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第五章:別邸

 馬車が緩やかに速度を落とし、最後の一揺れと共に止まった。

 御者が扉を開けると、まず飛び込んできたのは、王都のそれとは明らかに異なる、瑞々しく甘い、草木の混じった空気の匂いだった。


 お兄様に導かれるようにして車外へ降り立つと、そこには眩いばかりの陽光が降り注いでいた。

 視界いっぱいに広がるのは、若葉を揺らす柔らかな緑。別邸を囲む森の木々が、春の風にさらさらと音を立てて波打っている。王宮の冷たく硬い大理石や、公爵邸の重厚な装飾ばかりを見ていた私の網膜には、その鮮やかすぎる色彩が、まるで滲んでいく水彩画のように優しく映った。


(……温かい)


 頬を撫でる風は、凍てつくような冷たさを脱ぎ捨て、春の陽だまりのような微熱を帯びている。遠くの方で、名を識らぬ小鳥たちが競い合うようにさえずる声が、静かな別邸の庭に響いていた。


 ふいに、足元に大きな影が落ちた。

 振り返ると、お兄様が私のすぐ後ろに立ち、黄金色の瞳を細めて辺りを見渡していた。


「……ほこりっぽい王都よりは、幾分かましだろう」


 お兄様の声は、どこか低く、落ち着いた響きをたたえていた。


 お兄様が、ゆっくりと私の肩に手を置いた。


「ここには、お前を値踏みするような視線はない。……私の許可なく、何者もお前の領域に立ち入らせることもない」


 お兄様の指先に、わずかに力がこもる。

 私は彼を見上げようとしたけれど、お兄様の視線があまりに熱く、鋭く私を射抜いていたため、すぐに視線を逸らしてしまった。


「……さあ、中へ入れ。お前のための部屋を用意させてある」


 促されるまま、私は緑に囲まれた白亜の別邸へと足を踏み入れた。

 背後で、重厚な玄関の扉が閉まる音がした。


 別邸の内部は、王都の本邸のような重苦しい金細工や歴史を物語るタペストリーはなく、白を基調とした調度品が陽だまりのような暖かさを醸し出していた。


「……お兄様、案内は侍女の方に。お兄様もお疲れでしょうし」


 私が控えめにそう告げると、お兄様の歩みが私の真横で止まった。


「侍女なら下がらせた。ここにお前の世話をする者は、私だけでいい」


 お兄様の声が、ホールの高い天井に反響した。

 耳を疑うような言葉に、私の心臓がどくりと跳ねる。王都では常に数十人の使用人が控えていたのに、この広い屋敷に人の気配が全く感じられない。


「私だけで、とは……。お着替えや、食事の準備は……」


「すべて、私が整える。……お前に触れるのは、私だけで十分だ」


 お兄様はそう言い捨てると、私の返事も待たずに階段へと向かって歩き出した。

 私は、彼の背中を追うしかなかった。

 お兄様の広い背中が、窓から差し込む光を遮り、大きな影となって私の足元を飲み込んでいく。


 二階に上がり、一番奥にある大きな扉の前でお兄様が足を止めた。

 彼がドアノブを回し、部屋の中へ私を促す。


「ここがお前の部屋だ、エルナ」


 足を踏み入れたそこは、私の好きな淡い水色の花々が活けられ、ふかふかの絨毯が敷き詰められた、王都の自室よりもずっと贅沢で優美な空間だった。

 窓から差し込む午後の光が、磨き上げられた調度品に反射してキラキラと踊っている。王都での私の部屋は、常に「次期王妃」としての品位を保つための、どこか息苦しい緊張感に満ちていたけれど、ここは違う。空気にまで、微かな花の香りと、陽だまりのような温かさが溶け込んでいるようだった。


「気に入ったか」


 お兄様は扉の傍らに立ち、少しだけ表情を和らげている。


「はい……とても、素敵です」 


「そうか……」


 お兄様はそう呟くと、そっと私の側まで歩み寄ってきた。

 お兄様の手が、迷うように空中で一度止まり、それから私の耳元にこぼれた髪を一房、そっと指先で掬い上げた。


「近くに美しい湖がある。……あとで見に行こう」


 その声は、驚くほど穏やかで優しかった。

 けれど、その優しさがかえって、私の心臓を激しく揺さぶる。


「お兄様……どうして、そんなに優しくしてくださるのですか? 婚約破棄された私を、いつものように叱ることもせず……」


 私の問いかけに、お兄様は何も答えなかった。


「……早く着替えろ。私は外で待っている」


 お兄様はそれだけ言うと、背を向けて部屋を出ていった。

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