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第54話

 お腹も満たされ、夜も更けた午後八時頃。

 インスリンの気怠さで漫然と過ごした食後時間を終えて、わたくしたちは待ちに待ったお風呂に入ることに。

 檜で構築された暖かな脱衣所で服を脱ぐ。

 

「これで身も心もさっぱりできますわね」

 

 渓流の水浴びも良かったがやはり浸かるならお湯だ。今宵は心ゆくまで湯に浸かろうではないか。

 

「缶ビールもあるから最高だね」

 

 千鶴が賭けで手に入れたお酒入りの袋をわしゃわしゃ漁る。

 

「ユヅっちは微アルコールのやつね。ただでさえ弱いしお風呂だし」

「えぇ、死なないように気をつけますね」

「…………」

 

 急に静かになった千鶴はブラジャーを外そうとする姿勢そのままに瞠目していた。

 

「なにか……?」

「いんや。やっぱりそっちのほうがいいなって」

 

 満足気な笑みを浮かべて丸めていたシャツを景気良くパンと伸ばした。

 脱衣所からは露天風呂と屋内風呂の二つに繋がっていた。きっと屋内風呂も素晴らしいだろうがもちろん今日は露天の方へ。タオルとビールを手にし、足裏の感触が木材の温もりから石のひんやりしたものに変わる。

 

「うぅさぶい。シャワーシャワー」

 

 素っ裸での夜風は痛いくらいに沁み入るので逃げるように水栓を捻る。湯の使い過ぎも気にせずに、爪の間の血汚れなど隅々を入念に洗うと清々しい気分になり体が軽い。

 掛け湯で体を慣らしてから爪先からそろりと入り、沈めていくと肌がぴりりと熱くて痒い。

 

「「はふぅぅぅー」」

 

 底に腰を据えたときには両者からそれはそれは深い、ここ数日の疲労を丸ごと吹き出すようなため息が飛び出した。

 

「やぁ〜堪らんですなぁ」

「極楽極楽。全身がほぐれていきます」

 

 二人の声は東屋の屋根を軽く越えて竹林に響く。だだっ広い湯船は二人がいくら四肢を伸ばしても窮屈にならない湯の大海だった。

 

「竹がめっちゃライトアップされてる。色鮮やかだよ」

「本当ですか? それはさぞ」

「なんかね、青色になったりピンクになったりしてる。幻想的だね」

 

 確かに明暗が緩やかに変化しているのはわたくしの目でも分かった。

 

「私的には緑のときがいっちばん綺麗だね。竹の緑とライトの緑がいい感じ」

「ふふ。千鶴がそう言うなら緑が一番綺麗なのでしょうね。今は何色ですか」

「今青色で……次緑! 次次これこれこれ!」

 

 ばしゃりと音を立てて指を向ける。やっぱりその先に色は見えないけれど、はしゃいだ顔を見ればいかに美しいのかが察せられる。それだけで満足感が内を満たした。

 お湯の中でぐぅーんと腕を伸ばす。

 

「さて、花より団子ではないですが、お酒もいただきましょう」

「先回りして予防線張ってるけど、絶対団子が待てなくなっただけだよね」

「さぁなんのことだか、はい乾杯」

 

 今日だけで一年分くらいの缶を開けてきたがこれが締めとなる。

 こつん、ビール缶を合わせてぐいっと呷る。

 芳醇な苦味が流入して、口が弾けた。

 

「かぁぁぁ美味しいですわ」

「慣れ過ぎじゃない? 実はこっそり飲んでた?」

「イメージトレーニングしてましたから。にしてもビール美味しいですわね。これも好きです」

 

 ワインも好みだが、ビールもまたいける。濃いめの味付け、それこそクジラ肉と一緒に飲めば天国が出来上がりそうだ。

 

「はぁ〜明日私たち滅亡するらしいねぇ〜。実感ゼロだわ」

 

 確かに死亡前夜だというのにのんびりし過ぎていて苦笑してしまう。人間、死を目前にしたらもっと慌てふためきそうなのに、やってることといえばゆったり湯浴みである。

 

「殺伐として死に怯えるよりはよっぽど良い時間では?」

「それはそう。殺し合いとかもういいわ。満足した」

「満足といえば、やりたいことリスト結構余りましたわね」

「まぁ実現可能性とか考えずに書いてたからね」

 

 ボルダリングとかスワンボートとか結婚式とかがあった気がするが、今世では縁が無かったということで。

 

「この温泉がやりたいこと筆頭みたいなものでしょう。これだけでも良きかな良きかな」

 

 ビールを呷ると弾ける炭酸が喉を走る。温かい湯とお酒があれば人生はかくも幸せなのだ。

 

「イッキはしないでね」

「しないでですわよ、そんなこと」

「しないしないって言って泥酔したのはどなたでしたっけね〜」

「ぐぬ」

 

 痛いとこを突いてくれる。それを言われるとわたくしはどうしようもない。

 

「大変ご迷惑を」

「いいって。じょーだんじょーだん」

「以前のことは反省しています。申し訳ないです」

「大丈夫だってー」

 

 律儀に千鶴に頭を下げようと向きを変える。

 それを止めたのは、他でもない千鶴だった。

 

