一、値札
短編ファンタジィ
燈津の夜は、運河に浮かぶ灯籠から始まる。
日が落ちると水面に無数の火が流れ出し、橋の下を朱や橙に染めていく。町の者はその水を「溜まり」と呼んだ。人が持て余した感情は、夜のうちに運河へ滲み出て、灯籠の火に溶けて海へ運ばれる。そういう言い伝えだった。だから燈津の人々は、水に手を浸すとき、決まって少しだけ顔をしかめる。誰かの負の感情が混じっている気がするからだ。
その運河から離れた路地の奥に、宵待質舗はあった。三代続く〝感情を預かる店〟である。燈津は交易港故、別れや死別、危険な航海が多い為に〝持て余した感情を一時的に手放して生活を回す〟慣習からこの質屋は生まれた。感情というものは、大人になるにつれ、生活の邪魔になるようだ。
十七歳の澪は、帳場の奥の鑑定台に座っていた。目の前の盆には緋色の結晶が置かれている。
——情晶。
人の感情を抜き針で結晶にしたもので、濃淡の変化はあるものの、怒りは緋、悲しみは藍、喜びは金、愛着は薄紅になる。
「大したものじゃない。安く見てくれ」
客の役人は一見穏やかに言って笑った。声は柔らかいのに、目は乾いた石のようだった。
澪は結晶にそっと手を翳した。怒りの情晶だ。他の者なら、触れた途端に胸の奥が熱くなり、喉が詰まる。それが情晶の怖さである。けれど澪には影響しない。指先に伝わるのは重さと温度、結晶の目の細かさだけだ。
「混じり気はありません。十年分は溜めた怒りです。安くはなりません」
「そうか。いや、いいんだ。軽くして帰りたい」
役人は低い値で承知し、その日は証札を受け取って去っていった。
午後には商人の男が藍色の情晶を持ってきた。表面が薄く濁っている。澪は光に翳し、しばらく眺めてから言った。
「偽物ではありません。でも……あなたの色でもありませんね」
商人は黙った。借り物の悲しみで、誰かの葬儀の席に立ったのだろう。澪は何も訊かず、値だけを告げた。
店を閉めたあと、帳面をつけながら、澪は手を止めた。手放す人ほど、値を低く言う。自分に価値がないと思うから、軽く手放せるのだ。
(或いは……自覚すらしていないか)
そう思ってから、昼に老鑑定士から冗談めかして訊かれたことをふと思い出した。
——澪ちゃんなら、自分にはいくらの値をつける。
澪は口を開いて、閉じた。答えられなかった。自分の中に、秤にかけるものがあるのかどうかさえ、わからなかった。
帳場の向こうで、父の志朗が黙って湯を沸かしていた。穏やかで口数が少なく、ここ数年は表情もめっきり乏しい。歳のせいだろうと、澪はただそう思っていた。
つづく




