老犬ジョンが吠えるとき
…本当に強い犬は、滅多な事では吠えない…。
初めてジョンを見た時、なんて惨めな犬なんだろうと,十歳の僕はそう思った。
犬小屋も,ジョンと同じで今にも崩れおちそうだった。平屋の家の前には小さな庭があり、草があちこ家の中からろちろ生え、犬小屋をとりかこんでいた。
その小さな庭に、その日もジョンは寝そべっていた。小学校の帰り道に拾い集めた小石を、僕はその日も,小さな左手に握りしめていた。
僕は小石をひとつ右手に掴むと,傷んだバナナの皮の様なジョンの体をめがけて,なげつけた。小石は、ジョンのお尻にめり込むように、当たった。だが、小石があたった音もしなければ、ジョンの泣き声もしなかった。
繰り返し僕は、小石を投げ続けた。ぐにゃぐにゃした脇腹に,しめった後ろ脚に、乾ききった鼻先にと投げ続けたが、ジョンは時間が止まったかの様に,ずっと同じ姿勢のまま寝そべっていた。
なんて元気のない犬なんだ。「生きているのか、死んでいるのか、はっきりしろ!」と僕は叫ぶと、最後の石をジョンにめがけて、思いっきり投げつけた。
ざらざらした小石が、ジョンの左目の上に当たった。ジョンは湿った地面にうずめていた顔をゆっくりと持ちあげると、のっそりの起き上がり,そばの犬小屋へもぐりこんだ。
ワンッのひと泣きでもしろ!とぼくは声をあげた。すると、平屋の中からゴソゴソと音がしたかと思うと、コーヒ一色をした古い玄関の引き戸が、ガラガラっとゆっくり開いた。
引き戸と同じ位の速度で、中からおじいさんがゆっくりと出てきた。
僕は,おじいさんの家の傍らにそびえ立っている南天の木の陰に隠れて、様子を見ていた。
「…ジョンよ、そろそろ散歩に行こうか。暑いのに小屋の中に入ったままだと、体に良くないぞ…。」
おじいさんはそう言うと、ジョンの首輪につながっている紐に手をかけた。そばに打ちこんである杭から灰色のねじり紐を抜き取ったが、ジョンは犬小屋の中で、じっとしたままだった。
ジョンよぉ、こんなにいい天気なんじゃ。そんな所にいっまでもいると、走れなくなるぞぅ。泉公園に行けば,まだ紫陽花も少しは残ってるはずじゃ。ほら、どうした。.....あぁ...今日も駄目かぁ....わしと同じで歳をとると、歩くのも億劫になるのかのぅ。
おじいさんはそう言うと,ジョンの首輪に繋がれていた紐を、杭に戻した。
頭が禿げて,真っ白な髪が少し残ったおじいさんが、門をあけて庭から外に出てきた。電信柱の陰から,そっと覗き見をしていた僕は、慌ててその場を離れて家へと帰って行った。
....あの間抜け面のジョンめ....なんてやる気のないだなんだ....まあ今日はこれ位にしといてやろう....明日はもっと石を投げつけてやるぞ.....。そう思いながら、僕はランドセルをゆっさゆっさと揺らしながら、帰っていった。
次の日、終礼のチャイムが鳴ると同時に、僕は小学校の裏門を駆け足で出ていった。昨日よりも大きな石ころを拾い集めながら、民家の間を僕は通り抜けて行った。坂道をかけあがり,頂上の朝日神社にきたときには、僕の小さな両手は石ころでいっぱいになっていた。
ハァハァといいながら,僕は長~い坂道を下っていった。大きな南天の木が、坂道の向こうに見えてきた。僕は歩調をゆるめると,辺りに誰もいないか確かめながら、ゆっくりゆっくりとジョンのいる家へと近づいていった。
いたいた。相変わらず今日もだらしない格好で,ジョンは寝そべっていた。いいか、今日こそお前が吠えるまで,石を投げつけてやるぞ!
僕はかき集めてきた石を、ジョンにめがけて次々と投げはじめた。
ところがジョンのやつ、傷んだバナナのような色をした毛並の腹に当たろうと、お尻に当たろうと、顔に当たろうと,吠えるどころか、身動きひとつしないで,犬小屋の前で寝そべり続けていた。.
