妖精夜話
闇夜。月のない、寒い、冬の日の事だった。
皇太子妃ミシェルは、今宵王宮を辞去することとなった。
離縁、という形で。
彼女が侯爵家の姫君として、王宮へあがったのは3年前のこと。彼女が12歳、皇太子が20歳の年。そして、婚約を交わしたのは物心つくよりも前、彼女が生まれ落ちた時のこと。今となっては遥か昔のことである。
離婚前夜、夫婦として最後の接見。出て行く準備はとうに整い、彼女の部屋は、すでに空っぽだ。いつも息苦しいまでに張り付いてくる周囲のものも、この時ばかりは気を利かせて、姿を消している。
王宮の、皇太子妃宮。白い外壁、うす桃色の内装。うら若い乙女に似つかわしいようにと、他のどの建物よりも華やいだ造りをしている。皇国中の女の子の憧れだ。貴族、商人、農民。女の子なら誰でも知っている。かつて、何代か前の皇太子が、その妃に捧げたこの宮の事。そのいわれと、顛末。誰もが一度は読み、心ときめかせる、皇国の美しい恋物語。
その宮の、庭園に二人は立っていた。そして、古の恋物語のようにはいかない現実を噛み締めていた。
季節になれば折々の花の咲き乱れる、美しい庭園。ミシェルが大輪の、手入れされた花々よりも、小さな、野に咲くような花を好んだため、庭師は腕のふるいようがないといつも愚痴をこぼしていた。けれども庭師は、彼女がとりわけ愛した桜の木が咲きそろうように、毎年その1本の木に心を砕いていた。
今は土ばかりが目立つ、ミシェルのためだけに整えられた庭を二人で、ゆっくりと歩む。ミシェルの身につける、空色のドレスも彼が彼女の為に誂えたもの。その空色の瞳にあわせて。
結い上げる事なく、ふんわりと揺れる柔らかな金色の髪は、彼が彼女にのばさせた。ふわふわと顔のまわりを揺れるのを見られない事が惜しくて、結い上げる事も禁じてしまった。
ドレスの裾が揺れる度、金色の髪がなびく度、皇太子の心は揺れた。
どちらも言葉は少なかった。幼い頃より、誰よりも知っているはずのお互いなのに、初対面であるかのようにぎこちない。
交わすべき別れの言葉を、二人とも口にしたくはなかった。
噴水のそばまでくると、どちらともなく視線が絡まる。藍色の深い色をした彼の瞳と、鮮やかな空の色を写しこんだ彼女の瞳。
気まずさに耐えきれなくなった皇太子が彼女の腕を引いた。ミシェルはほんの少し驚く様子を見せたが、かまわずそのまま抱きしめる。すると、華奢な体は抵抗する事なくすとん、と腕の中に収まった。
幼い頃から知っている甘やかなにおいがした。舌っ足らずに自分の名前を呼び、衣の裾にまとわりついてきていた幼いころから、何も変わらない。無邪気ないたずらに、困らされていると見せかけてその実、どれほどこの子に癒されていたか。
慣れ親しんだ温もりが、堪らなかった。
「ごめんね。」
皇太子が切り出す。謝罪の言葉。
「だが、他に如何ともし難い。」
わかってほしい。彼は短い言葉にそんな想いを込める。
如何ともし難い、とはなんと的を射ていて、卑怯な言葉か。どろりとした気持ちが心を渦巻く。この決定を下した、国王である父が堪らなく恨めしかった。
父とて、断腸の思いでの決断ではあっただろう、と彼は思う。彼女の事を知る誰もがミシェルを愛していたが、父は殊更ミシェルを可愛がっていた。国王の親友と国王の幼なじみの娘、として生まれたミシェル。実は、幼なじみというよりも初恋の相手、という方が正しい。というのは公然の秘密ではあるが。
ともかく、実の娘のようにその成長を喜び、見守り、慈しんでいた。
離縁、という選択がミシェルにとっても、皇国にとっても、最善であるのはよくわかっている。しかし、でも、という問いかけを何度自分の中で繰り返した事だろう。
ミシェルの父である侯爵の、皇国への裏切りが露見したのはつい3ヶ月前の事。脱税と、王位簒奪を目論む諸侯宛の書簡が公爵の手によってもたらされた。誰もが信じられなかったが、国王の叔父であり、歴戦の功労者である公爵持ってくる数多くの証拠。人望篤く、正義感の強い公爵の言葉。そして何より、侯爵がそれを認めた事によって、一連の事件は幕をおろした。
侯爵の処刑、という最悪の形で。
当然、ミシェルがそのままでいられるはずもなく、今回の離縁と相成った訳である。
手放したかった訳ではない。婚約者として、兄がわりとして、彼女の事を愛していた。大切にしていた。事件の後、父の判断に抗い手元に置こうとした。彼女が健やかに暮らせるように最大限手をつくした。
けれど、
けれど心ない噂や、まなざしは徐々にミシェルの笑顔を奪っていった。そして事件から2月後。ついに、心労で彼女が倒れた時。紙のように真っ白な顔色をして寝台に横たわる彼女を見て、かばいきれないと悟った。
———ここに、彼女の幸せはない。
それが、彼の出した答え。
そうして、父の下す判断に彼女の身を委ねたのだった。
せめて16になるまでまとう。赤ん坊の頃から知っている愛しいミシェルである。そのくらい、待ってあげられる。それになんだか彼女を汚してしてしまう気がして。もうしばらく、清らかな彼女でいてほしい。そう思い、手を出さずにいたのがこのような形で、良い方に働くとは思わなかった。苦い想いが、体中に広がる。
———ミシェルは私のものなのに。手放したくない。
言葉もなく、ただ彼女を抱きしめた。
どれくらいそうしていただろう。東の空の端が、白々と明るくなってきた。
時間である。
夜が明けるまでに、彼女は王宮を離れる算段となっていた。早く、この手を離さなくては。頭ではわかっていても、体はいう事を聞かない。これで、最後だからと、何度も繰り返しては、力を込める。
何度かの迷いの後、腕の力が弱くなってきたところで、ミシェルはとん、と彼の胸を押した。力を失った腕から、するり、と離れる。まっすぐに見つめると、彼に相対する。
「私、幸せでしたのよ。」
歌うようにつぶやく。そして、ミシェルは微笑んだ。
詩人たちには、妖精に例えられる彼女の笑顔はいつだって透明だ。その透き通るような笑み、声、瞳。儚げで、捕まえていないと消えてなくなってしまいそうな華奢な体。おまけに甘やかされ、愛されて育った者だけが持つ、気まぐれさを持ち合わせていて。
ともかく、彼は、いつだって、ミシェルから目が離せなかった。
ふふ、と彼女は笑う。それは彼が知っているよりもずっと大人びた表情だった。
「貴方は、何時だって私に優しかった。
大切にされているのをいつも感じられた。
何時だって、私を追いかけてくれた。
たとえ、妹のように思われていたとしても、とっても嬉しかった。楽しかった。」
少し、かがんでくださいませお兄様、と皇太子の頬にそっと口付けると、呆然とする彼に向かって、頭を垂れた。感謝と、決別。
「ミシェルは、お兄様の幸せを、遠くで、いつだって、祈っております。」
愛しい妖精は、飛び去ってしまった。空っぽの鳥かごを、思い出でいっぱいに満たして。