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第三章:眠れぬ夜

 屋敷に戻った後の記憶はひどく断片的だった。


 侍女たちの同情を含んだ、痛々しいほどに静かな手つき。湯船から立ち上る蒸気のなかに、王宮の百合の香りがまだ混ざっているような気がして、私は何度も自分の腕を擦り洗った。


 ようやく重いシルクの寝衣に袖を通し、私は広すぎるベッドのなかに滑り込んだ。

 ふかふかの枕に頭を沈め、天井を見上げる。

 いつもなら、この時間は翌朝の講義の予習や、ジギスムント殿下に送る手紙の推敲すいこうで、頭のなかが埋め尽くされていた。けれど今、私の思考を支配しているのは、ただ一点。


(……明日から、私はどうなるの?)


 静まり返った寝室。時計の針が時を刻む音だけが、耳のすぐ傍で無慈悲に鳴り響いている。

 婚約破棄をされた令嬢。それも、あんな大夜会の場で。

 社交界からの追放は、火を見るよりも明らかだった。これまでは「次期王妃」という盾があったからこそ、表向きには誰も私をさげすめなかった。けれど明日になれば、アシュベルク公爵家の「不出来な人間」という烙印らくいんが、私のすべてを塗り潰すだろう。


(お兄様は……「しばらくゆっくりしろ」っておっしゃったけれど。いつまで?)


 お兄様の言葉が、暗闇のなかで何度も反芻はんすうされる。


 私は寝返りを打ち、自分の体を抱きしめるようにして膝を丸めた。

 公爵家のお荷物として、一生をこの屋敷の片隅で過ごすことになるのか。それとも、どこか遠くの修道院にでも送られるのか。

 窓の外から、風に揺れるこずえの音が、ざわざわと私の不安を煽る。


 その音を聴いていると、記憶の底に沈んでいた、あの冷たい冬の日の光景が浮かんできた。

 私がアシュベルク公爵家に引き取られたのは、まだ自分の名さえ満足に綴れないほど幼い頃のことだ。


 血の繋がらない家族。

 金色の瞳を持つ獣人たちのなかで、魔力を持たないただの「人間」である私は、いつも場違いな色彩を放つ異物だった。お父様もお母様も、私を衣食住に困らぬよう育ててはくれたけれど、その眼差しには常に、壊れやすいガラス細工を扱うような、どこか遠い距離感があった。


 その事実を突きつけられたのは、デビュタントを迎える一年前の、あの夜のことだ。

 書庫へ本を返しに行く途中で漏れ聞こえてきた、両親とお兄様の密やかな相談。


「もしエルナがジギスムント殿下のお眼鏡にかなわなければ、その時は予定通り、遠縁の伯爵家へ養女として出しましょう」


「養女」という響きの裏にあるのは、明らかな「放出」だった。


「……当然の判断です」


 低く、どこか冷淡な響きを湛えたその声に、私の心臓が大きく跳ねた。お兄様の声だった。


「早々に相応の場所へ送り出してください」


 その一言が、私の胸の中央を無慈悲に貫いた。

 指先から体温が引いていく。あまりの衝撃に、持っていたはずの燭台がガタガタと音を立てそうになり、私は必死にそれを両手で押さえ込んだ。


(……お兄様も、私がいなくなることを望んでいたの?)


 アシュベルクの血を引かぬ私が、この家で息をすることを許される唯一の条件。それが王家との婚約であり、獅子の家柄にふさわしい「完璧な王妃候補」としての価値だったのだ。


(また、あの日と同じだわ)


 シーツの端を握りしめる指が、微かに震える。

 あの時、私は捨てられたくない一心で、ジギスムント殿下の婚約者の座におさまり、お兄様の過酷な教育にすがり付いた。冷たい言葉を投げかけられても、寝る間を惜しんで歴史書を暗唱し、指先から血が滲むまで竪琴を弾き続けた。それだけが、この公爵邸に私の居場所を繋ぎ止めるための、唯一の鎖だったから。


 けれど、その鎖は今夜、無残に断ち切られてしまった。

 ジギスムント殿下の隣には、運命が選んだ「つがい」がいた。努力や教養では決して埋められない、本能という名の壁。


(……役立たずな私を、お兄様はどうするつもりかしら)


 お兄様は、私を伯爵家へ送り出す準備を始めるのだろうか。あるいは、もっと人目に付かない遠くの領地へ。

「しばらくゆっくりしろ」というあの言葉は、私をこの家から追い出すための、時間稼ぎなのではないだろうか。


 目尻から溢れた一雫が、枕に吸い込まれて冷たく広がっていく。

 闇のなかで、自分という存在がどんどん希薄になっていくような感覚。


 物心ついた時から、私は誰かの期待に応えることでしか「生きていい理由」を見つけられなかった。

 暗い天井を見つめながら、私は自分の胸元に手を当て、力なく脈打つ心音を確かめる。

 捨てられる。その言葉が、風の音に混じって何度も何度も、私の耳元で囁き続けていた。

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