第七章:おだやかな時間
別邸での生活が始まってから、数日が経った。
窓の外には、相変わらず穏やかな緑の海が広がっている。王都での生活が、まるで遠い異国の物語だったかのように思えるほど、ここでの時間は静かに流れていた。
私は今、テラスに置かれた小さなテーブルで、お兄様と向かい合って午後のティータイムを過ごしている。
「……エルナ。このクッキーは、お前の口に合うか」
お兄様が、銀のトレイに載った焼き菓子を私のほうへ静かに押しやった。
私はカップを置き、小さく頷く。
「はい。とても香ばしくて、美味しいですわ」
私が微笑むと、お兄様の視線がわずかに彷徨い、それから手にしていたティーカップの縁をじっと見つめた。彼の指先は、軍服を纏っていたときのような鋭さはなく、どこか大切に温かい陶器を包み込むような、柔らかな動きをしている。
ふと見ると、お兄様の膝の上には、一冊の古い詩集が開かれたまま置かれていた。王都にいた頃のお兄様は、常に公務の書類か、分厚い魔導書、あるいは剣術の教本を手にしていたはずなのに。
「……お兄様、その本は?」
「ああ。……昔、お前に読み聞かせていたものだ。覚えていないか」
お兄様の声が、いつになく低く、優しく響いた。
彼は開かれたページをそっとなぞる。その指の動きはひどく名残惜しそうで、まるで過ぎ去った時間を手繰り寄せようとしているかのようだった。
「お前がまだ幼く、私の後ばかりを追いかけていた頃のことだ。……あの頃は、お前をどこへも行かせず、こうして私の手の届く場所へ閉じ込めておけたらと、そればかりを……」
お兄様の言葉が、ふいに途切れた。
彼ははっとしたように私から視線を逸らし、拳を口元に当てて小さく咳払いをした。その耳の端が、夕陽の加減からか、わずかに熱を持っているように赤く染まっている。
「……いや。昔の話だ」
お兄様はそう言って、逃げるように自分のカップを口に運んだ。
その横顔を見つめていると、胸の奥に溜まっていた熱いものが、せり上がってくるのを抑えられなかった。
王都でのあの日々。完璧であることを求められ、失敗すれば捨てられるのだと怯えていた夜。それらすべてがお兄様の監視のもとにあったと思っていたけれど、今、目の前にいるお兄様から放たれる空気は、それとは全く違う色を帯びている。
「……お兄様」
私は、膝の上で組んだ指をぎゅっと握りしめて、震える声で問いかけた。
「お兄様は……昔から、私のことを、大切に……思っていてくださったのですか?」
お兄様のカップが、カチリと音を立ててソーサーに戻された。
彼はそのまま、凍りついたように動かなくなった。長い睫毛が影を落とし、その表情を読み取ることはできない。けれど、テーブルを掴む彼の手袋越しに、指の節が白くなるほど力がこもっているのが見えた。
沈黙が流れる。
風がテラスを吹き抜け、庭の緑がざわめく音だけが響く。
聞きいてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。そう後悔して私が俯こうとした瞬間、お兄様がゆっくりと顔を上げた。
「……当たり前だろう」
その声は、驚くほど低く、私の身体の芯まで震わせた。
お兄様の黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。その瞳の奥には、熱に浮かされたような激しさと、壊れ物を前にしたような臆病な優しさが、複雑に混ざり合って渦巻いていた。
「お前がそう疑わなければならないほど、お前を追い詰めたのは、私の不徳だ」
お兄様が、椅子を引いて立ち上がった。
軍靴が石床を叩く硬い音が近づき、彼は私の隣で跪くようにして視線を合わせた。
これほど近くでお兄様を見るのは、あの大夜会の夜以来かもしれない。至近距離で見つめられる彼の瞳には、言いようのない切なさが滲んでいた。
「お前は、アシュベルクの誉れだ。……いや、そんな看板はどうでもいい。お前がただ、そこにいて笑っているだけで、私は……」
お兄様の手が、私の頬にそっと触れた。
その温かさが、私の頑なな心を一気に溶かしていく。
「ああ、お兄様……」
視界が、急激に滲んでいった。
溢れ出した雫が、頬を伝ってお兄様の指を濡らす。私は、自分がどれほどこの言葉を求めていたのかを、今さらながらに思い知らされた。役立たずになっても、王妃になれなくても、ここにいてもいいのだと。
彼は何も言わず、ただ、あの日馬車の中で私を守ったときと同じように、私の頭をそっとその広い胸へと引き寄せた。




