第一章:崩れ落ちた金色の枷
鼻腔を突くのは、重苦しいほどに甘い百合の香気と、高価な香油、そして獣人たちが放つ獣特有の、わずかに熱を持った匂いだった。
王宮の大広間に設えられたシャンデリアの光が、数千のクリスタルを透過して、私の視界を不快なほどに白く焼き払う。
鼓動が、耳のすぐ奥で早鐘を打っていた。
ドレスの裾を握りしめる指先が、自分のものとは思えないほど氷のように冷え切っている。
「エルナ・アシュベルク。お前との婚約を、今この場を以て破棄させてもらう」
頭上から降り注いだのは、刃物のように鋭利で、一切の躊躇を含まない声だった。
私はゆっくりと、まるで錆びついた機械のように顔を上げた。
視界の先には、熊の獣人である第一王子、ジギスムント殿下が立っていた。
彼の大きな体躯から放たれる、威圧的な魔力の波動が、さざ波となって私の肌をチリつかせる。その傍らには、見たこともない令嬢が、壊れ物を扱うような手つきで彼に寄り添っていた。二人の間には、本能を揺さぶるような濃密な「番」の芳香が漂っている。
(ああ……そう、なのね)
肺の空気が、一度にすべて抜けていくような錯覚に陥った。
悲しみはない。ただ、胃の底に泥を流し込まれたような、重く、粘りつくような徒労感だけがそこにあった。
この数年間、吐き気に耐えながら詰め込んだ歴史書の内容、指先にタコができるまで弾き続けた竪琴、そして、一度たりとも正解を貰えなかった完璧なカーテシー。それらすべてが、今、殿下の気まぐれな「本能」という一言で、価値のない塵へと変わった。
扇を動かす衣擦れの音。ひそひそと交わされる密やかな笑い声。
周囲の貴族たちの視線が、針となって私の全身に突き刺さる。
「見て、あの呆然とした顔。……やっぱり人間には、獅子の公爵家も、次期王妃の座も荷が重すぎたのよ」
「どれほど着飾っても、魔力を持たないお荷物ですものね。当然の結末だわ」
嘲笑が、耳の奥で渦を巻く。
私は必死に、震える膝を内側に締め直した。
ここで倒れるわけにはいかない。もし無様な姿を晒せば、あの人が——義兄であるレオンハルトお兄様が、どのような顔をするか。
(また、あの冷たい目で私を見るんだわ。……『やはり、お前はこの程度か』って)
想像しただけで、心臓を直接氷で掴まれたように収縮する。
厳格で、非の打ち所がない獅子の公爵。
彼に認められたくて、彼にだけは「不出来」と言わせたくなくて、必死にこの次期王妃という「箔」にしがみついてきた。なのに、その唯一の拠り所が今、音を立てて崩れ去った。
「……承知、いたしました。ジギスムント殿下」
乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
私は、血を吐くような思いで叩き込まれた最高礼のカーテシーを捧げようと、深く腰を落とした。
視界が床に落ちる。
磨き抜かれた大理石に映る自分の影が、ひどく惨めで、滑稽に見えた。
その時だった。
背後から、大気を引き裂くような、凄まじい「覇気」が押し寄せた。
ホールの喧騒が、まるで時間が止まったかのように一瞬で凍りつく。
殿下が放っていた熊の威圧感など、一吹きで消し飛ばすような、重厚で、かつ絶対的な強者の気配。
(お兄……様?)
振り返らなくても分かった。
この、周囲の温度を数度引き下げるような、研ぎ澄まされた冷気。
私の背筋に、戦慄が走る。
いつものように、自分の無様さを衆人の前で叱責されるのだ。そう確信して、私は強く目を閉じた。
だが、降り注いだのは、予想だにしなかった「静かな怒り」を孕んだ声だった。
「運命、ですか。その程度の言葉で、わが妹の誇りを踏みにじり、この場で辱めた罪が消えるとお思いか」
私は弾かれたように顔を上げた。
視界が滲む。
目の前には、いつの間にか私の隣に立ち、殿下を冷徹に射抜くお兄様の背中があった。
鉄壁の要塞のように広い背中。
いつも私を突き放し、冷酷な言葉を投げかけてきたはずのその肩が、今は私を世界中の悪意から遮断する巨大な盾に見えた。
「レ、レオンハルト……何を、そんなに怒っているんだ。君だって公爵として、王家の血筋に『番』が必要なことくらい分かっているだろう。エルナとの婚姻は、もともと公爵家を繋ぎ止めるための政略に過ぎない。君にとっても、不出来な妹を押し付けられるよりは、破棄された方が清々するのではないか?」
殿下が、自身の喉を鳴らすような音を立てて、必死に言葉を紡いでいる。
「……殿下。言葉を選べ。私の忍耐にも限界がある」
低く、地を這うような掠れた声。
お兄様は、殿下の隣で震える「番」の令嬢にさえ、一瞥もくれなかった。
「二度と、エルナの名をその汚らわしい口で呼ぶな。この場で起きたことの報いは、追って正式に請求させていただく」
短く、氷の刃を突き立てるような宣告。
お兄様は、あたかも床に落ちた汚物でも見るかのような冷徹な眼差しを殿下に向けたまま、ゆっくりと私の方へ向き直った。
(……叱られる)
私は反射的に身を強張らせ、首をすくめた。
私を庇ってくれた驚愕。けれど、それ以上に「不甲斐ない失敗を見られた」という恐怖が私を支配する。
だが、視線の先にあったのは、蔑みではなかった。
黄金の瞳の奥、ひび割れた理性の隙間から、これまで見たこともないような深い情念と、熱を帯びた渇望が、どろりと溢れ出しているように見えた。
「……行くぞ、エルナ」
差し出されたお兄様の手。
それは微かに、しかし確かに震えていた。
彼は私の返事を待たず、その細い手を強引に、しかし壊れ物を扱うような繊細さで包み込んだ。
(え……?)
お兄様は一度も振り返ることなく、私の手を引き、歩き出した。
周囲にいた貴族たちは、あたかも猛獣の闊歩を前にした草食獣の群れのように、音もなく左右へと割れた。
カツ、カツ、と。
お兄様の軍靴の音だけが、静まり返った廊下に冷たく、傲然と響き渡る。
私は、兄に引かれるまま、必死にその背中を追った。
繋がれた手のひらから、彼の激しい鼓動が、私の心臓へと直接流れ込んでくるようだった。




