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第二章:鉄の揺籠

 大広間の重厚な扉が閉まると同時に、背後から漏れ聞こえていた微かなざわめきが、断ち切られたように消えた。高い天井に反響するお兄様の足音だけが、私の鼓膜を一定のリズムで叩く。


 お兄様の歩幅はいつもよりわずかに広く、私はドレスの裾をさばきながら、すがるようにその背中を追いかけた。掴まれた手首に伝わる熱は、夜の廊下の冷たい空気の中でも衰えることなく、むしろ増しているように感じられた。


(……怖い。どうして何もおっしゃらないの)


 いつもなら、人目に付かない場所へ出た瞬間に、私の不手際を列挙する氷のような言葉が降り注ぐはずだった。「公爵家の令嬢としての自覚が足りない」「私の教育のどこに不備があったのか」……。その厳しい叱責を予期して、私は首筋を強張らせ、肺の奥で浅い呼吸を繰り返した。


 王宮の玄関に待機していた我が家の馬車が見えてくる。御者が慌てて扉を開ける音、夜の静寂を揺らす馬のいななき。お兄様は私の返事も待たず、なかば強引に私を馬車のなかへと促した。


 車内の暗がりに逃げ込むようにして座席に沈み込む。直後、お兄様が対面の席ではなく、私のすぐ隣に滑り込んできた。

 バタン、と扉が閉まる。

 密閉された空間に、先ほどよりも一層濃密な、獅子の獣人特有の熱気が立ち込めた。 


 王宮の喧騒は残酷なほど遠のき、代わりに車輪が石畳を叩く規則的な振動と、隣に座るお兄様の衣擦れの音だけが、この狭い箱の中を支配し始める。


 車内に揺れる魔導燈の青白い光が、お兄様の横顔を深く、鋭く切り取っていた。

 鼻腔を突くのは、夜風と共に流れ込んだ湿った土の匂い。そして、お兄様の体から放たれる、嵐の前の静けさのような、ひどく熱を持った熱気。その存在感があまりに濃くて、私は肺の奥が凝固していくような錯覚を覚えた。


(……お怒りだ。当然だわ)


 私は膝の上で、白くなるまで指を組み直した。爪が手の甲に食い込み、鈍い痛みが走るけれど、今の私にはその痛みすら自分を繋ぎ止めるための細い糸だった。

 お兄様は、一度も私と視線を合わせない。組んだ腕を離さず、彫像のように硬直したまま、流れる窓の外の闇を睨みつけている。その顎のラインは岩のように強張こわばり、時折、剥き出しになった怒りの残滓が、火花のように彼から漏れ出しているのが分かった。


「……っ、お兄、様」


 沈黙に耐えきれず、私の喉から、ひび割れた声がこぼれ落ちた。

 お兄様の眉間が、わずかに、しかし致命的な鋭さで寄る。

 私は肩を震わせ、さらに深く首をすくめた。心臓の音が、馬車の振動よりも大きく耳の奥で鳴り響いて、頭がどうにかなりそうだった。


「申し訳、ございません……。私の不徳の致すところで、公爵家の名誉を……これまでの、お兄様の指導を、すべて無駄にしてしまいました」


 言葉を吐き出すたび、視界がじわりとにじんでいく。

 あんなに厳しく、血を吐くような思いで叩き込まれた妃教育。指先ひとつ、視線ひとつに至るまで、お兄様が求めたのは「完璧」だった。それに応えられなかった自分の無能さが、今はただ、鋭い棘となって胸の奥を突き刺す。


「私がもっと、淑女として完璧であれば。殿下の……ジギスムント殿下の御心を引き止めるだけの、価値があれば……こんなことには……」


 ポツリと、手の甲に熱い雫が落ちた。

 それまで沈黙を守っていたお兄様の喉から、獣が低く唸るような、地響きに似た音が漏れた。


「……黙れ」


 その声は、怒りというよりも、喉の奥で何か巨大な感情を押し潰したような響きだった。

 お兄様が、ゆっくりと首を巡らせる。

 黄金の瞳が、薄暗い車内でらんらんと発光している。その瞳に射抜かれた瞬間、私は蛇に睨まれた獲物のように呼吸を忘れた。


「価値だと? ……お前は、あのような熊のなり損ないのために、自分の価値を量っているのか」


 お兄様の言葉は、氷のくさびとなって私の心臓に突き立てられた。

 彼は深く、重い溜息を吐き出す。

 その表情には、ジギスムント殿下への苛立ちとはまた別の、もっと冥く、濁った「何か」が渦巻いているように見えた。


 お兄様は身を乗り出すと、私の座席の背に手を突き、逃げ場を塞ぐようにして顔を近づけてきた。


 むせ返るような、獅子の熱。

 彼の荒い呼気が、私の濡れた頬を撫でる。


「……期待に応えられなかったと、言ったな。お前は何も分かっていない」


 お兄様の声が、かすれている。

 彼の大きな手が、私の頬を包み込んだ。

 手袋越しでも分かる、焼けるような皮膚の温度。

 その指先が、私の涙を乱暴に、しかしどこか名残惜しそうに拭い去る。


 お兄様の瞳が、至近距離で私の目元を執拗に追いかけていた。黄金色の虹彩が、暗い車内のわずかな光を拾って怪しく揺らめく。その奥に、私を呑み込んでしまいそうなほどの黒い情念を見た気がして、私は思わず息を止めた。


「……っ、お、兄様……」


 名前を呼ぶ声が震えた。

 その瞬間、お兄様の指先がぴくりと跳ね、弾かれたように私の顔から離れた。

 彼はそのまま、私の頭上の座席に突き立てていた腕を引き戻し、深く、深く、肺にあるすべての空気を吐き出すような溜息をついた。


 お兄様は背もたれに深く体を沈めると、片手で自身の顔を覆い、天を仰いだ。浮き出た首筋の筋が、彼が何かを必死に押し殺していることを物語っている。


「……エルナ」


 顔を覆ったままの、掠れた声。

 先ほどまでの熱を帯びた響きとは違う、どこか突き放すような、けれど無理に理性を繋ぎ止めているような、奇妙な冷たさが混じっていた。


「……しばらく、休むがいい」


 その言葉の意味が分からず、私は滲んだ視界のままお兄様を見つめた。

 お兄様は覆っていた手をゆっくりと下ろし、私を見ることなく、再び流れる窓の外の闇へと視線を戻した。


「明朝からは、妃教育の教師もすべて解任する。……公爵家の娘として、お前がこれ以上、あのような無能者のために心身を削る必要はない」


「でも、お兄様。私は、まだ……公爵家に泥を塗ったままで……」


「黙れ」


 低く、地を這うような声に、私は言葉を飲み込んだ。

 お兄様の横顔は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど険しい。彼は膝の上に置いた拳を、折れそうなほど強く握りしめていた。


「いいか、エルナ。……しばらくは何も考えるな。屋敷から出ることも、誰かと会うことも許さん。……ただ、静かに私の目の届く場所にいろ」


 それは、労りというよりは、有無を言わさぬ「命令」だった。


 馬車が角を曲がり、車体が大きく揺れる。

 その拍子に、お兄様の肩が私の肩とわずかに触れ合った。

 彼はそれを避けるでもなく、ただじっと、暗闇を見つめ続けている。

 私は膝の上で指を絡め合わせ、ただ、お兄様から発せられる圧倒的な存在感に押し潰されそうになりながら、屋敷へ続く夜道を耐え忍んだ。

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