病室1
戦ったり恋したり、いろいろ書いてみたいなっていう実験みたいな話です。
立ち入り禁止を乗り越えるとろくなことがない。
コンビニで一番安い弁当を買い、レジのお姉さんの「あたためますか」に「はい」と答えた。ばつん、とブレーカーが落ちたように店内が暗くなった。
お姉さんが慌てて捻ったタイマーをゼロに戻したらしい。チン、と間抜けな音がした。しかしそれから何もない。カウンターの向こうで誰かが動いている様子もない。そんな音もしない。何も見えない。
「あの」
声をかけても返事は無かった。後ろに並んでいた人を振り返るが、何もいない。
背筋を冷たい汗が流れ落ちた。
「誰か、誰かいませんか」
手探りで出口へ向かう。カウンター前の和菓子らしきものをぶちまけた。自動ドアがあったはずの位置へ手を伸ばす。一歩、二歩、三歩……しばらく歩いて、足を止める。
こんなに、広い店だったか。
何かにぶつかれ、と念じながら駆け出す。まっすぐ、息が切れるまで、何にも、当たらない。黒一色の視界を見渡し、上がった息を整える。おかしい。なんだこりゃ。自分の手を見下ろしても、爪の先も見えない。ポケットを探ると財布は入っていた。服も着ている。当たり前だ、脱いでいない。動揺しているらしい。落ち着け、落ち着け。
大きく息を吸って、吐いた。目を凝らす。ぐるりと頭をめぐらすと一点、黄色いものが視界をよぎった。過敏に反応した目がはっきりとそれを捉える。駆け寄れば近づいてくる黄色にすがるように手を伸ばした。眩しいほどの黄色は、黒の縞を持ったどこかで見たテープだった。手を離すと腰の高さで横にぴんと張る。
立ち入り禁止ってやつだ。
向こう側に何も見えないこともあり、考え無しにテープをまたいだ。
風の音がひどい。閉じていた目を開けられないまま光を感じていた。
穴倉から出たような開放感に安堵の息を漏らすが、直後頬を掠めた痛みに風下を振り返った。
「う、わ」
引いた足を踏ん張る。真後ろに階段が伸びていた。ステンレスの手すりが真ん中を通る石造りの階段は急で、眩暈がする。手すりに掴まろうとした途端、背中を強く押される。回っていた目がさらに一回転して犯人を捉える。
「子ども……っ?!」
階段を、踏み外した。
階下に落ち着いたらしい。体中がきしむ。視界が翳り、誰かが脇に立ったのだと知る。何故だか意識がはっきりしている。体格の良いその誰かに抱えられ、車に乗り込む。衝撃の一つ一つに呻く。
車の中はいやに甘い臭いが充満していた。
◆
いつの間にか眠っていたらしい。起き上がるとベッドのコイルが軋んだ。
「目が覚めたのか」
仕切りの向こうから顔を出した男は、カップを掲げる。「飲む?」
首を振ると首筋が痛んだ。悪い悪いと表情を弛めた男は、ベッド脇の椅子に腰掛ける。白衣を着ているが、医者というよりは理科室の先生だ。
「あの、ここは?」
声が掠れていた。無理せず寝ていろと肩を押されて枕に戻る。
「なんか最近多いんだよな、それ」白衣の男はカップを置き、溜め息を吐く。「集団記憶喪失とか、聞いたことないぞ」
「記憶喪失……?」
すっと男の指が彼の鼻を差す。
「俺は笠原誠人」
次に此方を差す。
「お前は笠原里志。俺の息子」
「は?」
はっきり掠れることなく発した声は、確かに喉仏を持ったそれだった。
両手を見下ろせば、骨張った男の手。髪は肩にも届かない。目、鼻、口、耳、頬をなぞって唖然とする。
誰だ、これは。
静かに様子を見守っていた笠原が席を立つ。目の前に差し出された鏡には、見たこともない青年が映っていた。
「は、はは、夢だ。夢ですよね」
「残念ながら、現実だよ」
笠原の息はコーヒー臭かった。
