第一章 第二十三葉 水も滴る美術館
皆様ご機嫌いかが?
この王国一の美術館に於いてどの宝飾品よりも一際美しい宝花。
クラーネ・フォン・セレファイスです。
ええ、私が此処にいる理由ですか?
直ぐに分かると思いますわ。
今、私はエルトダウン公領の美術館へ来ています。
このエルトダウン美術館は先々代の当主様が、「貴族には如何なる貧しさが合ったとしても、教養を持ち豊かな品性を持たなければならない。」と例え騎士階級の下級貴族であろうと無償で入る事ができ、
先代の当主様の時には、何と一部の区画だけですが平民にも解放していたのですが、不衛生な者が夏の暑い時期でも涼しい美術館に入り浸ったり、
盗難をしたり、絵に襲われて絵の具塗れで死んだり、
絵を見ていると突如気が狂ったりした為に、
平民は貴族のお付きの中でも特別に身元が保証されている者だけとして入館禁止となりました。
さて、このヒュペルボリアで最も巨大なこの美術館の最大の特徴は『水』ですの。
通路の両端の水路や石と石との間を飛沫一つたてる事無く、しかし速く渦を巻く極薄の水の膜。
水が気温を下げたり、風を起こしたりして夏でも涼しく、冬は寒いのがこの美術館の特徴で、平民の浮浪者が不敬にも入り浸ろうとした理由です。
そして、それだけの湿気を生み出す場所でありながら、絵画には黴一つありません。
水と言えば、四公の邸宅にはそれぞれ保養所がありまして、
それぞれ薬泉があるのですが、
最も人気があるのが地のメザマレック公爵家の蓬湯。
そして我が所領の薔薇湯。風のカルコサズハリ公爵家の柚子湯が並びますの。
そして最も人気が無かったのが本来水が本分である筈のエルトダウン家の薬泉。
今は菖蒲湯になっており、徐々に火と風の二家に人気が並びつつありますが、
かつては、――――――――――――――――――ワカメ湯だったのです。
エルトダウン家の庭やその周辺で普通に風も無いのに靡いているワカメ。
その水陸問わず生きているワカメがお湯の中で揺蕩っていたそうで、
入ると生臭くなれると奇特な方々に人気があったそうです。
その奇特な方々の筆頭が事もあろうにクルール現公爵様でした。
カソーザ様の熱烈なお話合いによって家の象徴である花もワカメから、
今迄その影に隠れていたもう一つの縁のあるアヤメに変えられたと聞いています。
…ワカメ湯は小さく残されていますが。
昔はイースも生臭い時がありましたが、
今は恐らくカソーザ様の躾もあり、生臭い事はありません。
本当に良かったですわ。
また、この美術館の絵画は歴代のエルトダウン公爵の意向を組んで写実的な作品が多いのも特徴です。
まるで、そのまま額縁の中に景色があるのかと思うほどの作品もあり、その画家は当代のクルール様のお気に入りでご存命の画家だそうです。
幾つもの絵画を眺めながら、ある部屋に行き当たりました。
入館者用のアトリエです。
…昔はよくここでよくイースと絵を描いたりしましたわね。
懐かしい記憶を思い出します。
お気に入りの服に、他の子供に絵の具を付けられて泣きそうになったところを、
イースの魔法で洗浄して貰った事を今でも覚えています。
昔から魔法に関しては凄かったのでしたわね。
…反面絵画は冒涜的で、音楽はいっそのこと何かの儀式かと思えるような音を創り出して、
太鼓を叩けば怠惰な音が響き、フルートを吹けば何故か卑猥な音に聴こえ、
もはや何かの咀嚼音の様なピアノや、
絵を描けば描いた絵に逃げられる等、
エルトダウン家の直系は昔から関心があろうと壊滅的に芸術の才能がないそうです。
それ故に芸術家を庇護するのだと昔クルール様が言われていました。
クルール様もよく自分が描いた絵に逃げられたり、
その絵が水路で溺れて絵の具が溶けていくのを見ることもあったそうです。
確かその話を聞いているときにイースの絵が今までにイースが描いてきた他の絵を苛め出して珍しく落ち込んでいましたっけ。
…懐かしいですわね。
あの頃の私達はーーーー
「凄い。これ凄くない?
一発で前衛アートとかがクソって判るわー。」
下品な声に美しい思い出から意識を呼び戻されると、
此処にいるはずもない平民が其処にいました。
ランテゴスの他の貴族の顏は皆覚えていますので、
平民であるのは間違いありません。
格好もみすぼらしいですし、誰かのお付きでも無いようです。
「ほんとこれとかまるで写真よね。」
シャシン?
