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第9話

「んーおそらく……こちら?」

 

 誰もいない廊下、まるで初めて足を踏み入れる遺跡を一歩ずつ確かめるように進んでいく。

 明導院家の邸宅、やはり広い。

 

 ここまで広いとかえって不便ではなくて? 住みやすさは我が家のほうに軍配が上がりますね。

 

 でもきっと千鶴がわたくしの家に来たら同じ感想を抱くのだろう。結局慣れているか否かなのである。

 

「一階ですよね……水回りなんですもの」

 

 エントランスの螺旋階段を降りながら呟いた。

 わたくしの体はシャワーを欲していた。昨日は結局睡魔に負けてベッドにくっついてしまったことに加えて、最悪な目覚ましによる汗で不快なのだ。サッパリしたい。

 そのために朝七時という実に健康的な時間にトレジャーハンターよろしく迷宮を彷徨い歩いているというわけだ。

 

 もしかして……二階? ありそう……お金持ちの家だから。

 

 ちなみにわたくしの家は一階にある。一階にあった(過去形)。

 

「あら」

 

 テキトーに覗いてみたドアの向こうには洗面台がある。そしてさらに続くドアの向こうは……。

 

「ありました〜」

 

 わたくしは嬉しさそのままに張りつく衣類から解放されると、強めの水勢のシャワーを頭から被る。幅広円盤で水のタイプをチェンジできるタイプのシャワーヘッドだ。気持ちいい。

 

 人のこと金持ち金持ちって、千鶴だってそうでしょうに……もう。

 

「はー気持ちいー」

 

 水を含んで重くなった髪に顔を傾かせながら、石けん類を拝借して、体をキレイキレイ。一時期朝シャンは健康に良いのか悪いのか騒がれていたが、結局そのとき気持ちよければそれでいいのだ。うむ。

 首元から胸の谷間、全身洗って足の指の間まで。肉体だけでなく魂の洗浄だった。

 

 にしても……日常的。

 

 今のところ水もお湯も不自由ない。

 シャワーを終えたわたくしは、長い髪をタオルで挟みながら窓を少し開けてみた。誰もいないだろうけど少しだけ。すると風に乗って朝聞いた鳥の(さえず)りが聞こえてくる。

 隕石が来るというのに、わたくしも自然も至って普通の日常を送っていて、危機感なんて微塵もなかった。焦っているのは人間だけだ。

 

 どうせ皆死ぬのに、生に縋るなんて無価値だこと。…………あら。

 

 しまった。

 わたくしとしたことが体を拭き終わってから、全裸の自分を見下ろして気づいた。

 

「服が無い」

 

 うーん、困りました。

 

 そもそも替えの服は家とともに灰塵(かいじん)に帰している。持ち合わせは無かった。

 流石に脱いだ服を再び着るのは、生理的に無理。汗をかいていること抜きにしても、それはできないタイプなのだ。温泉とかプールとかでも同じ。

 

 ん〜千鶴から借りましょうか。この際なんでもいいですし。

 

 そうと決まればさっさと髪を乾かしてしまおう。

 湿ったタオルをカゴに入れて、替わりに壁に掛けてあったドライヤーを持つ。

 この長い髪は見る分には良いものだが、持ち主となると話は別だ。なによりドライヤータイムが長過ぎる。この時間が散り積もしたら、それこそなにかしらの資格を取るとか有意義に使えそうな気がする。

 ぶぉぉぉーん。

 風量が大きい。それに温風と冷風を交互に出してくれる。良い代物だ。

 ドライヤーを小刻みに揺らしながら毛先を束ねてみる。枝毛は見当たらない。

 

「…………」

 

 ふむ。切ってしまいましょうか、これ。よく考えたらもう必要ないですね。

 

 自分でも美しいと思う緑の黒髪、思い入れはあるけれどどうせもう死ぬし、正直手間は掛かるから切ってもいい。

 

