第62話
ネモフィラ畑を歩き回りつま先が痛くなってきた頃、わたくしたちは柵を越えて海際の崖に来ていた。当然立ち入ってはいけない場所だがここにもネモフィラは揺れている。
眼下には波が飛沫とともに打ちつけ、ずっと前方には大海原が煌めく。時間が時間なら天と地ではなく前後の青色に挟まれるだろう。
そして青かった空がいつのまにかオレンジ色に変わるくらいには、わたくしたちははしゃいでいたらしい。侘しげな空模様に自ずと帰る時間だと帰巣本能みたいなものが浮かんでくるが、今日はもう帰らない。正しくは帰っても間に合うわけがない。
「はぁ……でっっっっっか。巨大」
仰ぐ空には地面があった。
空から陸が落ちてきているようだった。大気の摩擦熱によって赤黒く焼けた表面は何本か白い帯を靡かせている。
落着予定時刻十分前、隕石は肉眼でもはっきり捉えられるくらい近くにあって、その大きさにわたくしは圧倒されている。
「なんか止まってるみたいですけど、ああ見えて途轍もないスピードで迫っているんでしょうね」
大気が乱れているのか、普通じゃない強風に翻るヘッドドレスを押さえた。
「実感無いけどいつの間にかこんだけ近いとそうなんだろうね」
さらに意外と静かだという点も非現実感に輪をかけている。これだけ巨大な存在があるのにゴゴゴみたいな音は聞こえてこず、風音以外はぬっと浮かんでいるだけなので不気味だ。
そのときつんざくような音が飛来する。
振り返ればいくつもの戦闘機がやって来て頭上を通過し、隕石に向かっていった。
「おーがんばれ〜」
わたくしたちは手を振って見送る。
雀の涙であろうと、少しでも隕石を削るべく破砕作業を行うのだろう。きっと自衛隊だけでなく他国の戦闘機もいるに違いない。効果は絶望的だとしてもやれることはやる、不撓不屈の精神が感じられる。一気に迫力が増した。
「映画見てるみたい。あるよねこういうの」
「アルマゲドン?」
「そーそーそんな感じ。知ってるの?」
「海外出張の旅客機で暇過ぎるときに観ましたね」
「…………」
「…………」
しばしの無言。
揃って隕石を眺める。
人は今から死ぬぞという状況を前にしてなにを語るべきなのだろうか。
過去の思い出話か、はたまた命乞いか、あるいは一縷の望みをかけた祈りや希望か。多分どれもそうだしそうじゃない。結局は正解なんて人それぞれで、わたくしにはわたくしなりの言いたいことがある。
「千鶴…………わたくし死にたくないですわ……」
ぽつりと溢す。
千鶴は少し間が開いてから鼻を鳴らした。
「……前のユヅっちが聞いたらびっくりするね」
「だって……千鶴のことがこんなに好きになってしまったんですもの」
わたくしと目が合った千鶴はハッとする。
わたくしの瞳が潤んでいるから。
隕石衝突に対する初めての怯え。そこから来る涙だった。
「嫌なんです……」
涙が純白のシューズに落着する。
「死んであなたに会えなくなるのが嫌! 死ぬよりもずっと嫌……」
ドレスのスカートを握り込んだ。
「もっと早くあなたと結ばれたかった!」
理想を吠える。
「もっとたくさん愛し合いたかった!」
頭を振って現実を否定する。
「もっと長くあなたと生きたかった!」
唾が飛ぶほど叫ぶ。
「この一週間じゃとても足りないの……佐藤夕鶴羽としてあなたと……。もっと早く見つけ出してよ、ばかぁ……もっと……っ」
縋るように薬指のリングを胸に押し当てる。溢れ出る涙は靴と地面をポツポツと濡らしていった。
そもそもわたくしたちは隕石衝突がきっかけで結ばれている訳だから土台無理な話である。駄々をこねるような理想のたらればだ。
