1章 無辜たる罪の代償
彼女は、何が何だか分からなかった。
会社でコンピュータプログラムの研究をしている時に、耳を突くような轟音で社内にまで響いた、パトカーのサイレン。
やがて多くの警察官に取り押さえられ、そのまま署にすら連行されず、刑務所に入れられたのだ。
多くの社員の冷たい眼差しの中、彼女は手錠をかけられてはパトカーに殴り込まれるかのように押し込まれた。冷たい感触が、嫌でも肌に触れる。
辺りを引き裂くかのようなサイレン。
大企業、プロメテイア・エレクトロニクス社の中で特に優秀と飾られた彼女が―――否応なしに暗闇の世界へ陥れられたのだ。残虐さは、燦爛たる彼女の未来を…深淵へと放り込んだ。
全国ニュースに於いても、彼女に掛けられた突然の逮捕の報道が流れていた。
「只今、プロメテイア・エレクトロニクス社に勤める社員、サニーミルク容疑者を、国家転覆容疑罪の疑いで逮捕されました。
―――サニーミルク容疑者は、自身の勤める会社で「インジケーター」と呼ばれる人造人間を開発し、国家転覆を図ろうとした容疑が持たれています。サニーミルク容疑者は―――」
パトカーの中で、何度も繰り返される発言。
多くの報道陣が駆け付け、そのカメラのフラッシュの中に彼女は佇まざるを得なかった。
濃度の高い涙が、頬伝いに落ちていく。やがて涙は梅雨明けの雫のように、座席に染みこんでいった。
遠く、朧げに視界に映えたのは……一緒に働いていた仲間たちであった。
悲しそうな面を浮かべては、唐突に逮捕された彼女を憐れんでいた。決して怒りや瞋恚を浮かべていた訳では無く、悲痛そうな魂の叫びを、サニーミルクの心に伝心させていたのだ。
「アイツ、何したんだ?」
「きっと、誰かを殺そうとでもしてたんでしょ。ホント、危ない人よね」
「帰れ!犯罪者め!そのまま刑務所で引っ込んでろ!」
パトカーのサイレンの中、そんな声が所々に聞こえた。
国家転覆容疑罪として逮捕された彼女は民衆の声も、しっかりと聞いていた。
突然降りかかった災厄。其れは彼女の人生を一瞬で引き裂き、途方に暮れた彼女を嘲笑うかのようであった―――。
今の彼女には、感情論しか語れない。論理的概念は、虚偽の世界では存在しないのだ。
彼女を乗せたパトカーは、ゼラディウス刑務所と言う場所に入っていく。
重々しいゲートを潜り抜け、耳元を急激な光が襲う。目を瞑って、その運命を覚悟した。
……嗚呼、これで私は死ぬんだ。
軍事国家、ゼラディウスに住む彼女にとって「刑務所送り」とは、「死」に恒等するものだった。
時は移り変わって、今の大統領はドレミー・スイートである。彼女は独裁政権を敷き、自分にとって面倒な存在を「刑務所送り」と言って、排除していく。
所謂、ゼラディウス刑務所は監獄なんかでは無く、「ギロチンへの階段」みたいなものであった。
生命への存を諦観し、彼女は下を俯いた。やがて何者かに引きずり降ろされるかのように外へ出されると、冷たい風が頬に触れた。
「サニーミルクさん!今のお気持ちは!?」
「どうしてこんなことをしたのですか!?」
彼女を待ち構えていた記者団からは、ご丁寧にもフラッシュと無数の質問を贈ってきた。
背を向け、歯牙にもかけずに刑務所の中へと入っていくサニーミルクに、記者団やリポーターは報道の為に必死に質問を投げかけた。
滑稽にも、無言のまま彼女は刑務所の中へと入っていき、お茶の間には彼女の真実が届けられることは無かった。
◆◆◆
こじんまりとした、煤けた牢屋。一応、手錠と言う枷は外してくれたが、心は曇天としていた。
鉄格子を前に、静かな部屋に閉じ込められた彼女は…ぼんやりと光る、天井の蛍光灯を見つめた。
白いタイルの地面の上で、大の字に寝ては…自らが蒙った運命と言う物を咀嚼していた。
馬鹿馬鹿しくなった。何故、自らが……研究を行い、最前列に立っていた自らが、こんな目に遭うなんて。
感情を露骨にしても、裁判で勝てる訳でもない。寧ろ、開廷さえしてくれない。
相変わらず、天井の蛍光灯は灯り続けていた。無情にも、彼女の想いさえ読み取ろうとせず、一方的な感情を押し付けているかのようであった―――。
百円ショップで売っていそうな、安上がりな一本足のテーブル。
その上に分厚い本が置かれていた。暇そうに手に取ってみると、それはキリスト教の新約聖書であった。
改めて、死を自覚した。唐突な終わり方であったが、何も悔いが無いような気がして。
―――愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。
―――愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
―――不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
―――そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
この言葉に、自らには「愛」を持ち合わせていなかったのか、と自身に疑を問うた。
聖書までもが、この世界に即していないと考えるようになった彼女は、聖書を投げ出しては再び大の字で寝た。
◆◆◆
「時間だ、来い」
