第七話
四つ目の願い、音楽会。
それは王都で開かれる大きな音楽会ではなく、エドヴァルトが手配した小さな室内楽の演奏だった。
王宮の小ホールに、四人の演奏家が集められた。
他に客はいない。二人だけのために演奏される音楽。
エリアーナは最初、その規模に驚いた。
「こんなに贅沢なことを……」
「お前が行けるか心配だった。大勢の中にいると疲れるだろう」
その言葉に、エリアーナは少し黙った。
自分の体のことをそこまで考えてくれていたのか、と知って、胸の中に温かいものが散った。
演奏は美しかった。
バイオリンとチェロ、フルートとピアノ。
柔らかな音楽が空気を満たした。エリアーナは目を閉じて、音の中に身を委ねる。
演奏の途中、隣にいるエドヴァルトをそっと見ると、彼は前を見ていたが、その横顔は普段より穏やかだった。
五つ目の願い、海。
これだけは王都からは距離があったため、一泊二日の旅程を組んでもらった。
エドヴァルトが同行したことに、王宮中が驚いたが、それは誰も口にはしない。
冬の海は凛として、冷たい風が吹き、波が白く砕けた。
「わあ」
エリアーナは砂浜に降り立って、両腕を広げると、声が風に飛んでいった。彼女の金色の髪が乱れた。
「冷たいですが、海の匂いがします。生き物の匂い」
エドヴァルトは少し後ろに立つ。
「昔来たことがあるか?」
「ありません。内陸育ちですから」
「では初めての海か」
「はい」
エリアーナは振り返って笑う。
「見てください、波が来ます」
波が押し寄せてきて、エリアーナの靴の縁を濡らし、彼女はきゃっと笑いながら後退り、エドヴァルトの傍に戻ってきた。
「冷たかった!」
エドヴァルトは少しだけ、ほんの少しだけ、口の端を持ち上げたのを、エリアーナはその瞬間を見逃さなかった。
六つ目の願い、スープを一緒に作ること。
これは王宮の厨房を使って行われた。
料理長は最初、王太子が厨房に立つと聞いて卒倒しそうな顔をしたが、エリアーナが「私が作り方を教えますから」と言うと、渋々場所を空けた。
エリアーナは辺境の家で覚えた根菜のスープの作り方を知っていた。
玉ねぎを切り、人参を切り、鍋に入れて炒める。
そこに水を注いで煮込む。
「殿下、玉ねぎをみじん切りにしていただけますか」
「……わかった」
エドヴァルトはぎこちなく包丁を持ち、エリアーナはこっそり微笑みながら、「もう少し細かく」「ここで動かすとよいです」と横に立って助言した。
エドヴァルトの切った玉ねぎは不揃いだったが、それでもスープに入れれば同じ。
鍋の中で野菜が煮えていく間、二人は並んで立った。湯気が上がり、部屋中に温かい香りが漂う。
「スープは得意なのか」
「得意というほどではありませんが、子どもの頃によく作りました。母に教わって」
「母君は達者か」
「……三年前に亡くなりました」
「そうか」
エドヴァルトは少し間を置いた。
「それは知らなかった」
「王宮に入って間もなくのことでしたから。あまり知らせが届かなくて。葬儀にも参列ができませんでした」
鍋をかき混ぜながら、エリアーナは言った。
「母はとても良い人でした。辺境の厳しい生活の中でも、いつも明るくて。死ぬ直前に、私に言ったんです。幸せになりなさいよ、と」
エドヴァルトは黙っていた。
「幸せになれたかどうか、わかりませんが」
エリアーナは続けた。
「こうして願いを叶えてもらっている今は、不思議と幸せな気持ちがします」
スープが仕上がると、二人でそれを食べた。
料理長が「仕上げを手伝います」と何度も申し出たのを断って、自分たちで盛り付けた。
エリアーナのスープは素朴で温かく、エドヴァルトは一度目のお代わりをして、黙って食べた。
七つ目の願い、馬で駆けること。
これは最初の願いから数えて二ヶ月後のこと。
エリアーナの体の状態が比較的良い日を選んで、二人は王宮の外の草原に出た。
冬の草原は枯れていたが、空は高い。
エリアーナは馬に跨り、手綱を握った久しぶりの感触。
「行きますよ」
彼女は馬を駆け出させた。
風が顔を打ち、体が浮く感覚。
草原の上を飛んでいくような解放感に、エリアーナは声を上げて笑った。
隣にエドヴァルトが並び、彼の馬が速度を合わせ、二頭が並んで草原を駆けた。
それはほんの数分間のことだったが、エリアーナには一生忘れないものに感じられた。
八つ目の願い、図書館に一日。
王宮の図書室に二人で籠もった。
エリアーナは自分の好きな本を積み上げ、エドヴァルトは政務の書類を持ち込んで別のテーブルで仕事をした。
互いに何も話さない時間が流れる。
しかしそれは、かつての沈黙とは違い、温かく、穏やかな沈黙。
夕方近く、エリアーナが本を読みながら居眠りをした。
目が覚めると、肩にエドヴァルトの外套がかけられていた。
エドヴァルトは自分のテーブルで書類と格闘していて、エリアーナが目を開けたことには気づかなかった。
エリアーナは外套の端を握りしめて、また目を閉じた。
九つ目の願い、夕陽を見ること。
それは二月の終わり頃。
エリアーナの体は、この頃には明らかに悪化していく。
朝起き上がるのも難しく、日中の半分は横になって過ごすようになっていた。
それでも、最後から二番目の願いを叶える日を、エドヴァルトは慎重に選んだ。
体調が少し持ち直した午後、二人は馬車で丘の上に出た。
日が落ちるのを待ちながら、エリアーナは毛布にくるまって丘の斜面に座ると、エドヴァルトはその隣に、少し距離を置いて座る。
太陽が地平線に近づくにつれ、空が色を変えた。橙、赤、紫、そして深い青。
エリアーナはその色の移ろいを、一つも見逃さないように目を開ける。
胸が痛んだが、今だけはそれを感じなかった。
「きれいですね」
何も答えないエドヴァルトの横顔を、エリアーナはちらりと見た。
夕陽を見つめるその横顔に、エリアーナはこれまで見たことのない表情。
それは悲しみに似ていた。
「殿下。残りの願いは、最後の一つになりましたね」
「ああ。最後の願いは決まっているのか?」
「……」
エドヴァルトの目が、かすかに揺れる。
「はい。それが叶ったら、きっと私は安心して逝けます」
「それは……」
エドヴァルトはしばらく沈黙していた。
エドヴァルトのその目に、今夜の空と同じ複雑な色が宿っている。
橙でも青でもない、その間にある色。
「帰るぞ」
「殿下……」
エドヴァルトは立ち上がり、エリアーナに手を差し伸べ、その手を取って立ち上がる。
その手が、馬車に乗り込むまでの間、離れなかった。
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