにいても、劉伶さまは気が休まらない気がしたからだ。
不争の徳を口にし、争いごとを避けたいと考えている彼のためになるとはどうしても思えない。
それなら私が皇后になって、劉伶さまの理想の国を作る手伝いをする。
いや、国政の手伝いなんてとてもできない。けれど、彼の心休まる場所を作ることはできる。
これほどひどいことをされたというのに、私の心には怒りより闘志が湧いていた。
「陛下は、麗華さまのご無事だけをひたすら願われています。麗華さまを危険にさらすことだけは決してするなと。私が浅はかでした。申し訳ありません」
「子雲さんのせいではありません。でも……本当は少し怖いので、できるだけ近くにいてくださると助かります」
「はい。決してこのようなことが二度とないようにいたします」
謝罪すべきは子雲さんではないのに、悲痛の面持ちだ。




