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大陸の東方を治める彗明国は、五年前に香呂帝が皇帝となりすっかり様変わりしてしまった。
先代の皇帝――香呂帝の父、栄元帝は政に明るい皇帝として知られ、どちらかというと知能派。
さらに頭の切れる文官とともに彗明国を導き、周辺の他国ともよき関係を築いていた。
しかし栄元帝とその皇后の第二子として生を受けた香呂帝は、世継ぎと喜ばれた第一子が生後間もなく病で死したこともあってか、随分大切に育てられ贅沢三昧。
学問を嫌い、どちらかというと武闘派。
短絡的で気の赴くまま人を動かし、時には殺め……決してよい評判は聞こえてこない。
さらには、後宮に三千人近い妃賓や女官を従え、そちらに通いつめてはうつつを抜かしているありさまなのだとか。
肝心の政は、後宮で妃賓たちの世話をしている宦官の中の切れ者が裏で香呂帝を操っているという噂も立っている。
しかし、皇帝の住まいであり政の中心地の昇龍城よりずっと南方に位置する辺境の地で暮らす私、朱麗華には関わりがなさ過ぎてよくわからない。
「麗華、じいさんが調子悪くてな。ちょっと頼むよ」
「わかりました」
私の家に走り込んできたのは、五軒ほど先に行った家に住んでいる、十八になる私の父親くらいの歳にあたる超さんだ。
私は身支度を整えて早速家を飛び出した。
この家は父が建てたものだが、父も母も一緒に住んではいない。
というのも、ふたりとも原因不明の病に倒れて次々と亡くなったからだ。
兄弟もおらず、今は私ひとりで暮らしている。
慌てていたせいで、家を出てすぐに随分背の高い男とぶつかり尻もちをついた。
「すみません」
ふと見上げると、見たことのない男性三人が立っている。
私がぶつかった真ん中の人が一番背が高い。
彼は切れ長の目とすらっと通った鼻筋。そして細身ではあるがしっかりとした体躯を持つ、辺境の地ではまず見たことがないような気品あふれる人物だった。
誰だろう……。旅の人?
そんなことを考えていると、その男の前にひときわ体つきのよい男がスッと立つ。
そしてまるで私をけん制するかのような鋭い目つきでにらんだ。
な、なに?
畏怖の念を抱き立ち上がることすらできないでいると、真ん中の男が口を開いた。
「玄峰、その強面をなんとかしろ。彼女が震えているじゃないか」
「しかし……」
「ごめんね。玄峰の顔が怖いのは生まれつきなんだよ」
私に手を差しだす男の人は立たせてくれようとしているらしい。
よかった。
怒ってはいないみたいだわ。
「劉伶さま。生まれつきなどという言葉で片付けられては努力のしようがありませんが?」
玄峰さんはますます顔をしかめて苦言を呈する。しかし、その通りだ。
「あはは。とりあえず努力してみれば?」
劉伶と呼ばれたその人は、私が手を重ねることを戸惑っているのに気づいたらしく、彼のほうから腕をつかんで立たせた。
「汚れてしまったね」
そして砂のついた臀部をパンパンとはたかれ、頬が真っ赤に染まる。
「あっ、結構です!」
慌てて体をよじると、色白で一番背が低く、しかし美形の男性が口を開く。
「劉伶さま。女性に気軽に触れてはなりません」
「どうしてだ、博文。泥がついていたのをはたいただけだ」
「どうしてもです。彼女が困っているじゃありませんか」
博文さんがたしなめると、劉伶さまは「あっ、ごめん」なんて人懐こい笑顔で言った。
この人だけ『さま』を付けて呼ばれているということは、位が高いのかしら?