聞いたことの無い名前です。
私はその様な芸術家を記憶してはいませんから違うのでしょう。
全く平民の言葉はよくわかりません。
ですが、私の近くにいた男爵家の令嬢は違ったようです。
「そうね、写真見たいよね……あっ。」
そう突如驚いた男爵家の令嬢を躾のなっていない平民は、
「見つかったようね。」
そう言って男爵家の人間の手を引いて走っていきました。
誘拐…?
だとしたら手を込まねいては居られません。
貴族の損失は世界のOWARIへと繋がる大いなる損失なのですから。
警備の騎士に言うか、それとも私自身でケリを付けるか。
それを考えながら誘拐犯らしき平民の女を追いかけていると、
その平民と、男爵令嬢と、ーーーーーーーーそして神樹の巫女がそこにいました。
「全く、私達も転生者なんだから隠すのは止めたらっ!?」
「そうなんですか……あ、クラーネ様。」
誘拐されたと思っていた男爵令嬢は私に気が付いた様です。
「リコさん、てっきり私は貴女がその平民に誘拐されたものとおもって居ましたけれど、違ったようですわね。
ですが、平民の分際で貴族の手を引いて連れ回すなどと流石に見過ごせません。
その者が鬱陶しいと言うのなら警備の者を喚びなさい。
この美術館にはその為に多くの騎士が巡察しておりますわ。」
……時折、絵に呑まれる様に眺め続けている様な勤務怠慢ともとれる絵画中毒者ばかりでいざという時にしか役に立たないかもしれませんが。
「いえ、でも……。」
「ほら、貴女が連れ去られた様子を見たのか警備の者が来ましたわ。
やはり下級と言えど貴族。
この間の平民の警備の者とは雲泥の差ですわね。」
「ちょっとアンタ。」
「後の事は警備の者に任せましょう。
所でこの美術館のアトリエには行かれましたか?」
「ちょっとアンタ私の話をーーーー「私は貴族と話をしているのです。家畜には聞いてないの。
そうよね、リコさん?」
「は…はい。」
「そうよね、ワカバさん?」
「……それは。」
「ちょっと、アンタ生意気過ぎじゃないの?
ゲームキャラのクセに。負け犬のクセに。
みんなみんな取られて無くなっちゃう設定のクセにっ!!」
先程からこの家畜は「テンセイシャ」だ「ゲームキャラ」だと家畜にしか判らない鳴き声をあげていますが、
この私を誰だか分かっていないのでしょうか?
この誰よりも美しい私を。
このヒュペルボリア一の美術館においてどの彫刻より美しい者など一人しかいないと決まっていますのに。
躾のなっていない家畜には調教が必要ですわよね?
「全く、平民に尽くさない領主に、平民が尽くすはずもないでしょっ!!」
「宇佐美やめよう。もうやめておこう。
これ以上はよくないよ。」
「…神樹の巫女様、これ以下だとしても十分良くはないのですが?
因みにこの平民はどなたの飼い者ですの?
飼われていない平民は入れないようになっているのですが。
もし、不法侵入ならば、此処に平民は来なかった事にして差し上げましょうか?」
この意味、お分かりですよね?
…私の手に乗った炎の雲雀を見て理解できない者は流石に居ないと思いますが。
「私の…友達です。」
あら、そうですか。
良かったですわ。イースの家の私兵が仕事の出来ない警備兵とは言わなくて済みました。
やって来た騎士達に大丈夫だと目で合図をすると一人を残してその他の者は去っていきました。
…この一人はいざというときの為、ということですか。
「…普段から貴女がその様に平民を甘やかしているから、
この様な付け上がりを生むのです。
親切は返すものではなく更に求めるものだと言うのが平民です。
其処に余裕が無いという理由にならない言い訳を持って。」
「……そんな事はありません。
ですが……。」
「…ですが、何かしら?」
貴女も難しい立場にいますからね。
平民を敵に回したらそれこそ支持者が減ってしまう。
だって神樹の巫女は平民を動かしたい者達にとって絶好の道具ですから。
平民を動かせる道具で無くなれば貴方の価値が落ちてしまいますからね。
「ですが、やっぱり国民あっての貴族です。」
それは貴族は国民では無いと?
私は貴族こそが国民で平民は家畜と思っていましたが、
貴族は国民では無いと巫女は言います。
「貴族が国民の枠組みに入らなければ何なのかしら。
神だとでも?」
「皆が頑張るには、皆が頑張れるように色々考えるのが、応援してあげるのが貴族だって私も思います。」
「その言葉そっくりそのまま御返ししますわ。
民が領主に尽くさないのに、
どうして領主が民の為に尽力しなければならないのでしょうか?