なんとか言え、この野郞!と僕は叫ぶと、手のひらに残っていた石を,まとめて投げつけてやった。
さすがにこれにはジョンもまいったのか,当たった顔のところを前あしでこすりながら、犬小屋へと入っていった。だけど、これで満足する僕ではなかった。なんて情けない犬だ!悔しかったら、ワンッの一声でもしやがれ!そう怒鳴りつけながら、僕はその場をあとにした。
次の日も,ヌその次の日も、僕は石を拾い集めては、同じことを繰り返した。だけどジョンはいつも寝そべってばかりで何の反応も見せず、生きているのか死んでいるのか,分からない程だった。
毎日,石を拾い集めていた為、そのうち石を探すのにも,一苦労する様に、なってきた。
けれど、いけない事ではあるが、弱いものいじめに満足感を得ていた僕は、小石を集めては、ジョンに投げつづける行為を、毎日続けた。
6月も過ぎ7月に入ると、まちにまった楽しい夏休みがやってきた。
「みなさあん,いいですか。不規測な生活にならない様,早寝早起きを心掛けて、夏休みを過ごしてくださいね。」と,担任のまち子先生が言った。
通信簿の“あゆみ”をもらう頃には、僕は机の上にのせたランドセルに手をかけ,教室から早く出て行きたくて,うずうずしていた。
「最後にもうひとつ!」と、まち子先生が言った。「最近,のら犬がたくさんウロウロしているらしいから,みんな気をつける様にね。」と,つけ加えた。
それではみんな楽しい夏休みを過ごして、9月に又あいましょうね。と、まち子先生が言うと、起立、礼の号礼がかかり、さようならの挨拶をすると、僕は誰よりも早く教室を飛び出していった。
いつもの様に、帰リ道をキョロキョロしながら、石を拾い集め進んで行った。日増しに、転がっている石は、少なくなってきていた。
ひとつの石も見当たらないじゃないかあ。これもみんなジョンのせいだ。あいつさえ吠えれば、こんな苦労しなしてすむんだ。
いつもの神社にくるまで、結局2,3個の石しか見つからなかった。これだけの石なんか,なんの役にも立たないや。うつむいていた僕の目に、足元の砂利が目に入ってきた。そうだ、今日は最後の日だし、この砂利をまとめてふりかけてやれ!
僕は必要のなくなった小石を、鳥居の上に順番に放りなげた。
そう~れ、ジョンのやつが吠えます様に。と、願いをこめながら、ひとつめを上に投げる。上手く鳥居の上にのれば願いが叶う。誰に教わったのか忘れたが,僕はそう信じていた。
もちろん、そう簡単にはのってくれない。あの老犬のジョンが吠えます様に。と、僕は願いをこめる。だが、石はまた下におちてくる。ええい、あの老犬ジョンが吠えます様に!と、力をこめて最後の石を僕は放り投げた。、、、、と、石は落ちてこない。....やったあ~,ついにやったぞ!僕は大急ぎで、砂利を左右の手にそれぞれ握りしめると、朝日神社をあとにした。
坂道を急いで駆け下りていくと,間抜けなジョンが、今日もだらしなく犬小屋の前いた。見てみろ、今日は砂利だぞ。その間抜けな顔も、この砂利の固まりにはかなわないぞ。
これでも,くらいやがれ!僕はそう叫ぶと,右手いっぱいに握りしめた砂利の固まリを、ジョンの間抜け面に投げつけてやった。
砂利は,ジョンの顔に命中した。しかし,ジョンはほんのわずかに首を振っただけだった。もう一回、くらいやがれ!と僕は叫ぶと、残りのの砂利をジョンの眼をめがけて、思いっきり投げつけてやった。
少しは痛みを感じたのか、今度はすごすごと逃げる様に犬小屋の中に入っていった。
....この根性なしの老いぼれ犬め、いつまでもいつまでも、そうしてうずくまっていろ。今日から夏休みだから当分こないけれど,安心するなよ。9月になったら、ヌ毎日くるからな。これですんだと思うなよ!おまえが吠えるまで、絶対にあきらめないからな。
そう言うと、僕はおばあちゃんが待ってくれている、長屋の家に帰っていった。
蝉の鳴き声が、今年もあちらこららで聞こえはじめていた。宿題は山ほどあるのに、部屋の隅においたままであった。友達と,亀やトンボをつかまえに行っているほうが,ずっと面白いや。
そんな風に僕は夏休みを過ごしていた。間抜け面のジョンのこと等、僕はすっかリ忘れていた。
8月に入ると、地域の朝日神社でお祭りが始まった。僕はいつもよりたくさんのお小遣いを母ちゃんとおばあちゃんに貰うと、小走りに家を出て、誰よりも早く朝日神社についた。金魚すくいや,空気銃でのあてもの等を僕はして楽しんでいた。すこししたら友達もやってきて,みんなでわいわい話しはじめた。でも話しているみんなの思いは唯ひとつ、空くじ無しの当て物屋で、1等賞の空気銃を当てる事だった。