だけどそれを望んで止まないくらいに千鶴の存在はわたくしの心を支配しているのだ。生きるための歯車をあなたが動かしてくれたのだから、往生で止まるまで責任持って見届けて欲しい。あるいは見届けるのがわたくしだっていい。
とにかく、もっと、もっと……。
「泣かないで」
すっと目元が拭われる。
「っ……!」
拭ってくれた彼女の左手にはわたくしと同じリングが夕日を反射していた。
「私も同じでもっと一緒に生きたかったって思う。だけどね私たちは今日で終わりじゃないよ」
「でも!」
千鶴はポシェットからなにかを取り出す。それは二つの輪っか、手錠だった。千鶴は手錠をわたくしの手首にカチャリとかけて次いで自らの手首にもかける。
「ユヅっちがくれたこれのおかげで、離れずに済むから。ね?」
彼女は安心させるように腕を持ち上げるとわたくしの手首がそれに従う。ぶんぶん振ってもついて回る。
「私たちはこうやってずぅーーーっと一緒なの! 来世も! 来来世も! 生まれ変わってずっと一緒に生きる! 生まれ変わって離れていても私が必ず見つけだす! あの始まりの夜みたいに迎えにいくから!」
キャンプの日、わたくしが一方的に別れるために使用したあの手錠が、逆にわたくしたちを繋ぎ止めてくれる。さらに千鶴は約束するように手錠で繋がれた手を恋人繋ぎで絡めた。わたくしたちの結びつきはより強固になる。
「愛する妻を信じてみて」
聞こえのいい、絵に描いた理想みたいな言葉で確実性なんて到底無いだろうけど、わたくしは疑う余地もなく信じられた。
『私が楽しい思いさせてやる! それも初めての!』
『一度は捨てたその命、私に賭けてみない? 元より捨てちまうものなんだから減るもんじゃないだろ。その賭け分、超絶でっかくして返してやる』
始まりの夜にくれたはったりみたいな宣言だって彼女は完遂したくれたのだから。千鶴なら世界を何度生まれ変わっても毎回駆けつけてくれるだろう。不可能を可能にしてしまう女性だ。
「……もし来るのが遅かったら、叱りにいきますからっ……なにやってたのって怒りにいきますからっ、覚悟しておいてください!」
半分泣いてつっかえながら、もう半分の笑顔で言葉を絞り出す。
「じゃあ競争にしよ、私が先に声かける」
「わたくしだって負けませんよ。あなたFPSに夢中で遅れないでくださいね」
「ユヅっちは美食巡りして遅いんじゃない?」
「あなたと飲みにいくお店を先にリサーチしておくんです」
売り言葉に買い言葉だった。
やがて二人してコロコロ笑う。
「死ぬときくらい笑顔がいいっしょ」
「ええ、間違いないです」
海を見やれば隕石はもう空際に接するところだ。
時計を見る。
落着まであと一分。
「夕鶴羽!」
「千鶴!」
手錠で結ばれた手を引かれて走りだす。
ヒールは脱ぎ捨てて、素足で地面を蹴る。
大海原に向かって。
飛んだ。
純白のドレスのスカートを翼のように広げてどこまでも。
一際強い風がびゅうと吹き荒んで背中を目一杯押す。
さらに風は群生するネモフィラの絨毯をも舞い上がらせて青い花嵐となり、祝福するようにわたくしたちを送り出してくれた。
彼女の口元が動く。
「 」
激しい風音で聞こえなかったけど口元の動きだけで完全に理解できた。
「あいしてる」
わたくしも肺の空気を全部出すくらい愛を叫ぶ。
千鶴を抱き寄せて、強く強く唇を重ねる。
わたくしが千鶴を確かめるように。
千鶴がわたくしを確かめられるように。
水平線に光。
その光が広がって全てを覆い尽くすまで、わたくしは千鶴を目に焼き付け続けた。
ずっと、一緒。
重なり合うわたくしたちの体は、塵の一つも残さず消え去った。




