第四章:憂鬱
翌朝、カーテンの隙間から差し込む光は、私の腫れぼったい瞼を容赦なく射抜いた。
鏡の中には、昨夜の絶望をそのまま塗り固めたような、青白い顔の女が映っている。侍女の手を借りてドレスに身を包みながらも、私の心はまだ、昨夜の冷たい夜に置き去りにされたままだった。
食堂の重厚な扉が開かれると、銀食器が微かに触れ合う音と、淹れたてのコーヒーの香りが漂ってきた。
「おはよう、エルナ」
長いテーブルの端、いつもの席に座るお兄様が、新聞から視線を上げて短く言った。
私は指先の震えを隠すためにドレスの裾を強く握り、深々と頭を下げる。
「……おはようございます、お兄様」
自分の声が、自分のものではないほど掠れていた。
向かい側の席に腰を下ろすと、目の前には完璧に盛り付けられた朝食が並べられた。けれど、鼻腔をくすぐるはずの料理の匂いは、今の私には砂を噛むような予感しかさせない。
お兄様は、昨夜あんなにも凄惨な怒りを王宮で剥き出しにし、馬車の中であの冥い瞳を向けてきたことなど、すべて夢だったかのような落ち着き払った動作で、静かにパンを口に運んでいる。
「顔色が悪いな。やはり、昨夜の心労が祟ったか」
ふいに投げかけられた言葉に、私は肩をびくりと震わせた。
お兄様が、新聞を置いて私を見ている。黄金色の瞳は、いつものように凪いでいて、その奥に何を隠しているのかは、今の私にはもう読み取ることができない。
「……いえ。少し、寝付けなかっただけですので、ご心配には及びません」
私は必死に声を整え、スープスプーンを手に取った。カチリ、と銀色が皿に当たる音が、静まり返った室内で異様に大きく響く。
「……そうですわ、お兄様」
口の中に広がるスープの味など、何一つ分からない。私は視線を落としたまま、喉までせり上がってくる嗚咽を押し殺して問いかけた。
「今後の……私の身の振り方について、何か、お決めになったことはございますか? 公爵家の名に傷をつけた私に、相応しい場所を……」
『相応の場所』。
その言葉を口にするだけで、胸が焼け付くように痛んだ。
お兄様がカップを置く音がした。わずかな沈黙。私は顔を上げることができず、ただ見慣れたはずのテーブルクロスの刺繍を凝視し続ける。
「急ぐ必要はないと言ったはずだ。まずは体を休めることだけを考えろ」
お兄様の声は、どこまでも穏やかだった。けれど、その穏やかさが、私には死刑執行を先延ばしにする慈悲のようにしか聞こえない。
「……はい。お兄様のおっしゃる通りに」
私はそれ以上、何も聞けなかった。
お兄様は再び新聞を手に取ったけれど、その視線は活字を追っているようには見えなかった。ただ静かに、けれど逃げ場を塞ぐような重苦しい沈黙が、私たちの間に横たわっている。
その後の朝食がどのような味だったのか、結局最後まで分からなかった。
お兄様はそれ以上何も語らず、私もまた、皿の上の冷え切った料理を眺めることしかできなかった。
自室に戻り、重い扉を閉めた瞬間、私は崩れるようにしてカウチに身を投げ出した。
それから数日。私の世界は、この四方の壁に囲まれた部屋のなかだけで完結していた。
やるべきことが、何もない。
あれほど私を追い詰めていた妃教育の講義も、礼儀作法の練習も、すべてが幻だったかのように消え失せた。机の上に置かれたままの分厚い歴史書や、隅に追いやられた竪琴。それらを見るたび、胸の奥が冷えていくのを感じる。
鏡のなかの私は、数日でさらに頬が削げ、瞳からは生気が失われていた。
侍女たちが持ってくる食事にはほとんど手を付けず、ただ、窓の外を流れる雲を眺めて過ごす。時折、お兄様が屋敷に帰ってくる馬車の音が遠くに聞こえると、心臓が跳ね上がるような、けれど同時に深い泥に沈むような、割り切れない感情が喉元までせり上がってきた。
お兄様は、私をどうするつもりなのだろう。
叱責もされず、追い出される気配もない。ただ、こうして「無」のなかに放置されることが、どんな罵倒よりも残酷な罰のように思えてならなかった。
そんなある日の午後。
何日目かの午後の日差しが、絨毯の模様をゆっくりと這っていたときだった。
コン、コン、と。
予期せぬ控えめな、けれど芯の通ったノックの音が、静まり返った部屋に響いた。
「……はい」
掠れた声で応じると、扉がゆっくりと開かれた。
逆光のなかで、すらりとした長身の影が落ちる。
部屋着のガウンを羽織ったお兄様が、そこに立っていた。
彼は部屋の入り口で一度足を止め、私の青白い顔と、手付かずのティーセットを黄金色の瞳でゆっくりと一巡させた。その瞳がわずかに細められ、彼は音もなく私の傍らまで歩み寄る。
「……エルナ」
頭上から降ってきた声は、これまでの峻烈なものとは違い、どこか戸惑うような熱を帯びていた。
私は顔を上げることができず、膝の上で組んだ指先をじっと見つめる。
「……顔色が、以前にも増して酷いな。これでは、公爵家の庭の花さえ枯れてしまいそうだ」
お兄様は、私の前のサイドテーブルに置かれた冷え切った紅茶に手を触れた。
その指先が、わずかに苛立たしげにテーブルを叩く。
「……明後日、領地の別邸へ行く。お前も同行しろ」
耳を疑うような言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
お兄様は私を射抜くような強い眼差しで見下ろしていた。その眉間には深い皺が寄っており、彼が何か、言いようのない焦燥を抑え込んでいるのが、その強張った肩のラインから伝わってくる。
「気分転換だ。……これ以上、この薄暗い部屋で、お前が幽霊のように透けていくのを見ていられるほど、私の忍耐は強くない」
お兄様の手が、私の頬に触れようとして——またしても、躊躇うように拳を握りしめ、下ろされた。
彼の呼吸が、いつもよりわずかに荒い。
「準備をしておけ。……拒否は許さん」
そう言い残すと、お兄様は背を向け、風のように部屋を去っていった。




