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幕間

 孤児院の薄暗い中庭で、その「塊」を見つけた瞬間、私の世界のことわりはすべて書き換えられた。


 泥にまみれた粗末な服を纏い、地面に座り込んでいた小さな生き物。陽光を吸い込んだような淡い色の髪が揺れ、ふいと私を見上げたその瞳と視線がぶつかった。


 ――番だ。


 わずか七歳の私の身体の奥底で、獅子の血が爆ぜるような熱を帯びて咆哮した。この子が私の運命だ。この柔らかそうな頬も、今にも零れ落ちそうな大きな瞳も、すべては私が守り、支配し、愛するために存在している。


 気がついたときには、私はその小さな体を力任せに抱きかかえていた。


「……あ、う……?」


 腕の中のエルナが、驚いたように瞬きをする。三歳の彼女は、私に抱えられたまま、まるでお菓子でも見つめるような無防備な視線を私に返してきた。その純真な眼差しが、私の独占欲を一層激しく掻き立てる。


 私は彼女を離さないよう強く腕に力を込め、背後に控えていた父上と母上のほうへと振り返った。


「父上、この子を連れて帰ります。今日から、この子は私のものです」


 父上は目を見開き、絶句したまま立ち尽くしていた。母上も扇を口元に当て、困惑しきった様子で何度も瞬きを繰り返している。


「レオンハルト、何を言っているんだ。その子は……」

「何も言わないでください。この子は私の番です。誰にも渡しません」


 父上の言葉を遮り、私はエルナの首筋に顔を埋めた。ミルクのような甘い香りと、温かな体温。腕の中の彼女が、私の激しすぎる抱擁に少しだけ息を詰まらせ、小さな手で私の服の襟をぎゅっと掴んだ。


 エルナは不安そうに眉を寄せ、私の顔をじっと覗き込んでくる。その小さな唇が震え、今にも泣き出しそうに見えたけれど、私は彼女を降ろすどころか、さらに深く抱きしめた。


「怖がらなくていい、エルナ。お前はもう、私の檻の中にいればいいんだ」


 困り果てた様子の両親が何かを言い募ろうと近づいてくるが、私は一歩下がり、獅子の牙を剥くような鋭い視線で彼らを牽制した。


 たとえ親であっても、この子に触れることは許さない。

 私の腕の中で、エルナは不思議そうに首を傾げ、やがて諦めたように私の胸に額を預けてきた。その小さな重みが、私の魂にこれ以上ないほどの歓喜をもたらした。


 屋敷へ戻る馬車の中でも、私はエルナを膝の上から降ろさなかった。


 屋敷に着くなり、私はエルナを抱きかかえたまま、自分の寝室へと続く階段を駆け上がった。背後から父上の呼び止める声や、母上の狼狽した溜息が聞こえたが、今の私には羽虫の羽音ほどにも価値がない。


 部屋に入り、重厚な扉を閉めて鍵をかける。


「レオンハルト坊ちゃま、開けてくださいませ! その子をお着替えさせなければ……」


 扉の向こうで侍女たちが声を張り上げ、ノブをガチャガチャと回す音が響く。さらに教育係の厳格な老人の声が「公爵家の子息としての振る舞いを」と説教を始めた。


「うるさい! 去れ!」


 私は扉を蹴りつけ、獣のような声を上げた。

 外の気配が一瞬で静まり返る。彼らの困惑と恐怖が混ざったような沈黙が、扉の隙間から伝わってくる。


「……う、えぇ……」


 足元で、エルナが私のズボンの裾を握りしめ、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうに震えていた。見知らぬ豪華な部屋、そして私の怒声。彼女の大きな瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。


 私は慌てて膝をつき、彼女の小さな肩を抱き寄せた。


「エルナ、怖くない。私がいる」


 エルナは、しゃくり上げながら私の顔を覗き込んできた。彼女の瞳には私への恐怖が滲んでいたけれど、同時に、差し出された私の手に縋るように、その柔らかな頬を私の掌に寄せてきた。