鉄格子の奥で、彼女に死の宣告を告げた巡視官。
彼女をギロチン送りにする為に、今から刑務所内の教会へ連れて行こうというのだ。
此処に入ってから、たったの数時間。死刑、とも言われずにギロチン台へ送られるのは自らでありながら不憫にさえ思えていた。
手錠を再びかけられ、冷たい通路を歩く。
絶望に塗れた世界を尻目に、彼女は暗黒への世界へ旅立とうしていると思うと、やはり不安が残った。
唐突さもそうだが、やはり無罪の自覚がある以上、死んだところで天国には行けずに怨霊になってしまうのだろうか、と死後の世界も頭の中で思い浮かべてみた。
通路先に行き着いた、白い世界。
其処は刑務所内の「希望」と謳われる場所―――教会だ。
綺麗な白十字の彫刻を中心に、神父である人が彼女を受け入れた。巡視官は彼女の手錠を外すと、鉄格子の中の教会に彼女を入れ込んだ。押し出すかのように、乱暴な扱いで。
「時間は30分だ。それまでに生の時間を精々楽しんでおくんだな」
ぶっきらぼうに言われた彼女は、そのまま目の前の十字架を見据えた。
蛍光灯の光に、形作られた宝飾が呼応して光輝いている。燦爛な世界に、果たして自らは生への干渉が出来るだろうか……と、悩んで見せた。
「……哀れなる淑女よ」
神父はサニーミルクへ、そう述べた。
悲しそうな顔も見せていないが、かと言って怒ったような様子も指し示していない。
諦観していた彼女は、彼へ八つ当たりのような発言をして、自らの心の余裕を広げようとした。
「……だから何。私は…何もしてない。で、今ここにいる。
―――淑女、なんて綺麗な呼び名はやめてよ。…私はもうすぐ死神にでもなるのよ」
―――死神、か。
自らが言っておきながら、その音韻に端麗さを覚えた。
神父は居心地が悪そうな表情をしては、口元にほんの笑みを浮かべて、彼女に問いかけた。
「…このまま、死ぬのか」
「―――何を聞いてるのよ。神父なら、私をせめて天国に送るぐらいしてよ。
私は…無辜の罪を背負った存在。……自らがどう思おうと、世界が変わらないなら…無理だもの」
神父に背を向け、最後はかっこよく着飾ってみた彼女であったが…神父は有耶無耶な感情であった。
彼は彼女の真実を知っていた。彼女がプロメテイア・エレクトロニクス社に於いて研究の最前線に立ち、会社を育て上げた、所謂「母親」的な存在が、国家転覆なんて図る意味が無いからだ。
―――強がることが、自分の輝く人生を簡単に棒に振られた彼女なりの祈りなのだろう。
事実、彼女は強がっていたものの……どうやら顔では嘘を付けなかったようであった。
「……こっちを向け」
神父はハンカチを懐から取り出しては、声に反応して振り向いた彼女の涙腺を拭き取った。
すると神父は彼女に、投げるように変形式の鋼鉄の剣を手渡した。
其れは折り畳み式で、引き金のようなものと柄が付いている。銃と一体化した剣である。
青いラインが特徴的の、余り見ないようなデザインの剣であった。サニーミルクは唐突に渡され、当惑していた。
「こ、これは……」
「…お前がもし、自らの命の存に完璧に諦観出来ていなければ…其れを使え。
―――"ゼラディウス・ウィング"……通称「礎の翼」とも呼ばれている代物だ」
「私に何をさせようって言うのよ」
彼女は神父に問うた。
それもそうだろう、死に際の彼女に剣を持たせたのだから。
まるで刺し殺せと言わんばかりの行動に、サニーミルク自身も戸惑っていた。
「……この国は腐っている。ドレミー政権が確立されてから、独裁も比喩では無い。
―――世界を救うんだ。私は私の責任で、お前をここから出そう」
鉄格子が、開け放たれた。
今日は驚きっぱなしである。何せ、逮捕されて絶望に暮れていた矢先にこれなのだから。
鋼鉄の変形剣は蛍光灯の弱々しい光を反射し、尚煌めいている。
「…その代わり、条件がある。……アルカナ党に行け。
其処が少なからず…お前を助けてくれる者達がいる。国家転覆の容疑は辛いぞ」
アルカナ党、と言うのは野党の一つである。
今現在、与党となって独裁政権を敷いているゼラディウス党に抗いを見せる政党である。
大きさは其処まで大きく無いものの、ゼラディウス党がアルカナ党を放っておいたのはアルカナ党の後ろ盾―――プロメテイア・エレクトロニクス社の存在であった。
サニーミルクはプロメテイア・エレクトロニクス社に勤める優秀な技工員だ。彼女の名はアルカナ党に広まっているのも、辻褄が通った話だ。
「…お前が元来た道なりに行けば、出口がある。
巡視官用のバイクが置いてあるから、それを用いて逃走しろ。―――いいな」
サニーミルクは…彼女なりに、静かに頷いて見せた。
無論、当惑もあった。だが、自らが何処かヒーローのような気分もしては、居心地悪くなかったのだ。
彼女はゼラディウス・ウィングを片手に、自らの進むべき道…それは果てしなく獣道であったが、無理やり与えられた道を歩まぬわけにはいかなかったのだ。
「貞操概念は守って生きてきたつもりだけど……もう赦されないみたいだね」
風を切って、彼女は飛び出した。
教会の中で、静かに佇む神父を背景に走り行く勇者は、果たしてその眼に何を映したのか。
そう―――これこそが、彼女の歩んだ冒険譚の始まりであったのだ、と。