表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九章:真実

 泥の匂いと熱い吐息が混じり合うなか、お兄様は私の体を壊れ物を扱うように、けれど決して離さないという強い意志を込めて抱き上げた。

 別邸へ戻る道すがら、お兄様の胸板から伝わる鼓動は、驚くほど速く、激しい。私は彼の首にしがみついたまま、先ほどの言葉を頭の中で何度も反芻していた。


 部屋に戻り、ふかふかの絨毯の上にそっと降ろされる。

 お兄様はそのまま私の前に膝をつき、汚れも気にせずに私の泥だらけの手を両手で包み込んだ。


「……お兄様、教えてください。私が番だなんて、どういう意味なのですか? 私はただの人間で、お兄様とは……」

「……エルナ、覚えているか。私が初めて、孤児院の片隅にいたお前を見出した日のことを」


 お兄様の指先が、私の頬に触れる。その手つきは、慈しみというにはあまりに熱く、飢えた獣のようだった。


「あの日、私を見上げてきたお前の無垢な瞳を見た瞬間、私の魂は歓喜に震えた。番を見つけたのだと。……私はお前を手元に置き、成長を待ってから伯爵家へ養子に出す手はずを整えていた。家格を整えた上で、私自身の手で、お前と正式な婚約を結ぶために」


 私は息を呑んだ。そんな計画があったなんて、一度も聞いたことがなかった。


「だが、あの愚か者が……ジギスムントが、私の隙を突いてお前を横取りした。王子の権限で、強引にお前を自分の婚約者に据えたのだ」


 お兄様の言葉が、怒りで低く震える。

 握られた私の手に、ぐっと力がこもった。お兄様の瞳の奥で、数年分の憎悪と後悔が、どろりと冥い炎となって燃え上がるのが見えた。


「お前が妃教育に苦しむ姿を見るたび、私は自分の無能を呪った。だが、陰謀渦巻く王宮で、愛しいお前が生き延びるためには、爪と牙となりえる知識を、教養を身に付けさせてやるほかない。血反吐を吐く思いだった。……あの大夜会で、あいつがお前を捨てた瞬間、私はようやく奪い返せると歓喜したのだ。……醜悪だろう、エルナ。私は、お前が傷つくのをずっと待ちわびていたのだから」


 お兄様は自嘲気味に口角を上げたけれど、その瞳には一滴の迷いもなかった。彼は私の指先に、深く、吸い付くような口づけを落とした。


「もう誰にも邪魔はさせない。……私の番は、私の生涯の伴侶は、私が見出した、お前だけだ」


 お兄様が顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳には、もう「兄」の仮面はどこにもなかった。そこにあるのは、獲物を一生離さないと誓った、一人の男の剥き出しの情熱だけだった。


「誓え、エルナ。私だけの番になると。……拒むなら、私はお前をこの部屋に鎖で繋いででも、一生私のものにする」


 お兄様の震える声が、私の胸を激しく揺さぶる。

 私を見上げるその瞳は、ひどく熱く、それでいて今にも砕け散ってしまいそうなほど危うい光を宿していた。獅子の獣人として、有能で冷徹な公爵としてではなく、ただ一人の女性を失うことを何よりも恐れている、一人の男の顔だった。


 鎖で繋がれる。その言葉に、私は恐怖よりも、震えるような甘い安らぎを感じていた。

 捨てられることを、かつてあれほどまでに恐れていた私が。


「お兄様……」


 私は泥に汚れた指先で、お兄様の整った顔をそっと包み込んだ。

 私の指が触れた瞬間、お兄様はびくりと肩を震わせ、吐き出すような熱い溜息をついた。彼は私の掌に顔を押し当て、貪るようにその温もりを吸い込んでいる。その仕草は、忠誠を誓う騎士のようでもあり、飼い主に縋る獣のようでもあった。


「いいえ、鎖などいりません……。私は、ずっと前からお兄様だけのものだったのですから」


 喉の奥が熱く、視界が再び潤んでいく。

 私は、膝をつくお兄様の首に自分から腕を回し、その広い胸へと飛び込んだ。


「あなたの番になります。……私をお兄様の手元に置いてくださるなら、名前も、地位も、何もいりません」


「エルナ……っ」


 お兄様の腕が、折れんばかりの力で私の腰を抱き寄せた。

 彼の顔が私の首筋に埋められ、そこから漏れる「ああ、ああ……」という低く掠れた呻き声が、肌を通じて私の全身に伝わってくる。お兄様の背中が、大きな震えを伴って波打っているのが分かった。


「……後悔しても、もう離さない。たとえお前が泣いて許しを請うたとしても、地獄まで引きずり込んでやる」


 お兄様が顔を上げた。その黄金色の瞳は、先ほどまでの絶望を脱ぎ捨て、どろりとした執着と、狂おしいほどの愛悦に塗り潰されていた。

 彼は私の唇に、誓いを刻み込むように再び深く口づけた。


 窓の外では、春の夜の風がざわめき、静かな森を揺らしている。

 けれど、この部屋の中に流れる空気は、私とお兄様の熱い呼気だけで満たされ、外界のすべてを拒絶していた。


 私は、お兄様の背中に爪を立て、その熱情を全身で受け止めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