第1話「灰の中の犬少女」
牧野 信が目を覚ましたのは、空が広すぎる場所だった。
見渡す限り、枯れた草原。灰色の土。遠くに崩れかけた石壁の残骸。
久しくみなかった自然の風景。だがとても物悲しい。
そして、風だけが、うるさかった。
ここはどこだ。
体を起こした。ジャケットに少し土がついていた。
夢か。まあ、数ヶ月ぶりの休みで、気が緩んで寝落ちしたんだな。
……いや。
手のひらに、乾いた草の感触。土の匂い。夢にしては、リアルすぎる。
信は立ち上がった。足元は確かだった。空は青かった。雲が、ゆっくり流れていた。
……保護犬カフェにいたはず。モモという老犬を撫でていたら、眠くなって。
膝の上の老犬。白い毛。細くなった目。温かかった体温。
保護動物、助けたいけど今の自分には何もできない。
最後に聞こえた気がした声。
「―助けてあげて」
助けて、って。何を。
信は首を振った。
とにかく、状況を把握しなければ。
PMという職業柄、真っ先に状況把握を進める。
パニックになるのは情報が足りない時だ。まず見る。聞く。整理する。
周囲を一周、ゆっくり見渡した。
焼けた草原。灰の土。石壁の残骸。遠くに山の稜線。人工的な建造物は、焼けこげ崩れた家屋。
ここは火事現場の後か。ただ時間は経っている。
人の気配は――
あった。
茂みが、動いた。
小さな影が、茂みの奥で息を潜めていた。
信は動きを止める。
じっと目を凝らすと、茂みの隙間から、こちらを見ている目が見えた。
茶色の、丸い目。
その上に、ぴんと立った耳。
犬の耳だった。柴犬に似た、赤みがかった毛並みの。
……獣人。
なぜかその言葉が、すっと頭に入ってきた。知っているような気がした。
いや、知っていた。ここがどういう世界かを、信はなぜか、骨の髄から理解していた。
異世界転移だ。俺は転移した。学生時代に見ていたアニメの例のアレだ。
普通なら混乱するはずだった。しかし信の頭は、不思議なほど冷静だった。
モモが言った。助けてあげて、と。あの老犬が。
……まあ、いい。今考えても答えは出ない。目の前のことだ。
茂みの奥の少女は、動かなかった。
膝を抱えて、体を小さくして、こちらを見ていた。
年齢は九歳前後。ボロボロの麻の服。素足。手足に擦り傷。そして首に、鈍く光る金属の輪。
目が、野良犬のそれだった。
「近づいたら噛む」という目。「どうせ碌なことをしない」という目。何度も傷ついてきた目。
信はその場にしゃがんだ。
目線を、下げた。
信:「……やあ」
少女は答えなかった。後ろに、一歩下がった。
信:「怖くないよ。俺も、さっきここに来たばかりで」
少女:「…………」
信:「名前、聞いていいか」
少女:「…………」
答えない。当然だ。
信は懐を探った。
ジャケットの内ポケットに、バー状の栄養補助食品が入っていた。仕事が忙しくなった時用に常に数本入れていたものだ。完全にダメサラリーマンの習性だな。
包みを開けた。
包みを皿代わりにして地面に、そっと置いた。
そして三歩、下がった。
少女は長い間、動かなかった。
食べ物と理解できないかと、信は一口かじり再び地面に置いた。
風が草を揺らした。どこか遠くで、鳥が鳴いた。
やがて少女は、ゆっくりと茂みから出てきた。
信から目を離さないまま、地面のそれをに近づいた。
しゃがんだ。掴んだ。
また離れた。
食べた。
モソモソと、でも確かに、食べた。
信はその場から動かなかった。
少女が食べ終わるのを、ただ待った。
少女が、口を開いた。
少女:「……なんで逃げないの」
信:「どこに?」
少女:「…………どこでも」
信:「ここ以外に、行くところがないんだよ。
俺、今日初めてここに来たから」
少女:「…………うそつき」
信:「嘘じゃないよ。本当に、さっき目が覚めたら
ここにいたんだ」
少女:「……人間はぜんぶ嘘つき」
信:「うん、そうかもしれない」
少女が、少し目を見開いた。
否定すると思っていたのだろう。
信:「俺の知ってる人間も、
嘘をつく人はたくさんいた。
だから、そう思うのは正しい」
少女:「…………」
信:「とりあえず、今の俺の言ったことに嘘はないよ」
少女はしばらく、信を見ていた。
