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私は近くの町に滞在し、返事を待ってくれていた武官とともに旅立った。
村から北へ馬で八時間。
初めて昇龍城を目の当たりにして、足がすくむ。
目を凝らしても端がわからないほど大きく高い塀に、言葉も出ない。
その壁の真ん中に、眩いほどの朱色の壁に瑠璃瓦が印象的な大きな建物が君臨している。
「こちらに光龍帝がいらっしゃるのですか?」
「いえ、ここはただの門です」
「門?」
驚愕して大きな声が出てしまい、慌てて手で口を押さえる。
だって、百人くらいは暮らせそうな規模だもの。
「はい。この先は政を司るいくつかの建物があり、その奥にまた門があります。光龍帝はその奥にお住まいになっており、後宮もそこにあります」
塀が高すぎて奥など見えないが、門がこれだけの規模なのだから、後宮もさぞかし立派なのだろう。
「この南門は朱雀。北は玄武、そして東は青龍、西は白虎門です。ご存じかと思いますが、一度後宮に入られた女性は、外に出ることが叶いません」
覚悟してここまで来たつもりだったが、念押しされて緊張のあまり腹がぎゅっと痛くなる。
しかし、この中に劉伶さまがいるかもしれないと思うと、胸が躍るのもまた事実だった。
「文官や武官はこの中にいらっしゃるのですか?」
「はい。陛下の側近は、主にこれから通る途中の鳳凰殿で働いております。しかし、後宮に入られたあとはお会いになることはないかと」
そうか。後宮は男子禁制。劉伶さまにはやはり会えないんだ……。
村に医者を。
そして、劉伶さまの無事を確認したい一心でここまで来た。
しかも、もしかしたら後宮に来るように指示を出したのが劉伶さまではないかと一縷の望みを抱いていたが、やはり違うのかもしれない。
「ですが、光龍帝は側近の文官と武官と共に鳳凰殿の隣にある応龍殿で食事をされます。尚食の女官に限り、宦官とそちらに料理をお運びすることになりますので、もしかしたらお顔をご覧になるくらいの機会はあるのかもしれませんね」
それを聞き、希望が見えた。
皇帝陛下に仕えるのだから、もう劉伶さまの手を握って添い寝なんて叶わない。
でも、無事が確認したい。生きていてほしい。
「そうですか」
「それでは、参りましょう」
私は武官に促されて、朱雀門をくぐった。
「え……」
その先の世界に度肝を抜かれた。
朱雀門はやはりただの門だった。周りをぐるりと塀で囲まれた恐ろしく広い敷地に、やはり朱色の壁で瑠璃瓦で統一された建物の数々が点在している。
「ここが鳳凰殿。その右側が応龍殿になります」
ここに、もしかしたら劉伶さまたちがいるかもしれないんだ。
「とりあえず進みましょう」
それらの立派な建物の横を通り先に進むと、大きな橋と朱雀門よりひと回り小さな門が視界に入る。
「この先が後宮です」
どうやら光龍帝の住居と後宮は、周りを堀で囲まれているようだ。これは敵の襲撃に備えたものなのかもしれないと、漠然と考えた。
ここが国の最後の砦。私はそこに入るんだ。
橋を渡ると、武官が数人武装して立っている。
「朱麗華さまだ。武官長の命により、本日より後宮入りする」
声高らかに武官が告げると、申し合わせたように大きな扉が開かれる。
いよいよ後宮入りだ。
私は空を見上げて大きく息を吸い込んでから足を進めた。
ここまで連れてきてくれた武官は門の前で立ち止まり、その代わり宦官が私を出迎えた。
彼は背が高いが武官のように筋肉隆々という感じではない。色白で華奢な人だった。
「朱麗華さま、遠いところをよくお越しになりました。黄子雲と申します」
宦官は先ほどの武官と同じく腰を低くして首を垂れる。
私は妃賓ではないのに。
後宮入りすれば皇帝の持ち物となるがそれは名目であり、おそらく皇帝陛下の食事を作るだけで他は一生関わることなく生きていくのだろう。
私は尚食の女官として働きに来ただけだ。
「朱麗華です。どうぞよろしくお願いします」
「住居にご案内します」
子雲さんは私に目配せしたあと、歩き始めた。
――ギギギーッ。
うしろで門が閉まる。
これで、もうなにがあっても私はここで生きていかなければならない。
しかし、私を家族のように大切にしてくれた超さん一家をはじめ、村の人たちが医者とともに安心して暮らしていける。
別れのとき、私のために大泣きしていた超さんのことを思い出しながら、覚悟を決めた。
「こちらが光龍帝のお住まいの蒼玉宮です。執務は鳳凰殿などで行うことが多いので、お休みになられるときに使われます」
「はい」
ということは、昼間の今はおそらくここにはいないのだろう。
「左右にありますのが位の高い妃賓に与えられた宮です。こちらはまだ空席となっておりますが皇后がお住まいになられる翠玉宮。そして現在王宮の頂点に立たれている李貴妃がお住まいの紅玉宮、順列でいけばその次の范貴妃の琥珀宮。最初はこのくらい覚えておかれればよいかと」
李貴妃が妃賓の頂点なのね。
たしか皇位簒奪があり、後宮の妃賓や女官は入れ替えとなったはず。まだそれから日が浅いのに、確固たる順列があるんだ。
それにしても皇后はまだ決まっていないのか。
李貴妃や范貴妃が上がられるのかもしれないし、陛下の御子を授かったその下の妃賓が就くのかもしれない。
どちらにせよ、下働きの私には関係がない話だ。
子雲さんはさらに奥に進む。
奥に入ると、貴妃の住まいとは違う小さな房がいくつもある。そのうちのひとつの前で足を止め「こちらが麗華さまの房です」と扉を開けた。
「東側のこの近辺は、麗華さまと同じように尚食の女官が住んでおります。あとでご紹介します」
私に与えられたのは、村の家と同じくらいの空間だった。
貴妃が住む宮とは比べ物にならないほど小さいが、これで十分。
しかも、備え付けられている寝台には、離宮で使っていたような朱色にきらびやかな刺繍が施された一流品だとわかる褥が用意されている。
一介の女官にまでこのような物を支給されるとは、皇帝の権力の大きさを感じる。
「お召し物をいくつかご用意しております。お着替えを」
「うわー。素敵!」
村では決して着たことがない艶やかな襦裙を前に小鼻を膨らませてしまいハッとする。
きっと女官はもっと婉麗としていなければならないだろう。
「申し訳ございません」
「いえ。外で待っておりますので、着替え終わりましたらお声かけを」
「はい」
子雲さんは表情ひとつ崩すことなく出ていった。
「どれにしよう……」
こんなに上質な襦裙に袖を通すなんてもったいない。と思いつつ、心躍る。
迷いに迷って藤色の上襦と裾に小花の刺繍が施されている濃紺の裙を身に着けた。




