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てっきり蒼玉宮に行くのだと思ったのに、応龍殿に向かう。
私たち後宮入りした者も、尚食の仕事以外でも許可があれば後宮の門を出ることができるらしい。
「政をなさっているのですか?」
「いえ、応龍殿の奥には休憩できる部屋があり、寝台もあります。陛下はそこでお休みになっています。蒼玉宮には武官の玄峰さまを入れることができませんので。陛下は武術も達者でいらっしゃって、お元気ならば玄峰さまより優秀でいらっしゃるくらいなのですが……」
今は弱っていて身の回りを警護してくれる人がいつも以上に必要だから、応龍殿なんだ。
それほどひどいの?
「やはりいつも通りの食事では喉を通らないようで、お休みくださいという博文さまの進言にも耳を傾けられません。博文さまが、もう麗華さましか説得できないのではと」
子雲さんは眉根を寄せる。
「私に陛下を説得できるとは思えませんが、食事はとっていただきたいです。とにかくお話をさせてください」
「よろしくお願いします」
応龍殿に到着すると、博文さんが丁寧に出迎えてくれた。
「申し訳ありません。目立った行動をするのはどうかと思いましたが、陛下が頑なで」
久しぶりに交わした彼との会話にうなずく。
「体が病んでいるときこそ口から栄養を摂取するのは大切です」
超さんのおじいさんも、何度も深刻な状態に陥ったけれど食べられるようになると回復が早かった。
「えぇ。子雲、人払いを」
「かしこまりました」
子雲さんは頭を下げて出ていった。
それからすぐに入ったことのない奥の部屋に案内される。すると玄峰さんも姿を現した。
「麗華さん、いつもうまい食事をありがとう」
「とんでもないです。陛下は……」
「実は四日ほど前から熱があります。医者に薬は処方されていますが、政も忙しくお休みくださいと申しましても拒否されます。だからか、なかなかよくならなくて」
玄峰さんと挨拶を交わすと、博文さんが説明してくれた。
そんなに前から? だから房にも姿を現さなかったのかも。
食事を献上する際も、顔を見ることがなかったので気づけなかった。
玄峰さんが扉を開けてくれたので足を踏み入れると、片隅に置かれていた寝台で、額に汗を浮かべてる劉伶さまが息を荒らげている。
「陛下。朱麗華です。おわかりになられますか?」
傍らに行き話しかけると、彼は重いまぶたを持ち上げる。
「麗華……」
「人払いは致しました。普通にお話しください」
博文さんが告げると、劉伶さまはうなずいた。
「劉伶さま、こんなにひどくなるまで頑張られたんですね。食べられないとお聞きしましたが、食べていただきます」
目の前にいるのは、彗明国で絶対権力を誇る光龍帝。
けれどもこれは命令だ。彼の命を守るための。
「はははっ、麗華は厳しい」
「失礼しますね」
私は彼の額に触れた。すると想像以上に熱が高くて驚愕する。
「舌を見せてください。裏もお願いします」
誰の言うことにも耳を傾けないと言っていたけれど、素直に舌を出してくれる。
すると暗紫色をしていて、舌下静脈が浮き上がっていた。
「“瘀血”の状態だと思います。血の流れが滞っていて臓器の働きが弱っています。過労ではないですか?」
尋ねると、劉伶さまの代わりに博文さんが口を開く。
「劉伶さまは、地方の経済状態を改善するために知恵を絞っています。そのためにたくさんの人に会い、陳情を受けておりました。それこそ四六時中」
そうだったのか。
「劉伶さま、私たち地方で暮らしていた者にとっては本当にありがたいお話です。でも、志半ばで光龍帝がお倒れになっては、地方はよくなりません。国民を救ってくださるのなら、まずはご自分を大切になさってください」
彼は私利私欲を満たしていた香呂帝とはまったく違う。いつか彗明国を発展に導くだろう。
「それが麗華の願いか?」
「はい」
「ならば、聞かないとな」
彼は口元に微かに笑みを浮かべながらも、困惑したような複雑な表情をしている。
皇帝としてどう振る舞うべきか悩んでいるのかもしれない。
「政は少し博文さんにお任せして、休憩なさってください」