「い、いえっ」
しかし三人ともにこの辺りでは見ないような高貴な情調が満ちあふれていて、――いやそれより顔立ちが整いすぎていて――気圧される。
玄峰さんは少々強面だけど。
でも劉伶さま、ちょっと体調が悪そうだわ。
はっきりとなにがとは言えないけれど、ふとそんなふうに感じた。
「私は伯劉伶。この無駄に凄みがあるのが孫玄峰。そしてこっちが宋博文。名前を聞いてもいい?」
「は、はい。朱麗華と申します。急いでいたのですみませ……あっ!」
超さんの家に行かないといけなかった。
「失礼、します」
結局、その三人が何者なのかわからないまま頭を下げ、その場を走り去った。
超さんの家に着くと、顔面蒼白のおじいさんが力なく横たわっていた。
「どうされたんです?」
「少し前から食欲がなくて。食べないもんだから余計に弱ってしまって」
超さんから話を聞きながら、すぐさま顔色を伺う。
すると唇が荒れていた。
「便はどうですか?」
「柔らかいです。あとは口の中にできものができて痛いと訴えます」
それを聞き、うんうんとうなずく。
これは“気虚”の状態ね。
「脾が弱っているようですね。今から言うものをそろえてください。まずは杜仲茶、棗、黒糖、もち米、それと南瓜もあるといいですが、もうないでしょうか?」
おじいさんはここ一年位体調が思わしくなく、飲み込みやすいものばかり取っている。
そうでないと嚥下できないからだ。
私はそれを念頭に献立を考え始めた。
「南瓜……いくつかあるはずだ。持ってくる」
南瓜は夏から冬にかけて収穫できるが、三月ほどは保存がきく。
だからもしかして三月の今も手に入るのではと言ってみて正解だった。
「よかった。それでは、先に調理をしておきます。厨房をお借りしますね」
私は早速厨房で料理を始めた。
鍋に洗ったもち米と多めの水、そして棗を入れて火にかける。
棗は脾の動きをよくして胃腸の調子を整える効果がある。
活動の源となる“気”が不足している気虚という状態のときに摂取すると効果があると言われていて、こうしたときは体を温めるのが基本だ。
それをこれまた気虚のときによく用いるもち米と煮ることで、相乗効果を期待している。
また別の棗を水につけておいて、しばらく置いたところでその水を用いて杜仲茶を淹れた。
これも体を温める効果があり、胃腸の不調には効くはずだ。
「本当はもう少しつけておいたほうがいいのですが、今はとりあえず」
できた杜仲茶をお嫁さんに飲ませてもらった。
しばらくすると、大きな南瓜を抱えた超さんが戻ってきたので、早速それを切り水と黒糖を加えて煮込みだす。
気虚の状態のときは甘いものを取り入れるのがいいはずだ。
南瓜だけでも十分に甘いが、さらに黒糖も使った。
もち米で作った粥はうまくできた。
南瓜も柔らかく煮えたが、それを潰して先ほど杜仲茶を淹れるときに使った棗の羹で伸ばしさらに柔らかくして、容易く飲み込めるようにした。
「食べやすいようにしておきましたから、少しでも口に入れてくださいね。体を温めましょう」
お茶を匙で口に運んでいたお嫁さんの横に行きおじいさんに話しかけるが、反応が薄い。
「飲めていますか?」
「少しずつだけど」
戻すことがなさそうなら、食べてもらおう。
くたくたに煮込んだ粥をお嫁さんに渡して、じっと口元を見つめていると、しばらく咀嚼してから飲み込んだ。
「よかった……。食べて体力を回復してください」
そう訴えると、おじいさんは初めて小さくうなずいた。
「麗華、ありがとう。医者に見せるのも大変だから、麗華がいてくれると助かるよ」
超さんが安堵の胸を撫で下ろしている。
「いえ。私にできることは限られていて、とてもお医者さまの代わりなど務まりません」
辺境の地であるが故、この村には医者がいない。
歩いて五十分くらいのところに診てくれる医者はいるが、病人を連れていくのは至難の業。ましてや来てもらうのにはかなりのお金がかかり、細々と野菜を市で売って生計を立てている貧しいこの村の人たちが呼ぶのはそれまた不可能に近い。
実は私の両親もそうだった。
もしかしたら医者に診せれば今頃元気だったかもしれないが、それができなかった。
もともと料理が得意だった私は、それから薬膳料理に関する書物をなけなしのお金で手に入れて学び、こうして体調を崩した人の家に呼ばれて、料理を振る舞うことを生業にしている。
といっても、誰かに師事して学んだわけでもなく、私にはごく一部の知識しかない。
しかし、医者に診てもらえない村の人には重宝されていて、あちらこちらから声がかかるようになった。
超さんからお金をいただいたあと、自分の家に戻る。
「よくなるといいけど……」
私にできることはたかが知れている。
もちろん、看病の甲斐なく亡くなる人も多いので自分の無力さを呪いたくなることもある。
けれど、回復する人もいるのだから、できることはしたい。
私は薬膳に関する書物に手を伸ばし、もう一度頭から読み始めた。
「あっ……」
数ページ進んだところで、劉伶さまのことがふと頭をかすめる。
はっきりとは言えないけれど……彼には“水毒”の傾向があるような気がしてならない。
男とはいえすこぶる美形だったけれど、顔の輪郭がはっきりしておらず、むくんでいるように感じた。腎臓の働きが低下しているような。
といっても私は医者ではない。
“感じた”だけであって空振りかもしれない。
「もう会うこともないわね」
それに、もし水毒だったとしても、旅人ならばもうこの村にはいないだろうし、私が関わることもない。
そんなことを考えながら、その日は眠りにつくことにした。