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第八章:お兄様の番

 別邸での穏やかな日々は、あまりにも唐突に、そして残酷な形で終わりを告げた。


 お兄様が急な公務で街へ出かけ、私が一人で庭の木陰で刺繍をしていたときのことだ。

 ふいに、芝生を踏みしめる高い靴音が聞こえて顔を上げた。そこに立っていたのは、見たこともないほど美しい、燃えるような赤い髪を持つ獣人の女性だった。


 彼女は、私の存在など視界に入っていないかのような傲慢な足取りで近づくと、私の目の前でぴたりと足を止めた。その瞳は、お兄様と同じ黄金色をしていたけれど、私を見る眼差しは冷ややかな蔑みに満ちている。


「あなたが、レオンハルトの『妹』……いえ、拾い物の人間ね」


 低く、鈴の音のように美しいけれど、棘を含んだ声。

 私は針を刺したまま、指先が凍りついたように動かなくなった。彼女から放たれる圧倒的な獣人としての威圧感に、呼吸が浅くなる。


「……どなた、でしょうか。お兄様は今、お留守ですが」


 私が精一杯の声を絞り出すと、彼女は形の良い唇を歪めて、くすりと笑った。その笑い声には、私の無知をあざ笑うような響きがある。


「自己紹介が必要かしら? 私はカトリーナ。……レオンハルトの『つがい』となる存在よ」


 心臓が、どくりと嫌な音を立てた。

 番。獣人にとって、魂の片割れとも称される、運命に定められた唯一の相手。


「彼と私は、血と本能で結ばれている。……あなたのような、魔力も持たないか弱き人間が、いつまでも彼の側にいていい理由なんてないの」


 彼女は一歩、私との距離を詰めた。

 影が私を覆い、彼女の纏う濃厚な香水の匂いが鼻を突く。彼女の指先が、私の膝の上にある刺繍枠を、汚らわしいものでも見るかのように跳ね除けた。


「レオンハルトは優しいから、役立たずのあなたを哀れんでいるだけ。でも、その同情が彼を縛り、獅子の家系を汚していることに気づかないかしら?」


 彼女の黄金色の瞳が、獲物を仕留める瞬間の猛禽のように細められた。

 私は震える唇を噛み締め、彼女を見上げることしかできない。


「いい加減、彼を手放しなさい。……運命に抗おうとする彼の足枷になるのは、もうお止め。あなたが消えれば、彼はようやく本来あるべき場所、私の隣へ戻れるのだから」


 言い放たれた言葉の一つ一つが、ナイフとなって私の胸を切り刻む。


「本来あるべき場所、私の隣へ――」


 カトリーナ様のその言葉が、私の頭の中で何度も何度も、雷鳴のように響き渡っていた。


 運命。本能。血。


 私がいることが、お兄様の「足枷」になっている。


 視界がぐにゃりと歪み、足元がおぼつかなくなる。

 私は地面に落ちた刺繍枠を拾うことさえ忘れ、逃げ出すようにして彼女に背を向けた。背後から、「あら、失礼ね」とあざ笑うような声が聞こえた気がしたけれど、振り返る余裕なんてなかった。


 別邸の裏手にある、深い森へと続く道。

 お兄様と一緒に歩いた、あの美しい湖へ続く道とは反対の、人目に付かない暗い茂みへと足を踏み入れた。


「……っ、……」


 喉の奥が熱くて、うまく息ができない。

 枝がドレスの裾を引っ掛け、鋭い棘が手足に刺さってチクチクと痛む。けれど、胸の奥を掻きむしられるような痛みに比べれば、そんなものは無に等しかった。


(お兄様が、嘘をついていたわけじゃない。お兄様は優しいから……本当のことを言えなかっただけ)


 茂みを掻き分け、夢中で走り続ける。

 どこへ行くあてがあるわけでもない。ただ、ここにお兄様が戻ってきたとき、彼の「運命」の邪魔をしたくなかった。彼の重荷になりたくなかった。


 足がもつれ、湿った土の上に膝をつく。

 手のひらに石が食い込み、泥が白いドレスを汚していく。けれど、立ち上がらなければ。もっと遠くへ、お兄様の声も、あの熱い体温も届かない場所へ。


 どうして、お兄様に「役立たず」と思われることが、死ぬことよりも恐ろしかったのか。


(私は……お兄様に、選んでほしかっただけなんだわ)


 幼い頃、大きな背中を追いかけていた時も。過酷な教育に耐え、殿下の婚約者として振る舞っていた時も。私の瞳が常に探していたのは、殿下の賞賛ではなく、お兄様の、あの熱く射抜くような黄金色の眼差しだった。