「陛下、どうかご指示を」
博文さんが臣下として懇願する。
「わかった。宋博文、余の休養の間、政は任せる」
「御意」
「あっはは。あんなに頑固だったのに。麗華さんの前では借りてきた猫のようだ」
緊迫した空気を和ませたのは玄峰さんだ。
「うるさい」
劉伶さまは皇帝の仮面を外して不貞腐れている。
あぁ、離宮にいた頃のようでホッとする。
「まずは高い熱をなんとかしたいですね。発汗が激しいので水分をとらないとまずいです。桑の葉茶を用意します」
桑の葉茶には熱を取る働きがある。
「あとは……なしをはちみつと一緒に煮てお持ちします」
なしにも解熱作用がある。はちみつはのどを潤すのに効果的だ。
「それなら食べられるかも」
「絶対に食べていただきますよ」
ひと口でも食べてもらうつもりだ。口当たりのいい物から初めて、少しずつ食事を増やしていこう。
私が念を押すと、劉伶さまはほんの少し口角を上げた。
「博文、麗華を守ってくれ」
「承知しております。と言いましてもここには厨房がありません。子雲に託します」
「……うん」
劉伶さまは真っ赤な顔をして私を切なげな目で見つめる。
「麗華、ごめんな」
「なにが、ですか?」
「あとは私が説明しておきます。麗華さんが食事を持ってくるまで眠ってください。玄峰に手を握らせましょうか?」
博文さんは離宮にいたときのように少し意地悪な笑みを浮かべてからかう。
「玄峰の手なんか握ったら、治るものも治らなくなる」
劉伶さまも笑みを漏らしたが、つらいのかすぐに真顔に戻った。
彼が目を閉じたのを確認してから部屋を出る。
「今は薬膳料理が必要だと麗華さんを呼び寄せていますが、後宮は嫉妬や羨望が渦巻く場所です。劉伶さまに近づきたい妃賓ばかりですから、あなたにその矛先が向かう可能性があるんです」
それで『ごめんな』だったのか。
「ですから、麗華さんとの接触をできるだけ避けるように進言してきました。でも、同じ男として劉伶さまがあなたに会いたいと思う気持ちは痛いほどわかるので、目をつぶっていたところもあります」
「そんな……」
劉伶さまはそれほどまでに私に会いたいと思ってくれていたのだろうか。
「今日、こうして呼んだこともすぐに広まるでしょう。その危険を冒してでも麗華さんを会わせたかった」
博文さんの真剣な表情を見て、緊張が走る。
「劉伶さまはここで毒を盛られ、腹違いとはいえ兄を死に追いやりました。威厳を保ち見事に政を仕切っていますが、本当は精神状態が限界なのです。子雲の話では、安眠というものもまったく得られていないようだ」
「私、できることはします。妬まれようがかまいません」
そう訴えたが小さく首を横に振る。
「後宮はあの村とは違う。妬まれるだけでは済まないのです。最悪、麗華さんも命を狙われることも」
「命……?」
私の? 妃賓でもないのに?
でも、光龍帝の皇后となりたい人からしてみれば、近くをうろつき寵愛を得る女官は気にくわないのだろう。
それが殺めるという発想につながるのが恐ろしい。
「そうです。だからいっそのこと、あなたを最初から皇后として迎えることも考えました。ですが、皇位簒奪の際に活躍してくれた地方の有力者の反感を買ってはまずい」
たしか両貴妃はそのときに活躍した有力者の娘だと聞いている。
「いきなり市井の娘を連れてきて皇后に指名しても納得しない。ですからまずは後宮に入っていただいて、その活躍ぶりを劉伶さまが気に入ってお手付きをしたことにしようと」
お手付きって……。閨を共にするということだ。
博文さんにはっきり言葉にされて、耳が熱くなる。
「か、活躍と言いましても……」
「その点は誰も心配していません。実際、後宮では麗華さんの薬膳の知識について絶賛されているようですし、皇帝の体調を支えているのですから。ただ、その能力が嫉妬につながるのです。劉伶さまはそれを心配されています」
自分も毒を盛られたのだから当然と言えば当然か。
「でもやはり麗華さんの言うことしか聞かないのですから、近づけないことは難しい。困った人だ」
「す、すみません」
「あぁ、麗華さんではなく、劉伶さまのことですよ」
彼はようやく口元を緩めた。




