第六章:笑顔
別邸から少し歩いた先に広がっていたのは、空の色をそのまま溶かし込んだような、静謐な藍色の湖だった。
周囲を取り囲む木々の深い緑が、鏡のような水面に鮮やかに映り込んでいる。時折、柔らかな風が吹き抜けるたびに、水面には細かな銀の鱗のような波紋が広がり、太陽の光を浴びてキラキラと眩しく爆ぜた。王都の、人の手で整えられた庭園とは違う、どこか手付かずの清らかな美しさがそこにはあった。
「……綺麗」
思わず、独り言が唇からこぼれ落ちた。
この数日間、私の世界は灰色一色だった。大夜会の屈辱、将来への底知れない不安。それらに押し潰されそうになっていた心が、目の前の光景に洗われていくような気がした。
ふと隣を見ると、お兄様が私と同じように湖を見つめていた。
軍服のボタンを外し、少しだけ肩の力を抜いたお兄様の横顔は、いつもの峻烈な印象を潜め、どこか穏やかに見える。
「……そうか。気に入ったのなら、連れてきた甲斐があった」
お兄様の声が、風に乗って低く響く。
私は、お兄様がどうしてこんなにも私を気に掛けるのか、その真意を測りかねていた。かつてはあんなに厳しく、私を「完璧な王妃候補」へと作り替えることだけに執着していた人なのに。
けれど、今はその疑問さえも、温かな陽光の中に溶けていく。
水際で揺れる小さな白い花を見つけ、私は思わず数歩駆け寄った。
「見てください、お兄様。こんなところにかわいらしい花が……」
振り返った拍子に、自分でも驚くほど自然に笑みがこぼれた。
頬が緩み、胸の奥に溜まっていた澱がふっと軽くなる。久しぶりに思い出した「楽しい」という感覚。
その瞬間、お兄様が息を呑む音が聞こえた。
彼は立ち止まったまま、射抜かれたような表情で私を見つめていた。
「……ああ。そうだな。お前がそうして笑うのを、私は……」
お兄様の言葉は、最後まで続かなかった。
彼はふいと顔を背け、強張った顎のラインに一層力を込めた。その耳たぶが、西日に照らされたせいか、それとも別の理由からか、わずかに赤らんでいるように見えた。
再び歩き出したお兄様の背中は、いつになく急いでいるようで、私はその後ろ姿に、不思議な動揺と微かな温もりを感じながら、春の湖畔を歩み続けた。
湖畔を縁取るように続く小道は、進むにつれて背の高い草木に覆われ、湿り気を帯びた黒い土が露出していた。私は花の美しさに気を取られ、足元への注意を疎かにしていたのかもしれない。ふわりと風に舞った白い花びらを視線で追いかけ、不用意に一歩を踏み出した瞬間、靴の裏が滑らかな泥に滑った。
「あっ……!」
視界がぐらりと傾く。咄嗟に手を伸ばしたけれど、掴めるものは何もない。無様に転ぶことを覚悟して目を閉じた、その時だった。
衝撃が来る代わりに、私の体は強烈な力で引き上げられた。
「危ない」
すぐ耳元で、低く、切羽詰まったような声が響いた。
気がつくと、私はお兄様の逞しい腕の中に閉じ込められていた。一方の手は私の腰をしっかりと支え、もう一方の手は私の背中を抱き込むようにして、逃げ場を完全に塞いでいる。
お兄様の胸板に顔を押し付けられる形になり、鼻腔には彼の衣服から漂う石鹸の香りと、それを上書きするような、雄々しく猛々しい体温の匂いが流れ込んできた。
「……申し訳、ございません。お兄様、ありがとうございます」
私は慌てて離れようとしたけれど、お兄様の腕にはさらに力がこもり、解放されるどころか、より深く彼の体に密着させられた。
見上げると、お兄様はひどく強張った顔で私を見下ろしていた。黄金色の瞳が激しく揺れている。彼の喉仏が大きく上下し、私を支える指先がドレスの布地を掴んで、目に見えて震えていた。
「……放して、お兄様。もう大丈夫ですから」
「……だめだ」
お兄様の声は、絞り出すような掠れ方をしていた。
彼は私を地面に降ろすどころか、まるでお前を二度と地面に触れさせたくないとでも言うように、軽々と私を抱きかかえ上げた。
「お兄様!? 恥ずかしいです、降ろしてくださいませ!」
「足場が悪い。屋敷に戻るまで、このままでしろ」
お兄様は私の抗議を無視し、前だけを見据えて歩き出した。
彼の横顔は、まるで戦場に赴く騎士のように険しく、けれどその頬は、夕刻の陽光のせいだけとは思えないほど、耳の付け根まで赤く染まっていた。