笠原は鉛筆を置き、出来立てのメモを睨む。
「こんなにはっきり覚えているものなんだな」
走り書きには見えない字で、話したことが箇条書きされている。
都内在住。一人暮らし。篠崎杏子。二十二歳独身。女子大生。彼氏有り。小学校は音楽クラブ、中学はテニス部、高校は帰宅部。身長、体重、視力、等々。
スリーサイズは聞かれなかったので言わなかった。
「何一つ、笠原里志との共通点は無しだ」
全部本当ならな。
小さく付け足された一言に噛みつきそうになり、俯く。何も証拠は示せない。背を向けた笠原に問う。
「さっき言ってましたよね。最近多いって」
「うん?」
首だけ振り返る笠原にすがる思いだった。
「他の、記憶喪失の人に、会わせてください」
「いいよ」
あっさり頷かれて拍子抜けする。思わずベッドから身を乗り出した。
「ど、どこに行けば」
「落ち着け。とりあえず此処にいる奴を連れてくるから」
枕に押し戻されて、扉の閉まる音に目を閉じた。
程なくして、ドアノブの回る音がした。
「あれ、先生いらっしゃいませんか。笠原先生」
笠原ではない、女の人だ。失礼します、と彼女は部屋に入り、此方へ近付いてくる。
「机に置いときますねーっと。本人にも言っとかないとー」
「あ、のっ……!」
立ち去ろうとする彼女を呼び止めてしまった。キュッ、とリノリウムを擦る音が此方を向く。
「ありゃ、患者さん。ごめんなさい、起こしちゃいました?」
仕切り越しに話す彼女は、向こう側に立ったまま動かない。しばらく間があり、二の句が接げずにいると、また「あれ」と彼女は言った。
「もしかして里志?」
「……えっと」
仕切りの端、彼女はひょっこり覗かせた顔を輝かせる。
「やっぱり!」
しかしすぐ表情を曇らせた。
「また怪我したの? 手当ては、してあるみたいね」
可愛らしい人だ。肩までの髪はふわふわと彼女の動きに合わせて跳ねる。服装からして、看護師なのだろう。大きな目に見つめられると、なんだかもやもやする。
椅子に腰掛け、彼女は首を傾げた。
「なんか違うな」
「えっ」
「女の勘」
彼女は真顔で言う。
「私の名前、呼んでみて」
知るわけがない。だが、まっすぐ突き刺さる視線が回答を待っている。
「ゆう、」
「はい、ぶーっ!」
クロスチョップを食らい、仰け反った。彼女はポケットから名札を取り出して突き付けてくる。高屋亜鶴、と書いてあった。
そういうのは見えるところに付けていてほしい。
「貴方も『ここはどこ』の人?」
「……はあ」
「私は誰、に繋がらないのが面白いよね」
亜鶴はにやりと口角を上げる。
「みんな身体とは別の人間が入ったみたいに話すの。君もそうなんでしょう」
「そう、みたいです」
置いてあったコーヒーを、彼女は断りもなく啜る。ちょうど仕切りの向こうから声がした。
「里志、誰か来てるのか……っと、間違えた。篠崎杏子さん」
笠原の声に亜鶴がギョッと振り向く。
「杏子、さん……え、中身女の子、なの?」
ぶは、と彼女は吹き出した。
「初めてのパターンですね、先生! よりによって里志が例外になっちゃうなんてー。飯塚さんも叶さんも結音ちゃんも中身ほぼ同じだっ、」
笠原のげんこつが落ち、亜鶴は黙った。
「連れてきたぞ。杏子さんのお仲間……なにその顔」
「お、女の子を殴るなんて」
笠原はブドウの種を噛んでしまったような顔をする。
「こいつはいいの」
「そう、私は特別なの」
亜鶴はあっさり復活してきた。
「冗談は置いといてだな。叶、もとい笹塚さん」
呼ばれて出てきたのは見るからに好青年の眼鏡だ。爽やかな笑みを浮かべ、「どうも」と優しい声が言う。
眼鏡。笹塚。もしかして……――「爽輔?」
ぴたりと三人の動きが止まった。