ヴァルハラの鐘 7
私はあまりお喋りな方ではない。
それはここに来たからよりそうなったのだが、もとの世界でも人見知りする方だった。
私の事をどう思っているのか、そう考えるのも怖い。
だから和を広げることもなかった。
けれど、フィヨルは近づいてきてくれた。
短い間なので、そんなに思い出すほどの過去は少ない。
でも、このヴァルハラで少しでも笑うことができたのは、フィヨルのおかげでもある。
少なくとも心の許すことのできる奴だと、そう思っていたのに。
…もちろん、それは私の勝手ではあるけれど…。
「嘘?」
振り向くフィヨルは、首をかしげていた。可愛らしく。
「フィヨルさんはどんな嘘をついてるってーのかな?」
…引き返すことはしない。
私は意を決して、疑問を口にした。
「フィヨルは、本当に女神なの?」
まるでそれがスイッチだったように、フィヨルの姿が消えた。
…疑問は、確信に変わる。
「…え、消えた…?」
キスククに剣を握るよう促し、私も刀に手をかけた。
周りの景色は変わらない。
青々とした草原。…最初からここにずっといたのだろう。
つまり、私たちは一歩も先に進んでいなかったのだ。
『――誰かの入れ知恵?』
再び姿を現したフィヨル…いや、彼女は誰なのだろう。
黒い鎧で顔まで隠し、表情は読めない。
声がフィヨルのそれだという手がかりだけ。
『自我は完全に消したつもりだったけどー…
甘かった、かな?』
彼女の手には神槍が持っていたのと同じような槍。…いや、恐らくあの槍なんだろう。
私は刀を抜きながら、心を固くする。
「フィヨル…貴方が彼を奪い、このヴァルハラを閉ざしているのね?
女神はどこ?」
『メアって鈍いし、頭悪いよねー』
風を射ぬくように勢いよく槍が足元へ。
私は軽く後ろに下がり、そのままフィヨルの方へ跳躍する。
私の刀の柄とぶつかるフィヨルの黒い鎧。鈍い音が響く。
『フィヨルさんってば罪作りー!
ねぇねぇ、メアは誰の声を聞いたの?
もしかして敵軍の奴とかじゃない?
あの人はねぇ、嘘つきなんだよ。
というか、元々敵の話なんか信用して聞いちゃダメでしょ』
…嘘?
「メアさんから離れろっ!」
さすがにキスククの剣では傷がつくと思ったのか、フィヨルは飛ぶように避ける。
『おおっと…キスククくん、変わり身早すぎでしょ。
あたしのこと敵だとか思っちゃったの?
まだその判断早くない?』
「…いいえ、早くないわ」
私は、黒い鎧のフィヨルに刀を向けた。
『えー、ちょっとちょっと!
メアもよく考えてよー。
だいたいメアが聞いたお話はなんだか分からないけどさ、それが確かだっていう確証とかあるの?』
「それは…」
―――ない。
どこからか分からない幻聴を聞いて、それが敵軍にいた男…しかも私を殺した…彼の声だった。
確かに、それが真実だという確証は限りなく低いのかもしれない。
フィヨルを納得させるだけの、かっこいい推理小説の探偵のような圧倒的な論破はできない。
けれど、それでも。
「…私の、勘よ」
『………』
フィヨルは絶句している。
キスククも後ろで息をのんでいた。
でも、不思議なくらい不安感がなかった。
『勘って…そんなのズルくない?』
ゆらり、と鎧が揺れる。同時に槍の切っ先が私の眼前に。
思わぬ速さに避けきれず、私の頬には傷。
ぱたた、と草原に赤い血が数滴垂れた。
『そんなの、否定もできないじゃん』
ばさ、と黒い羽が鎧の背中から生える。
どんな仕組みなのか分からないけれど、鈍い光を返すそれは、とても美しかった。
「フィヨル……お前、マジで…」
『楽しかったのになぁっ!
