第三話 一つ目の願い
街への外出は、一週間後に設定された。
エドヴァルトは護衛の手配や変装の準備を、自ら指示したという。
それを伝え聞いたエリアーナの侍女は目を丸くした。
「殿下が直接おっしゃったのですか?」
「そうらしいわ」
「まあ……」
侍女は複雑な顔をしたが、すぐに切り替えた。
「では、奥様のお召し物を考えなくては。貴族のお嬢様、という感じでよろしいでしょうか?」
「街の人々の暮らしを見たいのだから、あまり目立たない方がいいと思うわ。普通の市民のような格好が一番かしら」
「でも奥様のそのお顔では、どんな服をお召しになっても目立ってしまいますよ」
エリアーナは笑った。久しぶりの笑い。
それが体の痛みを少し和らげた。
当日の朝、エドヴァルトは珍しく一刻早く迎えに来た。
エリアーナが廊下に出ると、彼はシンプルな紺色の上着に茶色のズボン、という出立ち。
王族のものと思しき細工物は何もなく、ただ布地の良さだけが品位を感じさせた。
エリアーナも侍女が選んだ深緑の一枚布のドレスに、焦げ茶のケープを羽織る。
「行くか」
エドヴァルトはそれだけ言って歩き始めると、エリアーナは少し急いでその隣に並んだ。
王宮の裏口から馬車で城壁の外に出ると、そこはもう王都の下町だった。
エリアーナは窓から外を眺めた。
石畳の通り、色とりどりの店先、活気ある人々の声。
パンを売る屋台から温かい香りが流れてくる。
子どもたちが路地を走り回り、老婦人が井戸の傍で話し込んでいた。
馬車を降りて、二人は通りに降り立つと、エリアーナは思わず立ち止まった。
人の波、物の匂い、風の音、石畳の硬さ——全てが新鮮だった。
王宮の中にいては決して感じられないものが、ここには満ちている。
「歩けるか」
エドヴァルトの声に我に返った。
「はい、大丈夫です。すみません、少し……圧倒されてしまって」
「王宮に入る前も、こういう場所には来なかったのか」
「辺境の領地の出身ですから、こんなに大きな街は初めてで。故郷の市場も好きでしたが、ずっと小さくて。でも似たような匂いがします。パンと石畳の匂い」
エドヴァルトは何も言わなかったが、歩調を少し緩めた。
エリアーナはあちこちに目を向けながら歩く。
香辛料の屋台、布地を売る店、鍛冶屋の音、花売りの少女。
花売りの少女がエリアーナに近づいてきた。
「お姉さん、花はいかが?」
赤い野花を束にして差し出すと、エリアーナは思わず足を止めた。
「きれいな花ね。これは何という花?」
「ルースの花!秋にしか咲かない、めずらしい花なの。幸福を呼ぶって言われてるんだよ」
「まあ」
エリアーナは少女の手の中の花を見ると、深い赤に白い縁取りが入った小さな花。
「いくらかしら?」
値段を聞いて、エリアーナはハッとした。
王宮に入ってから、自分で何かを買ったことがなかった。
お金を持っていない。
「……あの、殿下」
声をかけようとしたとき、既にエドヴァルトがコインを出して少女に渡していた。
少女は嬉しそうに礼を言い、走り去るのを見送ると、エリアーナはエドヴァルトを見た。
「ありがとうございます」
「どうせ私が承認した外出費から出る」
素っ気ない言葉。
しかしエリアーナは花を受け取って胸に抱き、それをありがたいと思った。
しばらく歩いていると、広場に人だかりができていた。
近づくと、大道芸人が演じていた。
色のついた布を宙に投げ、空中で結び目を作る。
見事な手さばきに、集まった人々が歓声を上げた。
「すごい!どうやっているのかしら」
「手品だ」
「でも本当に一瞬で……」
手を叩いて笑うエリアーナの隣に立って、エドヴァルトは演技を見ていた。
彼が見ているのが芸人なのか、エリアーナなのか、わからなかった。
昼になると、二人は街の素朴な内装の食堂に入ると、並べられた木の椅子に座った。
「今日のスープはカボチャだよ、お兄さんもお姉さんも寒いだろう、温まっていって」
カボチャのスープが来ると、エリアーナはひと口飲んで、目を閉じる。
「……美味しい」
「そうか」
「本当に美味しいです」
「確かに悪くない」
「王宮の料理も美味しいのですが、なんといいますか……こういう、素直な温かさが」
それが二人の間で交わされた、食事中の会話のほぼ全て。
しかし、それでよかった。
エリアーナには、この沈黙が今日だけは重くない。
隣に人がいて、同じものを食べているというだけで、何かが満たされていく気がした。
帰り際、エリアーナはさっき買った花をじっと見る。
「一つお訊きしてもよろしいですか」
「何だ」
「殿下は、お好きなものはありますか。食べ物でも、場所でも、なんでも」
エドヴァルトは少し間を置き答える。
「……馬だ。乗ることが好きだ」
「私も好きです。辺境育ちですから、子どもの頃から馬に慣れ親しんでいました。それで願いに入れたのです」
「願いは馬で駆けることだったか」
「はい。いつか一緒に駆けていただけたら」
エドヴァルトは短くうなずくと、それきり口を閉じたが、エリアーナにはその沈黙が以前より少し柔らかくなった気がした。
それとも気のせいだったかもしれない。
王宮へ戻る馬車の中で、エリアーナは窓から街を見送りながら、胸の中に温かいものが灯るのを感じた。
一つ目。叶った。
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