値踏みするような目だった。
少女:「……リュカ」
信:「え?」
少女:「なまえ。わたしの。リュカ」
リュカ、と名乗った瞬間、胸の奥で何かが動いた。
昔、俺が飼っていた犬と、同じ名前だった。
信:「リュカ……。いい名前だね。俺は牧野 信。
シンでいいよ」
リュカ:「……シン」
信:「そう」
リュカ:「……変な名前」
信:「だよね。よく言われるよ」
リュカの口元が、ほんの少し、動いた。
笑ったのかどうか、わからなかった。でも、さっきよりは確かに、表情が柔らかくなっていた。
その時、信の視界に、文字が浮かんだ。
唐突に。どこからともなく。
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適性鑑定:犬人・リュカ(推定9歳)
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嗅覚★★★★★
感情読取り★★★★★
忠誠心 ★★★★★
遠距離通信(遠吠え) ★★★★
現在の状態:極度の警戒
飢餓状態
信頼喪失
現在の能力発揮値: 3%
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なんだ、これは。
信は目を瞬かせた。文字は消えた。
幻覚か。……でも。
「3%」
この子は今、本来の力の「3%」しか出せていない。
環境が、人を作る。いや、この世界では獣人を、か。
現代でも、ポテンシャルのある人間が、環境のせいで潰れていくのを何度も見てきた。それが嫌で、PMになったのかもしれない。
信は改めて、リュカを見た。
この子の「100%」を、見てみたいな。
信:「リュカ、ここにどれくらい?」
リュカ:「……みっか」
信:「一人で?」
リュカ:(小さく、頷く)
信:「……そうか」
三日。子どもが一人で。
食べ物も、ろくにない場所で。
怒りが沸いた。静かな、冷たい怒りが。誰に向けるでもない怒りが。
信:「今夜は、ここにいていいか。
俺も行くところがないし」
リュカ:「……わたしのところに来るの?」
信:「リュカが嫌なら離れる。
でも、近くにいたい」
リュカ:「……なんで」
信:「子どもが一人で夜を越えるのは、
危ないから」
リュカ:「……わたし、犬人だよ。
人間より強い」
信:「知ってる。でも、一人より二人のほうが
たいていのことはうまくいく」
リュカはしばらく考えた。
リュカ:「……遠くにいるなら、いい」
信:「何メートルくらい?」
リュカ:「……メートル?」
信:「距離の単位。ええと……
あの石から、あの草のあたりまでが大体5メートルくらい、かな」
リュカ:「……じゃあ、それくらい」
信:「わかった」
信は立ち上がり、5メートルほど離れた場所に腰を下ろした。
枯れ草を集めて、背もたれにした。
空を見上げた。太陽が傾いていた。夕暮れが近かった。
まずは
1)今夜を無事に乗り越える。
2)水源、食糧を確保する。
3)安全な場所を見つける。
それがまず最初のマイルストーンだ。
この世界のことは、何も知らない。でも――
リュカが、じっとこちらを見ていた。
5メートルの距離から、茶色の目で。
信:「なに?」
リュカ:「……変な人」
信:「そうかもしれない」
リュカ:「……でも」
リュカは続きを言わなかった。
でも、体から少しだけ力が抜けた。膝の抱え方が、心持ち緩くなった。
それで十分だった。
夕暮れの風が、灰色の草原を渡った。
信は空を見上げながら、頭の中で整理を始めた。
現状:草原のど真ん中。仲間一名(獣人・犬種・リュカ・9歳)。食糧残り僅少。情報ゼロ。
課題:食糧。水。安全な夜。情報収集。
リソース:俺の知識。リュカの嗅覚(ただし今は「3%」)。
――まあ、どんなプロジェクトのスタートもいつもこんなもんだ。
どこかで、鳥が鳴いた。
信は気づかなかった。
石壁の上に、一羽の梟が止まっていることに。
金色の目で、じっとこちらを見ている梟が。
第一話 終了
次話:「石壁の上の梟」
1日1話を目標に、整理もせずに書き始めました。どうなるか見守ってもらえるとありがたいです。