このままずっと、あたしの箱庭にいてくれたら良かったのに』
かしゃん、と音をたてて鎧の面を空に放る。
その顔はやっぱり、フィヨルだった。
にこにこしたまま…でも、笑顔には狂気さえ感じられる。
「私の言葉はどこまで合っているの?」
刀を下げず、警戒したまま私は刀を彼女を見た。
羽を使って浮遊してくるかと思ったが、フィヨルの足はまだ地上にある。
『あたしに事の次第を説明させるの?
…全く、見上げた図太さね。さっきから言ってるじゃない。
あたしがこの箱庭を作ったんじゃないって』
「この期に及んで、またそんな嘘ついてんのか?!
メアさん!
こいつを倒せば、このヴァルハラは終わるんですか?
それなら、それなら俺…!」
……そう、なんだろうか?
震えながら剣を持つキスクク。せせら笑っているフィヨル。
私は違和感を持っていた。
フィヨルが諸悪の根元なら、何故私が気づいた時点で殺さなかったんだろう。
…彼女は、違うんじゃないだろうか?
――遊戯。
確か、彼…神槍にはそう言われた。
それなら…
「フィヨル…いえ、貴女は誰なの?」
私の言葉は再び沈黙を呼ぶ。
しばらく黙った後、フィヨルは笑った。
『…あーあ。メアなんか、選ぶんじゃなかった』
その態度に、私は一つの仮説を組み立てる。
もしかして。
『―そうだ』
雑音のような風の音。
この場の中で声を発したものはいない。
『―あの悪魔が、僕を獅子に閉じ込めた』
言葉と同時に、赤い獅子が咆哮しながら急に現れた。
この声…やっぱり、神槍。
「こいつ、敵じゃなかったのか?
フィヨルに操られていた、とか?」
獅子の出現にさすがに緊張したようだが、キスククは冷静だ。
キスククの言葉に私は頷く。
「私もそう思う。
私たちはこの作られたヴァルハラという箱庭で、フィヨルの遊びに付き合っていたのよ。
ただし…、フィヨルがこの箱庭を乗っ取った…と私は思うわ」
違う?と刀を向けたまま、嘲笑っているフィヨルに問いかけた。
『そ、あたしは箱庭の主じゃないわ。
だからあたしを消滅させてもヴァルハラは終わらない。
ってゆーかっ、話聞かなすぎだし!』
フィヨルは持っている槍を構えながら、怪しく笑った。
『それに…あたしの名前はヘルフィヨトルじゃないしね。
フィヨルはあたしの姉の女神。
あたしはその妹の可愛くって困らせ上手の悪魔、
ルゼルールことルゼちゃんなのでしたー!』
フィヨル…否、ルゼは笑った。
無邪気な態度に、握る刀の力が増す。
悲しかったし、空しかった。勝手だけど、嘘をつかれていたことに失望していた。
…顔には出さないように努めながら、刀を構える。
「それで?
この箱庭を創った女神様を、貴女はどこに隠したの?」
『さてねぇ…。
ここはラスボス気取って、我を倒してから聞くがよいっ、とか言ってみちゃったり?』
ばさ、と黒い翼が羽ばたく。
ルゼとして改めた彼女は槍を構えながら、空に浮いた。
「メアさん、俺が引き付けます。隙を狙ってあの羽を落としてください」
キスククが私の前に出る。
いつになく、気合いが入っていた。
「キスクク…」
「俺の剣は遅い。でもメアさんより力と剣の耐久力はあると思ってます。空中にいるところを何回かやりあって、叩き落としますよ。
だから…おい、獅子!背中貸せ!」
よいしょっと言って、彼はその赤い背に上り、まるで馬のように跨がる。
突飛な作戦だ。上手くいくかもわからない。
だが、的を得ていた。
それに…確実性を持ちながら、もし失敗しても相討ちに持ち込もうと考えるキスククの意図が伝わる。
戦いを重ねて、勝利を得てきたことで自信がついているのだろう。
「…無理はするな」
気をしっかり持たなければ、と引き締めた。
このヴァルハラを終わらせる鐘は、この戦いの後にある。