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第52話

 荷物は部屋の玄関に置いてから、おばさまに断りを入れて街路に隣した庭に出る。ここなら射場から的までの矢道二八メートルが確保できるし、的と同じくらいの高さに物が置ける岩もあった。

 

「坊や、なにか当てて欲しいものある?」

 

 千鶴が男の子に問いかけると小さなカバンに入っていたペットボトルを出した。残り少ない中身を一気に飲んで空ボトルをくれる。

 

「いけるよね?」

「無論」

 

 今回は見られる行射(ぎょうしゃ)なので体配もきっちり、すり足で的前につく。二八メートル先の千鶴が設置したボトルは、色の無い視界でも問題なく捉えられた。

 

 左肩を的に向けるように立ち、左足、右足の順に開いて逆ハの字。上半身と下半身の力を調整して胴作りを経てから矢を番える。

 顎を引いて的を見据えるとき、視界の端にこちらを眺める浴衣姿があった。あの家族以外も見物しているらしいが、そんなことで動じるほどやわではない。

 弓を起こす。そして弓を支える左手を的に向けて伸ばしながら、矢のシャフトに口付けするくらいの高さへ下ろす。

 腕、肩、背中の筋肉を総動員して弓の爆発寸前の力を手懐ける。

 

 辺りが静寂に包まれた。

 そしてその時は突然訪れる。

 

 ここ。

 

 弦が矢を押し出し、空を疾駆して、的の元へ。

 矢がボトルを砕き飛ばした。

 

「「「おおおおおおっ!」」」

 

 拍手喝采である。すごいすごい! と男の子が飛び跳ねている。

 しかし今は残心。

 中った喜びや歓声に動じず心を落ち着けてから、ゆっくりと構えを解いた。

 

「素晴らしいです……弓を射る姿ってこんなに美しいんですね」

 

 男の子と手を繋いだ母親がいの一番で駆け寄ってきた。

 

「ご満足いただけたようでなによりです」

「お姉ちゃん! 次はこれもいける?」

「ええ」

 

 少年の次なるお題を千鶴にセットしてもらう。そしてこれも命中。わたくしにかかれば問題ない。

 

 ふぅ……気持ちいいですわね。

 

 心地よい。

 内なる自分と対話しながらの弓引きは穏やかな爽快感がある。完璧な体捌きで構え、機に離れれば、矢は確実に中る。この一連の履行は何度やってもクセになる。

 

 だがわたくしの静かなる興奮をよそに、観客はかなり増えて盛り上がっていた。旅館の宿泊客だけでなく、街路の人たちもこちらを眺めている。

 

「っ…………」

 

 観客くらいで動じるほどやわじゃない……と思ったが、この人数は話が違う。親子だけならまだしも知らない他人が多過ぎる。

 何対(なんつい)もの視線に貫かれていることに気づき、奥底の嫌な記憶が呼び起こされる。

 

 もしわたくしが澄凰だと知られてしまったら……。

 

 全ての人間に敵対されるという学校での苦痛は、容易く瞼の裏に浮かぶ。

 昇降口で気を失ったあのときと同じような感覚で背中に嫌な汗が浮かんだ。

 

「ユヅっち、もうやめとく?」

 

 千鶴がわたくしの腕を掴んでくれた。そこで初めて自分が小刻みに震えていることに気づく。

 

「わたくし……」

「お姉ちゃん、もう終わっちゃう?」

 

 男の子がわたくしを見上げていた。

 

「カッコいいお姉ちゃん、もっと見たい」

 

 やっぱりその目は憧れでキラキラしていて、尊くて……。

 わたくしにそれを曇らせることはできない。

 

「ふぅ……」

「お姉ちゃん?」

 

 深く息を吸い込み、口から吐き出す。

 悲惨な過去の記憶なんて今は邪魔だ。

 今目の前に全力集中。

 

「一瞬たりとも見逃していけませんわよ。しかと目に焼き付けておきなさいな」

「わぁ……うん!」

 

 散々嫌悪と恐れを向けられてきたが、この少年の視線は違う。

 期待。憧憬。そして感謝。

 この感情なら、背負える。

 きっと周りの人の視線も同じ思いのはず。

 

 ならば夕鶴羽、それに応えてみせましょう!

 

「やりますわよ! 千鶴!」

「おーけー! じゃあ私もそれに乗っかっちゃおうかな〜」

 

 千鶴は少し高い岩にひょいと飛び乗ると、声を出して叫んだ。

 

「さぁさぁ! 皆さんご覧あれ! 今からこの子が弓道を披露しまーす! そして的は! ……んとこれでいいや……このリップ!」

 

 リップクリームを掲げるがそれは、あまりにも小さい。

 

「小さすぎだろ」

「あれに向かって撃つの?」

「ほんとに言ってる?」

 

 ざわざわと観衆が揺れた。

 

「小さいでしょう、小さいでしょう! その通りとーっても小さい。果たしてこれに命中させられるか、こちらで賭けを開催します! 賭けるものはなんでもござれ。お菓子にお酒、雑貨にゲームエトセトラ。さぁ張った張った!」

 

 人を賭け事に使うとは、なんだか競走馬になった気分だ。

 だが悪くない。

 千鶴が焚きつけた高揚感が背中を押してくれる。

 

「嬢ちゃんたち面白いねぇ! 当たるに賭けるよ!」

 

 張りの効いた声が先陣を切る。そんな気前のいいおじさまを皮切りに我先にと思い思いの品を差し出して参加者が増える。

 加えて賭けに出された年代ものの日本酒など景品に釣られてさらなる参加表明が相次いだ。絶対管理できないだろうに、景品はみるみる膨らんでいく。千鶴も予想外の盛況に動揺しててんやわんやだ。

 しかしながら、それよりもわたくしが気になったのは「外す」にベットした人たちのこと。

 

 見くびられましたわね。

 

 (ゆがけ)を再度手に馴染ませながら闘志を燃やす。

 臆面すらも薪にして、その火は、熱は指先まで駆け巡る。

 目をかっぴらいて、二八メートル先を鋭く見据えた。

 

 その賭け、後悔させてみせますわ!

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