残り少ない小遣いで、六角形の細長い木筒に入ってある箸を,みんな順番に引いていった。
けれどトランプや、ゴムで出来たカブトムシ、スーパーボール等を当てるのが精一杯だった。
僕の順番がきた。六角形の筒をもちあげ、ゆっくりと逆さにすると,中からすぅ~と箸が1本出てきた。見ると、削れた部分に赤色で3と記されたいた。
あ~ぁ、空気銃は逃しちゃった。でも3等でも当たっただけいいや、何が当たったんだろう?と思っていると,カランカランカランっという音が,目の前で鳴り響いた。
はぁ~い、でましたでました,遂にでました3等賞。坊っちゃんおめでとう。はい、じゃあこれは今から僕のものだよ。と、真っ黒に焼け焦げた顔のおじさんが言って、僕の前に大きな箱を出してきた。小さな手で受け取ると,周りのみんなが、なんだなんだ?と言って集まってきた。
プラスティックの箱を通して中を見ると、黄色い銀玉鉄砲が入っていた。そいつを見るや、僕の頭にハッといい案が思い浮かんだ。
名案を心に隠し持ったまま、箱から銀玉鉄砲を取り出すと、とりあえずみんなと刑事ごっこをして遊んでいた。しばらくすると、境内に放送が流れはじめた。
~良い子のみなさん,もう9時になりました。早くおうちに帰りましょう~
あとは,大人の時間だ。子供達が帰ったあと、大人達がよりあっまってビールを飲むのを,僕は知っていた。子供達はみんなぞろぞろと,帰りはじめた。
銀玉鉄砲の使いみちで名案を思いついていた僕は,大人達に見つからない様に、神社の裏の神木のうしろで、密かに予行演習を始めた。
よう~し、この銀玉鉄砲であの老犬ジョンを撃ちまくってやるぞ。小石では吠えなかったジョンも、この銀玉鉄砲をくらえば、泣き声のひとつでもあげる違いないや。
幼い僕は本物の拳銃を持ったかの様な気分になっていた。
今日こそジョンが吠えます様に。今日こそあの老犬ジョンが吠えます様に。と、銀玉鉄砲を両手で握りしめながら,僕は神木に向かって空打ちを繰り返していた。
おい、坊主。そんなところで何してる?さあさあ、子供は早く帰るんだな。と、お酒くさい息のおじさんが,そう言ってきた。僕は小さく頷くと、もう大人しかいない神社を小走りにかけて、鳥居をあとにした。
思った通り、邪魔をする者はもう誰もいないや。坂道を下っていきながら、ジョンをやっっける事で、僕の胸はわくわくしていた。祭りの灯りや笑い声が,小さくなっていく。早打ちガンマン,ミスターキッドだ!僕は心の中でそう叫んでいた。
あの間抜けで老いぼれ犬のジョンを、今日こそは何がなんでもこの銀玉鉄砲で,吠えさせてやるぞ!と、意気盛んにいた僕だったが,いきなり地獄に突き落とされた。なんと目の前に、真知子先生が注意を呼びかけていた,大きな黒い野良犬がいきなり現れた。
そいつは、あの野良犬独特のごつごつした体つきだった。狂った様な顔で舌を出し、目の前の獲物を,そう僕自身を睨めつけながらゆっくりとこちらへ近づいてきた。
....殺される....噛みつかれる....噛み殺される........。僕の手から銀玉鉄砲がカチャンと落ちた。両手両脚がブルブルと震えはじめた。そんな僕に追い討ちをかける様に、そいつの後ろからもう一匹,野良犬があらわれた。最初の野良犬より小さかったが,そんな事は今ではもう関係ない。とにかく2匹の野良犬の餌食に、僕はなろうとしていた。
.....あぁ,もうだめだ....殺されちゃう....。僕はその場にへたりこんだ。と、その時だった。野良犬の中でも,いい犬もいるものだ。小さい方の野良犬が,まるで僕を護るかの様に、大きな野良犬と僕の間に立ちはだかった。その小さな野良犬は,大きなごつごつした体の野良犬に向かって,吠えはじめた。
ワオ~~ン,ワオ~~ン,ワオ~~~ン,と。その吠え声たるやいなや、日本中の犬が目を覚ますと思える程の、地面を揺るがす、太く逞しい堂々たる吠え声だった。だけどいくら吠えても、何倍もある大きな野良犬に対しては、何の効果もなかった。大きな野良犬は僕に噛みつく前に、小さな野良犬にとびかかった。
ワオーン,ギャウ~ン,ガャオーン,ギャ~ン,ワォーン,と僕の前で死闘が繰り広げられた。大きな野良犬相手に小さな野良犬は吠えまくり、飛びこんでいった。まるで大きな虎と小さなねずみの戦いだった。
それでも小さな野良犬は,最後の最後まで僕を助けてくれるかの様に、激しく吠えながら闘ってくれた。しかしとうとう、首もとを噛まれたまま,ぐったりと倒れた。
