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幕間:奪われた番、歪んだ忠誠の始まり

 その日は、忌々しいほどに晴れ渡っていた。

 アシュベルク公爵邸の広大な庭園に、王族を迎えるための色鮮やかな天幕が張られ、空気には甘ったるい菓子の香りと、着飾った貴族たちが振りまく香水の匂いが混じり合っていた。


 私の隣には、デビュタントを間近に控えたエルナが立っている。

 私が三歳のあの日、泥にまみれた孤児院の片隅で見つけ出し、今日まで一刻たりとも目を離さずに育て上げてきた、私の「番」。


 彼女の指先ひとつ、髪の一房、そしてその清らかな思考の隅々に至るまで、私は自分の色を染み込ませてきた。彼女が私を見上げるその瞳に、絶対的な信頼と、微かな恐怖、そして言いようのない依存の色が混ざるたび、私の内側に潜む獅子は歓喜で喉を鳴らした。


 この子は、私のものだ。

 いずれ家格を整えた上で、私の妻として正式に迎え入れる。その計画は完璧だった。彼女を私の手の届く「檻」の中で、一生涯甘やかな毒を食ませて飼い殺す。それが私の、歪んではいるが純粋な愛の終着点だった。


 だが、その平穏は、一人の少年の傲慢な声によって、粉々に打ち砕かれた。


「……ふうん。それがアシュベルクの娘か。噂以上の逸材じゃないか」


 背後から響いた、聞き慣れた、しかし生理的な嫌悪を催す声。

 振り返れば、そこには私と同年代の第一王子、ジギスムントが立っていた。

 熊の獣人の血を引く彼は、私と同じ十代半ばでありながら、既に完成された捕食者の眼差しを持っていた。


「……ジギスムント殿下。不躾な視線は、我が妹を困惑させます」


 私は反射的にエルナの肩を抱き寄せ、彼女を自分の背後に隠した。

 獅子の威圧(覇気)を無意識に漏らしていたのかもしれない。周囲の空気が一瞬で氷結し、近くにいた小鳥たちが一斉に飛び去る。


 だが、ジギスムントは怯むどころか、その瞳を愉しげに細めた。

 彼は私の肩越しに、怯えて私の服を掴むエルナの指先を、舐めるような視線で追っている。


「妹か。血も繋がっていない、ただの拾い人を、君はずいぶんと大事に抱え込んでいるんだね、レオンハルト」


 ジギスムントの口角が、勝ち誇ったように吊り上がる。

 あいつは知っているのだ。私がどれほどエルナを「女」として、執着を以て愛しているか。そして、私が大切にしているものを奪うことが、アシュベルク公爵家――王家にとって最強の盾であり、最大の脅威でもある我が家――を屈服させる、もっとも効率的な手段であることも。


「……殿下。言葉を選んでいただきたい」


「言葉なら選んでいるよ。最高に相応しい言葉をね」


 ジギスムントは一歩、私との距離を詰めた。

 熊の獣人特有の、重苦しく、粘りつくような魔力の波動が肌を打つ。


「父上――国王陛下も仰っていたよ。獅子を繋ぎ止めるには、強固な楔が必要だと。……君のその『大事な宝物』、僕が王妃として預かってあげてもいい。そうすれば、君も一生、王家の忠実なしもべとして、彼女の安泰を願うことになるだろう?」


 その瞬間、私の視界は真っ赤に染まった。

 右拳に魔力が集束し、大気が悲鳴を上げる。

 今ここで、この無能な王子の喉笛を噛み切り、その頭を石畳に叩きつけてやろうか。

 だが、私の背中で震えるエルナの小さな呼吸が、私の理性を辛うじて繋ぎ止めた。ここで私が暴発すれば、エルナは「反逆者の身内」として処刑されるか、あるいはもっと無惨な見世物にされる。