「っはよー、って裸んぼぉぅ!」

 

 朝から騒々しくドアを開けたのは千鶴。目尻に涙を浮かべて入ってきた彼女は、わたくしを見るなり、その寝ぼけ眼を覚醒させて叫んだ。

 

「あら、おはようございます。シャワーとタオル借りました」

「寝起きにせくしーなぁいすばぁでぃを見せつけるなぁ。すまんがしまってくれ、わしには強すぎる」

 

 わたくしは右手にドライヤー、左手は髪をかき上げていたため体のほうはフルオープンだった。

 

「そのことなんですが服が無いの忘れておりまして。どんなのでも構いません。下着と服を貸していただけませんか」

「おいおいおいおい! わぁーった! 持ってくる。だからこっち寄るな。隠せ」

 

 終始背中を向ける千鶴はばつが悪そうにカニ歩きになってる。

 

「あ、あとハサミもお借りしたく……」

「そこの引き出しに入ってるー。ったくもう少しレディーらしくだな……」

 

 ピシャリ。

 

「……賑やかですね」

 

 人類滅亡を楽しむだけはある。朝から活力漲る姿は面白いくらいだ。

 乾かし終わり、言われた通り引き出しを開けると、おそらく髪を整えるためと思われるちょうどいいハサミが出てきた。求めていたものぴったりだ。

 

「これくらい……かしら」

 

 鏡に向き合いながら短くする長さにハサミを当ててみる。

 

「というかこれってそのままバッサリして良いのでしょうか」

 

 美容師でもなければ自分で万全に整えていたわけでもない。鏡を頼りに切ったことがないから、どれだけ当ててみてもイメージは掴めなかった。

 

「短くなればいいでしょう。誰に見せるでもなし。どうせ死ぬんです」

 

 目指す長さは顎くらい。左手で束ねた髪を大きく開いてハサミで。

 ざっく、ざっく。

 

「だあああああッ!」

 

 またしてもうるさい声がした。千鶴は持ってきたものをほっぽり出すなり、わたくしの手から得物を取り上げる。

 

「なにやってん⁉︎」

「邪魔だから切ろうと」

「こんな美髪を⁉︎ めちゃくちゃ憧れの的だった黒髪を⁉︎ おまえ……周りがどれほど羨んでいたか……」

「そんな憧れられても……持ち主はわたくしなんですから自由に」

「にしてもだよ! 切り方! そんなんじゃぐちゃぐちゃじゃん! 許せん!」

 

 千鶴は麗しい髪が失われるのが惜しいとのこと。世界的絵画が斬られるのと同じでうんぬんかんぬん。

 そんなこと言われても困る、乾かすのが面倒だからとわたくしも対抗。

 

「じゃあせめて私に切らしてくれ! 綺麗なもんが目の前で失われるのを黙ってられん」

 

 問答の末、千鶴がおかしくないように散髪してくれた。わたくしにはスタイルなんてどうでもよかったのだが、おしゃれも命、そこは譲れないらしい。

 

「ふむ……言うだけはありますわね。中々にお上手」

「ほんっと偉そう。自分でやること多いからな」

 

 無造作に切った長さのバランスを取るため、全体はさらに短くなりハンサムショートに落ち着いた。バックが短くメンズライクなスマートさがわたくしの頭で顕現して少し笑ってしまった。似合わないわけではない。寧ろ素晴らしくできてるが、自分がこうなるイメージを持っていなかったから不思議と笑ってしまうのだった。

 

「にしてもこの髪綺麗だよな、もったいない」

 

 ある程度の長さの毛束を拾い上げて呟く。

 

「エクステとかウィッグになるかもしれませんね」

 

 世が世だったらヘアドネーションとかで送れば誰かの役に立ったことだろう。

 

「そうだよなぁ……これ、もらっていい?」

「どうぞ。それはもうわたくしのものではありませんから」

 

 切った髪がどうなろうとわたくしの知るところではなかった。

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