小さな野良犬が血まみれにならながら倒れると、大きな野良犬は次の目標である僕に顔を向けた。狂った眼でよだれを垂らしながら,僕に近づいてきた。
腰の抜けた僕は、へたりこんだまま全身をぶるぶると震れせていた。.....噛み....殺さ....れる.....と、その時だった。僕の背後から車が走ってきて,ライトを照らしたまま止まった。大きな野良犬は明るいライトの光にびっくりしたのか,走リ去っていった。
どうした坊主?大丈夫か?と言って、軽トラックからおじさんが出てきた。と、同時に前方からよれよれとした足どりで,男の人がこちらに向かってくるのが見えた。その男の人は、ぐったりと倒れこんでいる野良犬の前までくると、叫んだ。
おぉ、何て事だ....。
その男の人の声をきくと、血まみれになった小さな野良犬は、最後の力を振り絞るかの様に、ゆっくりと立ちあがった。
車のライトに照らしだされた小さな野良犬を見るや、僕は息が止まった。
そう、大きな野良犬から僕を護るために、カの限り吠えて闘ってくれたのは、紛れもなく、あの老犬ジョンだった。
その夜、僕はどうやって家にたどりついたのか、覚えていない。
坊主、大丈夫か?おぉ、ジョンよ。しっかりとするんだ。
と、声が飛びかっていたのが,うっすらと頭の中に残っていた。法被をきた大人の人がたくさん集まってきてたと思う。そのあと転トラックのおじさんの車で家迄送ってもらい、おばあちゃんに抱きつくと、そのまま眠りにおちた。
はっきりと覚えているのは、ライトに照らし出された、勇敢なジョンの姿だけだった。
怖さとショックのあまり、僕は3日ほど家を出なかった。だけどジョンの事が気になり,おじいさんの家をおそるおそる訪ねた。着くと、ジョンの犬小屋は確かにあった。が、肝心のジョンはいなかった。庭を取り囲んでいる鉄柵に身をのり出して,犬小屋の奥まで覗きこんだが、やっぱりジョンはいなかった。
唯、ジョンがつながれていた鎖と、おれた棒とが犬小屋のそばにあった。どこにいったんだろうジョンは?と思いながら,家のまわりをうらうろしていると、僕の様子に気づいたのか、家の中からおじいさんが出てきた。僕がもじもじとしていると,あぁ、この間の坊やか。と、言ってきてくれた。僕がこくりと頷くと、おじいさんは門扉を開けて、犬小屋のある小さな庭に入れてくれた。
ジョンは、ジョンは?と僕がきくと,おじいさんは優しい眼差しを浮かべながら、大きな青空を目を向けた。それがどういう事か,子供の僕にも分かった。
そう、ジョンは天国に召されたってことが.....。
僕は今までしてきた事を黙っていられなくなり、涙ながらおじいさんに話した。毎日小学校の帰りに石を拾い集め,何をしても吠えないジョンに投げつけていた事を.....。
おじいさんは,しわくちゃの顔に優しい眼差しを浮かべながら,黙って僕の話をきいくれていた。僕が話し終えると,ゆっくりとこう言ってくれた。
....正直な事は良いことじゃ、と。僕が謝ると,おじいさんは首を横に振り、こうつけ加えてくれた。
ジョンがあんなに吠えたのをきいたのは、何年ぶりかのう。ジョンも,もう歳で,人間で言えば百歳をとうに越しておったんじゃよ。ここ1,2年は食欲もなく,いつ亡くなってもおかしくなかったんじゃ。....あの夜,ジョンの吠える声が急に聞こえてのう..何事かと思いわしが庭へ出ると、ジョンのやつ、つながっていたあの棒をへし払ってのう、柵を超えると表へ飛び出していったんじゃ。 あんなカがまだ残っていたとはのう....。きっと、坊やを助けるのに必死だったんじゃろう。あの吠え声をきいただけで,わしは満足じゃ。ジョンも、最後に人助けができて、きっと喜んでるはずじゃよ....。
もはやジョンは,老犬ではなかった。僕の中では、チャンピオンの中のチャンピオンになっていた。
僕はジョンからたくさんの事を学んだ。又、それ以後、僕は動物を决していじめなかった。もちろん人に対してもそうで,弱い者いじめもしなかったし、している友達がいれば注意した。
あの晩,野良犬から僕を護るために,いくら石を投げても吠えなかったジョンが,命をかけて吠えてくれた。僕を助ける理由なんて全くないのに、ジョンは石を投げ続けていた僕を、必死で護ってくれた…。
ジョンがいなくなった犬小屋の前に座り、そんな事を考えていた僕に、おじいさんがそっと呟いた。
....本当に強いものは滅多な事では吠えないんじゃ.....。
お祭りがくる度に,僕はジョンの事をおもい出す様になった。ジョンは確かに老犬だった。だが,立派な老犬だった。