 その瞬間、胸の奥が熱い悦びに満たされる。

 扉の向こうでは、まだ誰かが私を説得しようと小声で囁き合っている。だが、誰一人としてこの部屋へ入れるつもりはない。


 私はエルナを抱き上げ、大きな天蓋付きのベッドの真ん中に座らせた。広すぎるシーツの海の中で、彼女はいっそう小さく、儚く見える。


「お前は、ここで私と一緒にいればいい。誰にも触れさせない。……私が、お前のすべてになってやる」


 私はエルナの隣に横たわり、彼女の小さな体を腕の中に閉じ込めた。

 エルナは私の胸板に小さな手を置き、トクトクと鳴る私の鼓動に驚いたように瞬きを繰り返している。その無垢な仕草を見るたび、私の内側に潜む獅子が、獲物を完全に手中に収めた歓喜で、誇らしげに喉を鳴らしていた。



 エルナが七歳、私が十一歳になった頃のことだ。


 庭園の東屋で、エルナが私以外の男――父上の遠縁にあたる、十歳ほどの少年と向かい合っていた。少年が図々しくもエルナの手に触れようと身を乗り出し、自慢げに庭に咲く花の名を教えている。


 物陰からその光景を目にした瞬間、私の視界は真っ赤に染まった。

 全身の血が逆流し、体内の獅子が、獲物を横取りしようとする不届き者を八つ裂きにせよと猛り狂う。


「……何をしている」


 自分でも驚くほど冷たく、鋭い声が出た。

 二人がびくりと肩を揺らしてこちらを振り向く。少年は私の形相を見て、一瞬で顔を蒼白にさせ、差し出していた手を慌てて引っ込めた。その指先が、恐怖で目に見えて震えている。


「レ、レオンハルト様……これは、その……」


「失せろ。二度と、私のエルナの視界に入るな」


 私が一歩踏み出すと、少年は悲鳴に近い声を上げて逃げ出していった。その無様な後ろ姿などどうでもいい。私の関心は、今、不安げに私を見上げているこの小さな「番」だけにある。


「お兄様……?」


 エルナは、私のただならぬ気配を察したのか、大きな瞳を潤ませて私の服の袖を遠慮がちに掴んできた。その小さな唇は小刻みに震え、私からの叱責を待つような、怯えた小鳥のような仕草を見せる。


 私は無言のまま、彼女の手首を掴み、強引に自分の方へと引き寄せた。


「痛っ……」


 小さな悲鳴が漏れる。けれど、私の怒りと執着は、その痛みさえも愛おしく感じさせるほどに狂っていた。私は彼女を東屋の柱に押し付け、逃げ場を塞ぐように両腕で閉じ込める。


「エルナ、言ったはずだ。お前の瞳には、私だけを映していればいいと。……どうしてあんな男に笑いかけた。どうして、その手を触れさせようとした」


「ごめんなさい、お兄様。私は、ただ……」


 言い訳を許すつもりはなかった。

 私は彼女の顎を強引に持ち上げ、泣きじゃくる直前の、瑞々しい瞳を真っ直ぐに射抜いた。私の黄金色の瞳が、獲物を威嚇するように冥く光っているのが、彼女の瞳の反射で分かる。


「お前は私のものだ、エルナ。私が拾い、私が育て、私が愛でるためだけの存在だ。……私の許可なく他人の声を聞くな。他人の色に染まろうとするな」


 私は、彼女の首筋――かつて私がその香りを吸い込んだ場所に、自身の額を強く押し当てた。

 ドクドクと早鐘を打つ彼女の脈動が、私の肌に直接伝わってくる。その震え、その恐怖、そのすべてが私のものであるという事実に、私は歪んだ歓喜に震えながら、彼女の髪を指で乱暴にかき回した。


「分かったなら、返事は。……お前は、誰のものだ」


 追い詰めるように囁くと、エルナは涙を零しながら、消え入りそうな声で「お兄様の……もの、です……」と、私の望む言葉を紡いだ。その敗北を認めたような甘やかな声を聞き、私はようやく、飢えた獅子の牙を収めることができたのだ。

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