花城1
地に這いつくばる黒い男を踏みつけ、掴みかかってきた化け物を押さえつける。
一瞬の出来事だった。
衝突する二人の間で身体が、腕が、足が勝手に彼らの動きを流し、止めていた。
足下から舌打ちと共に恨めしそうなぼやきが立ち昇る。
「重いよ、里志くん」
「ご、ごめんなさい」
結構筋肉質な身体らしい。重量があり、思った以上に軽く動く。自分で自分の行動が飲み込めないほどに。
「謝るなら下りてよ。骨がみしみしいってる」
足を退かしたいのは山々なんだが、正面から受け止めた突進が重くて動けない。むしろ徐々に押し込んでくる力に、地に着いた片足だけでは踏ん張りきれなくなってきた。
「あのっ」下の男に叫ぶ。「一旦休戦にしてくれるなら、足を上げます。いろいろ聞きたいことが」
「わかっ、た。っ、げふ、わかったから下りて」
男を踏んでいた足を振り上げ、地に落とす。抜け出した男は息を整え、落ち着く間もなく怪物に蹴りを食らわせた。怪物が数歩よろけたのを見るや否や、手を引かれて路地裏へ飛び込む。
ぜえはあと黒い男の息が乱れる。同じように走っているのに、余裕のある自分が気持ち悪い。気持ち悪い一方で壮快でもあった。
「どこに向かってるんですか」
返事は期待していなかったが、彼は頑張った。
「偽商通り、の、外だよっ」
ニセショウドオリ?
ひょいと彼は軽くジャンプして、突き出たトタン屋根に上がる。私はちらりと後ろを窺う。
怪物も少しずつ距離を縮めながら付いてきていた。その、感情が大きすぎて一回転したみたいな無表情は、焦燥を煽る。間違いを犯しているような、妙な罪悪感に苛まれる。
「追いつかれますよ、まだ着かないんですか」
この現状から逃げたくて、声が上擦る。
「もう、目の前、……だっ」
一際強く地を蹴り、男は何かを飛び越える。真似をしてみれば、なんと。
わあっ、と騒々しい話し声の渦に飲まれた。
同じだ。ここに来たときと、同じ。何かを飛び越えて、突然周りの景色が変わる。ハッと身体を見下ろすが、すぐに脱力した。そろそろ見慣れてきた笠原里志の身体だった。元に戻れてはいない。
顔を上げると射られんばかりのネオンに目が眩んだ。荒い息をしている隣人に、探り探りで話しかける。
「ここ、どこですか」
「里志くん、君、頭でも打ったの」
「えっ、あ、いやあの、ちょっと事情があって記憶が飛んでるんです」
「……別人みたいだね」
ふーっと大きく息を吐いて、彼はぐるぐると肩を回す。明るいところで見ると、彼は黒のような緑のような、不思議な色の服に身を包んでいた。黒猫の毛並みに似ている。三十、くらいか。軋む身体で無理に走った後の疲れもあって、結構老けて見えた。ほんの少しの間だが、じっと見ていると彼は流し目を向けてくる。
「じろじろ見ないでよ、気持ち悪いな……。初めて見たみたいな顔しちゃって、なに? 記憶が飛んでるって、冗談じゃなくて?」
頷くと、彼は片手で口を押さえ、肩を大きく上下させた。
「いいよ。演技に付き合ってやろうじゃないか。最近は里志くんもすぐお父さんに連れてかれちゃうから、此処を忘れてるんだろうし」
とりあえず、と彼は目の前の居酒屋を指差した。
「里志くんは飲まないんだろうけど、付き合ってくれるよね?」
「里志くんは知りませんけど、私は飲みますよ」
奢ってくれるんですか、と聞けば、彼は一瞬目を丸くして、哄笑した。
「やだ」
◆
「ねえ、信じられる? この子本当に俺のこと覚えてないんだって」
カウンターの中でマスターが苦笑している。店構えが某有名居酒屋チェーン店と同じだったから、ボックス席があって安くて薄い酒があって、というような感じを想像していたのだが、内装は全く違った。物腰の柔らかいマスターが手際よくカクテルを作る、おしゃれなバーである。マスターは私の顔を見て「久しいね」と微笑んだ。黒服の男は三杯で崩れた。
「名前も知らないんだってさ」
「だから、教えてくださいって言ってるのに」
本当に、とマスターはカウンターにもたれかかってまじまじと私を見る。
「顔つきも別人みたいだ。ほら、眉間の皺もないし。敬語だし。お酒に強いかどうかは体質だから元々だろうけど、飲めるだなんて初めて知ったなあ」
「おいしいですよ、マスター」
「わあ、里志くん笑うと可愛いなあ」
他の客の元へ去るマスターの背に、高鳴る胸を押さえる。あの人、微笑で人を殺せる。ファジーネーブルがほのかに香り、一気に酔いが回ったような気さえした。
「さえき」
「え?」
カウンターに突っ伏した男がこちらを見上げて呟いている。
「佐伯だよ、俺の、名前」
そのままフェードアウトしていった。
「佐伯さん……寝ちゃいました?」
横に分けていた前髪が流れ落ち、整った顔を隠す。掬い上げて耳にかけてやると、くすぐったそうに顔を伏せた。本当に自腹になりそうだ。ポケットの財布を開き、溜息をつく。この店、高そうだしな……。
「マスター、この人にツケておいて」
「はいはーい」
近くにいた客の手を借りて、佐伯さんを担ぐ。いい年したおじさんを軽いと思うのは、里志くんが筋肉オバケだからだろう。
店を出て、あてもなく歩く。騒々しい人の声が川のよう、流れに逆らって歩くと足元がふらついた。存外自分も酔っていたらしい。背中で健やかな寝息を立てる男を揺らした。
「佐伯さん、どこに行けばいいんですか」
考え無しに店を出てしまったことを後悔する頭は持ち合わせていなかった。彼の名前を呼びながら、見覚えのない道をうろうろと歩き続ける。進む先、ネオンの向こうでぼんやりと揺らいでいる建物に、目を凝らした。
笠原医院とは似ているようで違う。木々ではなく電灯に囲まれ、四角い箱ではなく小さな山のような、巨大な建物がたっていた。熟睡している佐伯を抱え直し、ぐるぐると回り始めた視界の中を、ずるずると足を引きずっていく。