 私は血が滲むほどに奥歯を噛み締め、低く、地を這うような声で応えた。


「……冗談が過ぎます。殿下」


「冗談? まさか。……数日中に、正式な書状が届くよ。楽しみにしていてくれ、親友ともよ」


 ジギスムントは、私の肩を乱暴に叩き、高笑いと共に去っていった。

 残されたのは、静まり返った庭園と、私の腕の中で震え、今にも泣き出しそうなエルナだけだった。


 三日後。

 王宮からの使者が持参した、国王の親印が押された極秘の親書。

 そこには、ジギスムントの予告通り、エルナ・アシュベルクを第一王子の正妃候補として内定し、即刻、王宮での妃教育を開始せよとの命が記されていた。


 それは、表向きは栄誉ある「選出」であったが、実態は「人質」の要求に他ならなかった。


「……断る。こんなものは認めない!」


 父上の書斎で、私はその書状を握り潰した。

 魔力が暴走し、部屋の調度品がガタガタと音を立てて震える。


「レオンハルト、落ち着け! 相手は王家なのだぞ!」


 父上が悲痛な声を上げる。

 父上も、エルナが私にとってどのような存在かを知っている。だからこそ、その顔には深い絶望の色が張り付いていた。


「陛下は、ジギスムント殿下の後ろ盾として、我が公爵家の魔力と軍事力をどうしても手に入れたいのだ。……もしこれを断れば、陛下は『アシュベルクに反意あり』として、直属の騎士団を動かすだろう。……エルナを守るために、公爵家を滅ぼすつもりか!?」


「あの子を……私のエルナを、あんな下劣な男の寝所に送れと言うのですか!? 私が三歳の時から、あの子のすべてを守り、慈しみ、育ててきたのは、王家の道具にするためではない!!」