 兄として、家族としてではない。

 一人の女性として、お兄様の隣にいたい。あの人の瞳に、私だけを映してほしかった。


 けれど、気づいた時にはもう遅すぎた。お兄様には「番」という運命がある。


「う……あ、ああ……っ」


 喉の奥から、嗚咽がせり上がってくる。

 お兄様のそばにいたかった。

 でも、その願いは抱いてはいけない。大好きなお兄様を「番」から遠ざけ、その未来を汚す呪いになってはいけない。


「エルナ!!」


 背後から、大気を震わせるような叫びが響いた。

 私はびくりと肩を震わせ、泥にまみれたまま振り返った。

 暗い木立の向こうから、恐ろしい速さでこちらへ向かってくる大きな影が見える。


 お兄様だ。

 いつも整えられているはずの金髪は乱れ、軍服の裾を泥で汚しながら、彼は見たこともないほど蒼白な顔をして、私を射抜くように見つめていた。その黄金色の瞳には、怒りよりも深い、底知れない「恐怖」の色が浮かんでいる。


「……来ないで、ください……っ」


 私は這いつくばったまま、後ずさった。

 お兄様の顔を見れば、この胸に芽生えたばかりの、おぞましくも愛おしい感情が溢れ出してしまいそうだった。


「来ないで……お兄様! 私を、探さないで!」


 叫ぶ私の前で、お兄様は容赦なく距離を詰め、その場に膝をついた。

 彼は荒い息を吐きながら、私の泥だらけの両肩を、壊れ物を掴むような、けれど逃がさないという確かな拒絶を孕んだ力で、強く、強く掴んだ。


 至近距離にあるお兄様の顔。

 その瞳の奥にあるのは、冷徹な「兄」の仮面ではなく、剥き出しの、猛々しいまでの飢餓感だった。彼の指先が、私の肌を突き破らんばかりに震えている。


「……逃がすと、思っているのか」


 掠れた、けれど熱を帯びた声が、私の頬を打った。

 お兄様の指が、私の髪に、頬に、彷徨うように触れる。その手つきは、運命を呪うような、それでいて執着を隠そうともしない、一人の男としてのものだった。


 お兄様の指先が、泥に汚れた私の肌をなぞり、顎を強引に上向かせた。

 逃げ場を失った私の瞳に、燃えるような黄金色の深淵が迫る。お兄様の呼吸は、まるで激しい戦場を駆け抜けてきたかのように荒く、その胸板が私の体にぶつかるたび、熱い動悸が伝わってきた。


「……お兄様、離して……っ。あの方、カトリーナ様が……運命の、番がいらっしゃるのでしょう?」


 私が必死の思いで紡いだ言葉を、お兄様は嘲笑うかのような、痛切な笑みで遮った。彼の瞳が歪み、そこから大粒の、熱い熱情が溢れ出すのを私は見た。


「番だと……?笑わせるな」


 お兄様は私の肩を、砕かんばかりの力で引き寄せた。


「私の本能が、私の魂が求めているつがいは、エルナ、お前だけだ。幼い頃から、今日に至るまで、私のこの胸を狂わせてきたのは、お前だけなのだ」


「え……?」


 耳を疑う言葉に、思考が真っ白に染まる。

 お兄様は、震える私の唇を指先でなぞり、喉の奥から絞り出すような、掠れた声で続けた。


「……もう二度と、誰にもお前をやらない。殿下にも……誰一人として、お前に触れさせるものか」


 その瞬間、お兄様の顔が目前に迫った。

 拒む間もなく、彼の唇が私の言葉を強引に奪い去る。


 それは、これまで受けてきたどんな教育にも記されていない、荒々しく、貪り食うような激しい口づけだった。

 熱い呼気が口内へ流れ込み、私の意識は一気に混濁していく。泥の匂いと、お兄様の濃厚な体温、そして彼が押し殺してきた数年分の情念が、暴力的なまでの重さで私を圧し潰した。


「……ん、……っ」


 抗おうとしていた指先から力が抜け、私はお兄様の軍服に縋り付くことしかできない。

 彼は私の腰を引き寄せ、逃がさないと誓うように、より深く、痛いほどに唇を重ねてきた。その指先が私の髪に絡まり、頭を固定される。


 お兄様の瞳が、わずかに開かれた。

 そこには、私を傷つけてしまいそうなほどの独占欲と、ついに手に入れたという狂おしいほどの歓喜が、混ざり合って煌めいていた。

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