ヴァルハラの鐘 8
獅子が駆けて、空を舞う。
その度にルゼの黒い羽が風をきって、高い金属音が鳴る。
キスククの剣は重く、何度も受け止めきれないのだろう。最初こそ黒い鎧でいなしていたが、次第に避けたり槍でいなすようになる。
獅子も素早い。獅子の動きが早く、ルゼが槍をついても尻尾をかするばかり。
とはいえ、キスククの腕や手はその剣の重さで、そろそろしびれてくる頃だろう。
私も隙あらば羽を狙おうとしているのだが、なかなか下にまで降りてこない。
「キスクク!気を付けて!」
「くっ…獅子!次が最後だ!」
真っ正面から剣を振りかざす。ルゼも防御を捨て、槍を構えた。
「うああ!」
うめく声をあげたのはキスクク。
彼の肩は槍に射ぬかれていた。ルゼの早さの方が勝ったのだ。
「キ―…!」
『―…まだだ』
射ぬいたままの槍を重心にして、獅子は体を曲げてその鋭い爪をルゼに向けた。
それが実は狙いだったのだろう。
獅子の爪がルゼのひび割れた鎧を切り裂くのは容易だった。
キスククが散々斬りつけて、強度を奪っていったのだから。
そして彼は肩に刺さった槍とルゼの手を押さえつけ、身をていして彼女が逃げられないようにしていた。
…本当に、強くなった。
「キスクク!!」
私に羽を落とせと言われていたが、獅子の爪はルゼの方翼まで伸びていた。
合わせたように三人はあっという間に地に落ちる。
獅子は着地したが、乗っていたキスククはその衝撃にすら耐えられない。
ごろん、と地に落ちた。
慌てて駆け寄り、彼の肩を押さえるが、血がさらさらと流れていく。
「やー…さすがに痛いっすね…」
軽口を言ってはいるが、怪我を負った瞬間というのは気分が高揚しているので存外痛みを感じにくい。
とはいえ、今は良かったのかもしれない。
この傷口は、正気になれば失神してしまうくらいの激痛を伴うだろう。
『―…きたか』
「え…」
獅子の声で、ようやく気配に気づく。
ルゼが倒れた所に、奥からまるで霧の向こうから現れるように、人影が浮かび上がってくる。
それはどんどん形を作っていき、一人の女性の姿になった。
「…ルゼと瓜二つじゃないっすか?」
現れたのは、着ているものこそ違うものの、見たことのある…彼女の足元に転がっているルゼの姿そのものだった。
白い一枚の布で全身を覆っているような、神々しい姿。
長い、たおやかな髪…ただ一つ違うのは、その表情。
笑みのない、強い瞳。
「あなたが…女神なの…?」
『いかにも、我が名はヘルフィヨトル。
我こそがこのヴァルハラの主、そして秩序の神』
たっぷりの間合いがあった。
まるで頭の中で響いているような、不思議な声。
『我は待っていた、次の資格者を。
もはや我に、この地の秩序を護る資格はない』
続けて足元のルゼに目を向ける。
『人間のような心をもって、我が心乱したが故に、使い魔にすら枷をはめられず…。
このようなあさましき遊戯すら許してしまった。
もはや一刻も早くヴァルハラの鐘を鳴らし、この器を次の資格者に授けたい』
女神は慈愛に満ちた目でルゼを、そして獅子を見た。
まるでいとおしい者を見るかのような。
私は直感する。
「心乱したって…まさか、女神様は」
獅子の前の姿は、暗い瞳をした男。彼は山の存在を知っていた。
もしかして、二人は…
『そなたの考えている通りだ』
想いを交わしあった…?
私が口にする前に女神は頷いた。
ヴァルハラの女神は、ヴァルハラの戦士と恋に落ちてしまったのだ。
確かにそんな心では秩序なんて護れないのかもしれない…。
誰かを特別に思うことを、神様がしてはいけない。
「次の資格者ってのは、メアさん、なんすか?
メアさんは、どうなるんすか?」
肩を押さえながらも、体を起こそうとするキスクク。
思わず支えるが、私のことより自分のことを心配すべきだ。
『この娘は資格者ではない』
「は?」
「…まさか…」
選ばれるという自信があったわけではない。
でも、それだけはないと、思っていた。
『次の資格者は、そこに倒れている男だ。
…秩序の神たる資格者は、このヴァルハラで最も罪深い者。
ただ一人、このヴァルハラに残る運命の者。
それが資格者だ』
「そん…な…」
口の中が渇いていく。
そんなはずない。
キスククは、誰より戦いを嫌っていて、来たのも最近。
私や言ってしまえばレド隊長の方が、たくさん戦っているし。
罪深いなら、キスククは最も遠いんじゃないのか?
「女神様、キスククのどこが罪深いって言うんですか?
彼より、私の方が血を浴びてる!
彼はヴァルハラでは一度しか戦ってない…!」
『―…その一度、というのは僕のことだろう?
悪夢』
黙ってみていた獅子が、私に諭すように口を開く。
『―…あの日、僕は山を降りたんだ。
だから前日にヴァルハラの酒を口にしていない。
―…君は知っているだろう?