理解できないのならスケールを下げて差し上げますわ。
働きが悪い下男に待遇を良くする主がいて?」
「でも、食べるものも無ければ力だって出ません。
本も無ければ勉強も出来ません。」
「…セレファイスやティトゥスの領地の様に豊かな場所であれば平民の餌を大盤振る舞いしたところで余裕があるでしょう。
ですがそうでない領地を与えられた貴族はどうすればよいと?
…失礼ですがリコさんの所ではどうなされてますの?」
「わっ、私ですかっ?」
この場で私と話をできるのは3人しかいないでしょうに。
貴女と、巫女と、ーー1人残った警備の者ですわ。
「私は…、出来る限りの事をすれば、それ以上は無理だとしか……。
皆が皆頑張っていけば、全部良くなっていくのかなとしか…。」
…………何の内容も当たり障りも可も不可も無い回答ですわね。
私の中で彼女の家の評価が少し落ちました。
ですがいいでしょう。
何もない答えというのは取りようによってどれだけでも好きに解釈できる答えと言うことです。
「そこの平民のように発病した家畜を間引き、次代に良い種を残し、調教を施すのが良い貴族。
しっかり育って良い実りを生むのが良い平民。
それが各々の努力、ということですわね。
ーーーー違いますか? ピムノーツ男爵家のリコさん?」
「はい…。」
「巫女様もどの家も平民に無駄な贅沢をさせる余裕があるわけでは無いということ、
平民に親切にしても彼等には返せるものも無く、
貰った種を植えること無く、食べては次の種をくれと言うことしか出来ない生き物だと言うことを理解して頂ければと思います。
では、私も用事があるのでこれにてご機嫌よう。」
面倒事を終えて再び館内を歩いていると、カソーザ様が通路の向こう側から歩いて来られました。
ーーーこの方が、今日私が此処に来た目的ですの。
「ご機嫌いかが? クラーネさん。
本日は御来館歓迎致します。」
「カソーザ様こそ本日も麗しく御座います。」
歴代の火と水の公爵家は険悪だったが今代に於いてはかなり親交が深い、と言えるでしょう。
これは御母様とカソーザ様が昔からの友好があった事と、
エルトダウン家の最高権力者が王家から来たカソーザ様だということも大きいのだと思います。
カソーザ様は私から見ても御美しく、
常にしっとりと潤った髪と肌を持つ様な調えられた陰湿が服を着たイースとは違って、
どちらかと言えば見た目に関して言えば快活な覇気を感じられる美しさで、
洗髪に良いとされるエルトダウン家の地下水を汲みに行ったことからクルール様と懇意になられ、
当時の王陛下と、
その他のセレファイス、エルトダウンの両家が互いの利益を削り合うのではなく、
高め合う事を畏れた貴族達の有形無形の反対を強引に押し切って、クルール様との結婚を押し進めたそうです。
それまで王族に嫁いでいたのは国内では大抵セレファイス家でしたので、
その優位性を崩すとカソーザ様の母に当たるお婆様達にも大反対されたにも関わらず、
その時ばかりは娘ではなく王族の肩書きを持ち出して押し切ったと聞いています。
水の公爵家における唯一の鮮烈にして戦列な暖色。
いえ、熱色。
それが麗しきカソーザ様。
勿論、私が美しいのは火を見るよりも明らかで、そうでないと嘘を付く者には火を見せるだけでは無く、
火で炙って差し上げますが、そういう身の程知らずな美意識の欠如した者は未だ居ない様です。
王国民が減少する事が無くて良かったですわ。
「ところでクラーネさん?」
「はい、何でしょうか」
「甥と踊ったときいたのですが。」
「はい、1曲お相手つかまりました。」
「あの子とは、踊らなかったのね。」
「はい。」
「残念です。貴女にこの首飾りを譲るとばかり思っていました。
ですから、全然女性の気配がないにも関わらず、身嗜みに気を使わないあの子にも心配していなかったというのに。
ーーーーもっと厳しく躾るべきでした。」
…御愁傷様ですわ。私の幼馴染み…。
カソーザ様の『躾』は恐ろしいものだと聞いておりますから。
それにしても叔母様は私とイースが結婚するものと思っていたのですわね。
あの藍染真珠の首飾りは代々エルトダウン公爵夫人が身に付けるものですから。
言われてみれば昔からよく私の首にかけて下さっていたような。
…私はカソーザ様の時と違って御公認ということでしょうか?
いえ、別に私はイースと結婚とかそういうことをしたいとか思っていませんので、
関係とかありませんので。
ええ、そんな積もりは蝋燭1つ分もありませんわ。
「…あら、案外その気がなくても上手く結果が転がっていたのですね?」
「…どういう意味でしょうか?」
「判らないのならそれで良いのです。
私の間違いという可能性も十分ですから。」
…そういう積もりはありませんのに。