「じゃ、謝るんだったらさ……唇貸してよ。前みたいにさ」

「えっ」

 

 前。

 それが指すのは間違いなくお酒で失敗した夜のこと。

 千鶴はいつもの小悪魔笑顔をニッとつくった。

 だけど。

 いつも見ていたから分かる。

 今日の笑みはなんだかぎこちない。

 

「嫌じゃなかったんでしょ? だったらもっかい確かめてみる?」

 

 口調が早い。

 早口で言った千鶴は手を水面でぱちゃぱちゃ遊ばせた。

 

「……」

「やっぱ変なこと言っちゃったかな〜。なんでもねぇ、今のナシ」

「…………あなた、わたくしと……キスしたい?」

 

 千鶴が一際大きな咳払いをする。

 

「いや! えっと、そんなことないけど」

「…………」

 

 露骨にアイコンタクトを避け続ける。

 

「したい、でしょ?」

「えぃやぁ…………ぅん……」

 

 ぶくぶくと顔が沈んでいくのを見て、わたくしは胸のつっかえが取れたようなスッキリした気分になった。

 今の千鶴が愛おしくて堪らない。

 きっと彼女はキスがしたくて、でも言いにくくて。

 流れに任せて口走って、少し悔やんで、動揺して。

 

「千鶴……」

 

 彼女の細い手首をそっと包んだ。

 

「な、なに」

 

 彼女の強張りが伝わってくる。

 

 正直に、そのまま伝えてくれればいいのに……。

 

 百面相をする顔を見ながら思うけど、正直に伝えられないのはわたくしも一緒。

 わたくしだってこの気持ちの向かう先を確かめたくて、でも違かったらいけないから言い出せなかった。これを言葉にしてもし違かったら、拒絶されたら、今までのように戻れない不安があったから。千鶴に向かって伸びた橋はあまりにも脆かったのだ。

 彷徨わせ続けた千鶴の視線とわたくしの視線が絡み合う。

 喉が鮮明にごくりと鳴る。

 

 だけどあなたが、キスを望むならそういうことなのでしょう?

 

 わたくしは昨日の夜からとっくにその気になっている。

 

『私にとってユヅっちがいない世界は無価値なんだ。呪いがあったとしても、うるせぇ関係ねぇつって一緒にいたい』

 

 あの冷たい夜の森でくれたあなたの言葉はわたくしを温かく照らした。

 わたくしは真の意味で生きたいと。

 生きねばならないと、希死念慮の呪鎖から解き放たれたのだ。

 わたくしが返せたのは、誤魔化しで包装された不明瞭な言葉だったけど。

 

 あなたが示してくれたからわたくしも応えられる。

 今日は濁さない。

 わたくしの思いを、あなたの思いを確かめる。

 

「千鶴、聞いてください。わたくしはあなたに恋をしています」

 

 彼女の息が吸われて、止まった。

 

「好きです。大好きです。わたくしを救ってくれたあなたをとてつもなく愛しています。だから……受け取ってください」

 

 顔を上げ、唇を、そっと差し出した。


 返答は矢の如き速さだった。

 背中に回された腕の感触にびくりとする暇も無いまま力強く引き寄せられ、わたくしたちの唇は重なり合う。

 蕩けるような柔らかさから彼女の体温が流れ込んできて頭を酔わす。

 目を少し開くと愛しい彼女の顔が近過ぎて、それだけで心臓が跳ねる。跳ねた心臓はキラキラしたときめきを全身隅々まで行き渡らせた。

 

「ユヅっち……私はずっと、ずっと前から好きだったんだ。だけど私とユヅっちじゃ不釣り合いだからって諦めて隠してた……けど、今こうして両想いになれて……幸せだ」

 

 世界に色彩が宿った。

 千鶴を中心に彩りが、広がっていく。

 

 千鶴の頬が、赤い。

 恋とは魔物かもしれない。

 一度好きを確かめてしまったら、ほんのり上気して朱が交わった表情にも、肩を抱いてくる手の機微にも、密着する裸体の柔らかさにも、全てに反応してしまい内側にくすぐったさが走る。

 

「千鶴……」

 

 ざばぁと波を立てて首に腕を回した。こんなにただっ広い浴槽なのに、わたくしたちはお互いを求め合って密着する。

 視界の隅に、緑光に照らされた絶賛の竹林が映るが、それを見ている余裕は無い。

 

 なぜならこの世で最も美しい、愛する人の表情を前にしているのだから。

 

 表情から視線を滑らせれば隠すものがなに一つない艶めいた体。

 昨日もさっきも見ていた彼女の体に今さらながら焦がれる。揺れる水面の下に隠れる部分まで見たい触れたい愛したい。

 心拍がバクバクして爆発しそうだった。

 激動が伝わったのか、千鶴はわたくしの耳朶を湿らせるように呟いた。

 

「やりたいことリスト……」

「ん…………」

「今増えたでしょ」

「うん…………」

「まだやったことないこと……しよっか」

 

 見上げる彼女の表情は凛々しくて、お腹の奥底が震える。

 

「行こ」

 

 二人してのぼせたような様相で温泉から上がった。実際のぼせていたのかもしれない。

 温泉とアルコールと恋情で煮えている。

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