一度山に登り、酒を口にしなくなると
僕たちは不死ではなくなり、本当に死んでしまう』
「あ…!」
目を見開く。
…それなら。
あの時、キスククが手にかけたなら、
『―…魂となった僕は、そこの悪魔の女に見つかり、獅子へと体を変えられていたんだ。
自暴自棄になって殺された僕が悪いとはいえ、酷い遊戯に付き合わされた。
なんとか記憶を取り戻したけれど、今の僕は死んでいるのと同じだ。
ヴァルハラが閉じれば、僕の魂は消滅する』
「そんな…の、おかしいよ」
彼は、キスククは、私が殺されたから。
だから、たった一度なのに。
それが罪深いだなんて、そんなの。
命に重りがあると言う訳じゃないけれど。
「いいんすよ、メアさん」
軽い口調。キスククは屈託ない笑顔だった。
だが、痛みを感じ始めたのか、少し曇っている声。
「そいで…女神さん、俺はどうすればいい。
このヴァルハラの戦いを止める鐘を鳴らすのは、どうやればいいんだ?
皆はどうすれば元に戻れる?」
キスククの言葉に、一歩近寄る。
ひどく冷静に、女神の言葉は続いた。
『次の資格者は魂を、この神たる器に入れ換える。
不要となった我の魂が、このヴァルハラを閉じる鐘を鳴らし、戦士たちを元の世界に還す。
…明瞭だろう』
まるで罪人への刑だ。
いや、真実そうなのかもしれない。
このヴァルハラで神として戦いを見守りながら、何もできない。
孤独の罪…目の前の女神も元は人間だったのだろう。
神槍との出会いは、この循環から外れたイレギュラーなことだったのだ。
彼女に人間の心を呼び覚ましてしまった。
結ばれてはいけない、恋…。
「待って。
器となった者や器を引き継いだ資格者はその後どうなるの?」
私の言葉にも、女神は表情一つ崩さず淡々と答える。
『知れたこと。
次に開かれるヴァルハラのために、資格者はこの次元で悠久の時を待つだけだ。
そして再び閉じる時、資格者へと器を繋いでゆくだけ…
器より解放された魂は…消滅する』
ちらり、と獅子の方を見る女神。
…そうか。
彼女たちはもはや結ばれることはないと分かっていたのだ。
だから、女神はずっと待っていたのだ。
ヴァルハラを閉じる次の資格者を。
ルゼが悪戯をしなければ、ずっと早くヴァルハラは閉じられたのだろう。
自暴自棄となった…と、獅子は言っていたが、消滅するしかない運命の女神を諦めきれず、
先に消滅してしまおうとか…考えていたのかもしれない。
そして、その相手は…きっと私にと思っていたのだろう。
油断していなければ…。
悔やまれる。
キスククではなく、私が手にかけていたなら…。
「あのー、女神さん、も一個質問なんだけど」
横になったままのキスククは、道でも聞くかのように話しかけた。
「ヴァルハラから還った人たちの記憶ってどうなんの?」
『この次元から戻れば…記憶は残らない、誰の記憶にも。
このヴァルハラで起こった全ての出来事の記憶がない。
ここで出会ったすべての戦士たち同士の記憶も、資格者に対して記憶もない。
ただし、資格者たる者だけは次元を離れない為、記憶が消えることはない』
「あーなるほど。
そんなら、安心した」
痛む肩をかばいながら、キスククは体を起こす。
私は慌てて彼を支えた。
それにしても…能天気な彼が信じられない。
「なにが安心なのよ。あなた…独りになるのよ?
誰もあなたのことを覚えていない。
そんなの、すごく寂しいことじゃない…!」
私の言葉にも、キスククは嬉しそうに笑うだけ。
なんで。なんでそんなに平気なの…?
私ならこのヴァルハラで何度も人を殺してきた。
恨まれてもいいと思うほど、残忍な殺し方もした。
この頃は人を殺す罪悪感すら感じなくなっていた。
そんな私なら、この罪を受け入れることができる。
でも…キスククは違う。
彼は、彼は……
「俺はメアさんが好きっす」
「…え?」
キスククは照れながらも、真っ直ぐした目で。
「ずっと、
このヴァルハラでメアさんに助けられてから、
ずっと、好きでした。
いつか言いてーなーって付け狙ってました。
戦う理由が不純な動機で、すんません」
「……」
「だから、いーんすよ。
メアさん、むちゃくちゃ強いんすもん。
無理無理。こんな短期間じゃ盾にもなれないし。
俺が力になれるとしたら、このチャンスしかない。
しかも記憶もなくなるって事だし、メアさんに苦い思いとか引きずらせなくていーじゃないっすか。
ぶっちゃけ、嬉しいっす」
ようやく、言えたし。
そう言って笑う、すっきりした声のキスクク。
「そんな…」
嬉しいとか、そういう感情じゃない。
沸き上がってきたこの気持ちは…
「どうしよう…
私に、そんな資格…ない…!」
罪悪感。
罪悪感だった。
人一人の運命を変えてしまった。
未来ある、彼の世界を閉じてしまった。
そして、私はその事を忘れてしまうのだ。
なんて酷い罪だろう。
「メアさんは、俺の憧れだったんすよ。
さっき、寂しいって言ってくれただけで俺は満足っす」
彼はありがとうございました、と軽く頭を下げた。
そしてそのまま、なんともあっさりと…
キスククは女神の方に向き合う。
「じゃ、よろしく」
『…では、私の手を取れ』
そして、開かれる、女神の手のひら。