第十話
三年目の春が来た。
エドヴァルトは書類を広げたまま、エリアーナの部屋で仕事をするようになっていた。
かつての白い結婚の時間が、今は逆の形で繰り返されていた。
あの頃は同じ屋根の下にいながら無関係だったが、今は離れていながら傍にいる。
風が吹くのを感じ、エドヴァルトは立ち上がり寝台を見た。
エリアーナの顔が、わずかに変わったように見え、蒼白だった顔に、ほのかな色が戻りつつあった。
胸が上下した。
エドヴァルトは寝台の傍に膝をつくと、エリアーナの指が動いた。
ゆっくりと、かすかに、そしてまぶたが、動いた。
かすかに開いた目が、混乱したように天井を見た。
それから、傍にある顔を見た。
「……で、んか?」
声は細く、掠れていた。しかしそれは確かに、三年ぶりに聞くエリアーナの声。
エドヴァルトは声も出せず、しばらく、ただ見つめるだけ。
「……エリアーナ」
「……は、い」
「三年かかった」
エリアーナは少し瞬いた。
「……三年、ですか」
「ああ」
「では、また三年分……殿下のことを知らなくなってしまいました」
「これから知ればいい」
エリアーナの目に、じわりと光が滲んだ。
「また十の願いを言っても、いいですか」
「二十でも、三十でも言え。すべて叶えるてやる」
「不思議ですね。三年間、毎日殿下が傍にいたような気がします」
「……なぜわかった」
「ふふ。なぜでしょう」
エリアーナは小さく笑った。
それは三年前と同じ、穏やかな笑い。
「欲張りすぎでしょうか」
「お前が欲張ってちょうどいい」
エリアーナはゆっくりと手を持ち上げ、エドヴァルトの手を探すように伸ばすと、エドヴァルトはその手を両手で包む。
かつて最後の夜に、そうしたように。
「殿下」
「何だ」
「嫌いだと、言えましたか」
エドヴァルトは少しの間、沈黙したのち答える。
「……言えなかった。三年間。ただの一度も言えなかった」
「それが答えですね」
「ああ」
エドヴァルトは深く息を吸い、それから静かに言った。
「愛している、エリアーナ」
それは謝罪だった。三年間の沈黙への謝罪。
それは約束だった。これから先の全ての時間への約束。
それは告白だった。言葉を持てなかった人間が、やっと見つけた言葉。
エリアーナは目を閉じた。まぶたの裏で涙が光った。
「……私も、です」
春の光が窓から差し込んみ、白い寝台の上で、エリアーナは静かに息をする。
温かい手に包まれながら、三年ぶりに世界の音を聞いた。
遠くで鳥が鳴き、風が窓のカーテンを揺らす。
あの夜、彼女は最後の願いを叶えてもらった。
嫌いだと言えなかった答えが、そのまま答えだった。
でも今朝、もう一つの願いが叶った。
それは願いのリストに書かなかった、一番の願いだったのだ。
エリアーナは長い療養を経て、再び王宮での生活に戻った。
体は完全に呪いから解放され、呪術師は「これ以上頑丈な方はおいそれとは見つかりません」と断言した。
エドヴァルトは変わっていた。
かつての険しさは消えたわけではなかったが、その下に何か柔らかいものが加わっていた。
エリアーナに言葉をかける時、以前より少しだけ多く言葉を使った。
少しだけ、そしてそれが積み重なって、かなりになった。
ルードヴィヒは変わらずにこにこしながら仕えた。
エリアーナが回復したと聞いた瞬間、彼は珍しく人目もはばからず涙を流し、翌日から何事もなかったように仕事を続けた。
ある春の日、エリアーナはエドヴァルトに言った。
「殿下、新しい願いがあります」
「言え」
「一番目の願いをもう一度。街に、一緒に行きましょう」
「構わない」
「今度は、パンを自分で買ってみたいです。それから、花屋も見てみたいです。あの花売りの少女に、また会えるかもしれない。ルースの花、今年も咲いているでしょうか」
「今は春だから、まだかもしれない」
「そうですね。では、秋まで待ちましょう。秋になったらまた行って、一緒に買いましょう」
エドヴァルトはエリアーナを見つめ、尋ねた。
「お前は、花が好きだったのか」
「はい。特に、珍しい花が」
「それなら庭師に言って、王宮の庭に植えさせる」
「まあ!それは贅沢すぎます」
「お前が欲しいものを、これからは隠すな」
エリアーナはしばらくエドヴァルトを見て、それから言った。
「では、もう一つ、今すぐに叶えてほしいことがあります」
「何だ」
「……名前で呼んでいただけますか。エリアーナ……いえ、エリー。と」
エドヴァルトは少し驚いた様子だった。
「エリー」
名前を呼ばれるたびに、世界が少しずつ変わる。
エリアーナはそれを感じながら、微笑んだ。
嘘はもうどこにもなかった。
三年前の呪いも、三年前の誤解も、三年前の沈黙も、全て解けた。
白い結婚だった三年間の先に、止まった三年間があって、その先に今がある。
今がある。
それだけで、十分だった。
春の光の中で、二人は並んで窓の外を見ると、庭には花が咲き始めていた。
それは、始まりの景色だった。
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