 私は吠えた。

 喉が裂け、血の味が口内に広がる。

 だが、父上の次の言葉が、私の心臓に冷たい楔を打ち込んだ。


「……お前が抗えば、エルナは『不敬の元凶』として殺される。……それでもいいのか?」


 視界が、ぐにゃりと歪んだ。

 殺される。

 あの柔らかな肌が冷たくなり、美しい瞳が光を失う。

 その光景を想像しただけで、私は自分の内側が凍りついていくのを感じた。


 私が守りたかったのは、私の独占欲を満たすためのエルナではない。

 エルナという存在そのものだ。

 彼女が生きて、呼吸をして、この世界のどこかに存在していること。それが私の、生きる唯一の理由だった。


「……ああ、ああああああ……ッ!!」


 私は、エルナを自分の婚約者にするために用意していた、あらゆる法的手続きの書類を、自らの手で引き裂いた。

 バラバラに舞い散る紙片は、私の未来そのものだった。


 手放さなければならない。

 この腕の中から。私の檻の中から。

 あの子を、あの毒々しい王宮の、あのような男の隣へ。

 私の手で、送り出さなければならないのだ。


 敗北感。無力感。

 そして、ジギスムントという男への、殺意を通り越した漆黒の憎悪。


 私のたった一つの宝物を、ただの「政治の道具」として、あるいは「私を嘲笑うための戦利品」として奪い去ろうとしている。


 ――許さない。


 私の胸の奥で、猛り狂う獅子が、復讐という名の産声を上げた。

 今はこの腕からお前へ渡すが、必ず奪い返す。

 私はすべてを焼き払ってでも、彼女を私の真の檻へ連れ戻してやる。


 そのためには、今のエルナでは足りない。

 あの無垢で、私に縋るだけの小鳥では、王宮という魔窟で生きていくことはできない。

 あの子を、最強の「盾」にしなければならない。

 私を憎ませてでも。私のことを、冷酷な支配者だと思わせてでも。


 その夜。私は、震えるエルナを暗い書庫に呼び出した。


「お兄様……? なぜ、灯りもつけずに……」


 何も知らないエルナの声が、夜の静寂に響く。

 私は彼女の顔を見ることができなかった。見れば、すべてを捨てて彼女を抱きかかえ、奈落まで逃げ出してしまいそうだったから。


「……エルナ。お前に、話がある」


 私は、自分の心臓を切り刻むような思いで、氷のような言葉を口にした。


「……明日から、お前は王宮へ行く。ジギスムント殿下の婚約者となることが決まった」


「え……?」


 エルナの息が止まる音がした。

 暗闇の中で、彼女の大きな瞳が、信じられないものを見るように私を探している。


「嘘……お兄様、嘘ですよね? 私を……ずっとお側にいさせてくださるって……」


「……状況が変わったのだ。お前はもはや、この家の甘えた令嬢ではない。王家に捧げられる、アシュベルクの『道具』だ」


「道具……?」


 彼女の指先が、私の袖を掴もうとして、空を切る。

 私はわざと一歩下がり、彼女との距離を置いた。

 心の中で、「違う、愛している、離したくない」と絶叫する自分を、冷酷な公爵家の人間としての理性が押さえつける。


「不出来であれば、アシュベルクの名に泥を塗ることになる。……お前が完璧でなければ、私はお前を捨てる。……いいか、完璧であれ。あのような男に、一瞬たりとも隙を見せるな。誰にも心まで踏みにじられるな」


「お兄様、嫌です……! 私、王宮なんて行きたくない! お兄様の側にいたいの……っ!」


 エルナが、私の胸に泣き崩れる。

 その小さな肩の震え、私の服を握りしめる必死な指先。

 そのすべてが、私の理性を焼き切ろうとする。


 抱きしめたい。

 その涙を拭って、「大丈夫だ、どこへも行かせない」と囁きたい。

 だが、今の私にできる最大の愛は、彼女を突き放すことだった。

 私への愛着を、恐怖と劣等感に変えてやる。

「完璧でなければ捨てられる」という強迫観念を植え付け、彼女を自立した、誇り高い淑女へと変貌させる。

 それが、地獄へ送る彼女に持たせてやれる、唯一の、そして最悪の武器だった。


「……泣くな。見苦しい」


 私は彼女の腕を乱暴に振り払い、背を向けた。


「明日から、妃教育を始める。……私の指導は、地獄よりも過酷だと思え。……お前が王妃として相応しい価値を持つまで、私は二度と、お前を妹とは呼ばない」


 背後で、エルナが床に膝をつき、声を上げて泣きじゃくる。

 その絶望の呻きが、私の魂を粉々に砕いていく。


(……憎め、エルナ。私を、王家を、この運命を)


 私は、溢れ出しそうになる涙を、煮え滾るような殺意で押し殺した。

 握りしめた拳から、血が滴り落ちる。


(待っていろ、ジギスムント。……お前がその玉座を汚し、エルナに飽き、彼女を傷つけるその日を、私は最前列で待っていてやる。……その時、お前のすべてを奪い、彼女を私の真の檻へ連れ戻す。……たとえ、この国を滅ぼし、歴史に逆賊として名を刻むことになってもな)


 暗闇のなかで、私の黄金色の瞳が冥く、狂気の色を帯びて発光していた。

 それは悲しみを超え、数年、あるいは数十年先まで続く執念が、産声を上げた瞬間だった。


 ――こうして、私の「教育」という名の復讐が始まった。


 彼女を完璧に仕立て上げ、ジギスムントに献上し、そしてあいつが彼女を「壊す」瞬間をじっと待つ。

 あの大夜会で、婚約破棄が告げられたあの瞬間。

 周囲が同情や嘲笑に包まれる中、私一人だけが、心の中で歓喜の咆哮を上げていた。


(……ようやく。ようやく、私の腕(檻)に戻ってきたな、エルナ)


 あの日、馬車の中で彼女を抱き寄せた時。

 彼女の絶望に濡れた瞳を見つめながら、私は自分の勝利を確信していた。

 ジギスムントは彼女を捨てたが、私は彼女を、かつてないほど濃密な支配で包み込み、二度と外界へ逃がさないと誓ったのだ。

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